恋愛経験の無い男
屋敷の裏手では、ジルベルトがいつものように薪を割っていた。
雪の積もるこの季節、薪割りはジルベルトの日課となっている。
割った薪は軒下にある棚に並べ、一年かけて乾燥させる。こうしてまた薪を蓄え、来年の冬に備えるのだ。
ただ、今朝は調子が出なかった。頭は余計なことばかり考えてしまって。
気がつくと斧を持つ手はピタリと止まっており、これではいけないと我に返る……もうかれこれ一時間ほど、不毛な時を繰り返している。
雑念を振り払うかのように薪割りを再開しても、しばらくすればじわじわと昨日の記憶が復活し、いつの間にか動きは止まった。これでは、いつまでたっても終わらない。
『わたくし、ジルベルト様を愛しておりますの。こちらへは、ジルベルト様の妻になりたいと思って参りました』
『わたくしはいつまでもお待ちします。一年でも、五年でも、十年でも……ジルベルト様が振り向いて下さるまで』
(……何だったんだ、あれは)
昨日、メリッサとの諍いに割り込む直前、ジルベルトはドア越しに聞いてしまったのだ。
フィオレンティナが口にしたのは、真っ直ぐでいて強い想いが伝わってくるような……そんな揺るぎない声だった。
(あれは一体どういうことだ……?)
どれだけ目の前の薪を見つめても、ジルベルトの脳裏には昨日の言葉が蘇る。
そうなるともう、脳内は来年分の薪を割ることよりも、今いるフィオレンティナのことで一杯になってしまって。
とうとう、斧を振り上げる勢いは完全に停止した。
ジルベルトは仕方なく薪を割ることは諦めて、そばにある丸太に腰をかける。
斧を手放した両手は、自然と頭を抱えた。
二十六年間、恋愛経験の無かった頭だ。
(駄目だ……まったく、わけが分からない!)
ゴシップ誌を読んで、ジルベルトはフィオレンティナの事情を分かったつもりだった。
彼女がアルベロンドへやって来たのは『王都に身を置く場所がないから』であり、北の大地アルベロンドで第二の人生を送るため、ノヴァリス伯爵家にしがみついているのであり――
せっかく、もっともらしい『理由』を見つけて無理やりにでも納得しようとしていたのに。
やはり、そうでは無いらしかった。
フィオレンティナはジルベルトのことを『愛している』ようなのだ。五年でも十年でも、ジルベルトの気持ちを待てるくらいに。
ドア越しに聞いたその声は凛としていて、とても嘘であるとは思えなかった。しかし。
(……彼女とは初対面のはずだ。なのに何故あんなことを)
ジルベルトはアルベロンドからほとんど出たことのない男だ。フィオレンティナだってずっと王都で暮らしていた、雲の上の人間だ。
以前問い詰めた時にも、彼女は言っていた。「お会いしたことはありません」と。
つまり、フィオレンティナに愛される覚えが無いのだ。
なぜ。なぜ。なぜ。
混乱している。もう、彼女に出会ってからずっと――
「ジルベルト様!」
その時、頭を抱えるジルベルトの後ろから、フィオレンティナの声がした。
彼女のことを考えすぎて幻聴が聞こえたのかと思ったら、ちゃんと本人だ。
振り向いたジルベルトのもとへ、フィオレンティナが子犬のように走ってくる。今日は空色のワンピースに白いエプロンをつけて、頭には小さなツバのついた調理用の帽子をかぶっていた。
「ま……また、何故そのような格好を……?」
「あら、今日はメイド服ではありませんわ。エプロンはリリアンのものをお借りしましたけれど、服はちゃんと町で買ったワンピースでしてよ。それにこの帽子、とっても可愛らしいでしょう! ルシオに借りましたの」
「ルシオに?」
ルシオとは、ノヴァリス伯爵家の厨房を担当しているコックだ。明るく気さくな性格が、メイドのリリアンと良く似ている。
彼から借りたという帽子は、調理する際に被るものだった。フィオレンティナの小さな頭には少々大きく、時々ズレては被り直している。
「ルシオの帽子……一体、君は何をしていたんだ?」
「いいから来てくださいませ! さあジルベルト様、はやく」
フィオレンティナは腕を引っ張り、戸惑うジルベルトを立ち上がらせた。そのまま屋敷に連れていきたいようなのだが、足元には割った薪を放置したままだ。これではいけない。
「待ってくれ。まだ薪が散らかったままだ」
「片付けでしたら、あとでわたくしもお手伝いさせていただきますわ。先に来てくださいませ! 焼きたてでないと……」
彼女は手伝うと言うが、『エルミーニの薔薇』に薪の片付けなどさせられるわけがない。
いや、それよりも――
(焼きたて?)
彼女は何を焼いたというのだ。
彼女の力は意外と強くて、どんどんフィオレンティナへと吸い寄せられる。
先ほどまではフィオレンティナの存在に頭を抱えていたというのに、今度は手を引っ張られて――彼女がノヴァリス伯爵家へ来てからというもの、身も心も振り回されっぱなしである。
けれど、それが不思議と嫌では無い。
ジルベルトは彼女の小さな手に引かれながら、散乱した薪の山を後にした。
連れていかれたのは、我が家の食堂だった。
白いテーブルクロスの上には大きなカゴが置かれており、山積みになったパンが焼きたての香ばしい香りを漂わせている。
「リリアン、ルシオ。ジルベルト様をお連れしましたわ」
「あっ、見てくださいジルベルト様! これ、フィオ様が焼いたんですよ!」
食堂では、メイドのリリアンが待ち構えていた。
後ろにはコックのルシオも。二人は戻ってきたフィオレンティナの両側に立ち、にこにことジルベルトを迎え入れる。
「フィオが、パンを焼いた……?」
「そうです。初めてにしてはとってもお上手だと思いませんか?」
「早起きいたしまして、ルシオに教えていただきましたの」
エプロン姿のフィオレンティナは、満足げに微笑んでジルベルトの言葉を待っている。
彼女とは出会ってまだ四日目であるが、ジルベルトには分かってしまった。
これは、褒めて欲しい時の表情なのだ。フィオレンティナの期待に満ちた瞳が、褒められたくてじっとこちらを見つめている。
「……凄いな。初めて焼いたとは思えない」
「わっ……やりましたねフィオ様!」
「大成功ですわ……!」
ジルベルトが一言褒めただけで、目の前の三人は、ぴょんぴょんと跳ねながら手を取り合った。
三人の計画は『大成功』であったらしい。
(大袈裟だな……)
べつに、期待されているのが分かったから褒めたというわけでもない。
本当にルシオが焼いたパンと遜色ない仕上がりであったし、言葉にすればフィオレンティナが喜ぶと思ったからで――
「それではジルベルト様、召し上がってくださる?」
「ああ、いただこう」
「嬉しいですわ!!」
喜ぶフィオレンティナの笑顔は、まるで野に咲く薔薇のようだ。
こうして期待されることも嫌では無いなと、ジルベルトは思った。




