259話 無支祁
「此方は、この問題を解決する手段を求めて、陰陽同好会に入りました」
玉座の間から退出した後、夢乃が語り出した。
「2年間で、助力を願える糸口を見つけようとしていたところ……」
「飛んで火に入る夏の虫が、居たわけだな」
B級程度が抱える問題なら大したことはないと、軽々しく思った一樹の見誤りだ。
礼品を約束されているため、正式な依頼だと考えて、受け入れるしかない。
「夢乃にとって国家試験は、どうでも良いわけか」
「遣いの大鬼を1体、憑けて頂いております故」
「B級の憑き物が居るなら、試験くらい容易いだろうな」
大鬼とは、源平盛衰記に記された化け猫の仲間だろう。
一樹が感知した猫の気配は、布引の滝に現われた竜宮の遣いだったわけだ。
「それで何仙姑様すら煩わせているのは、一体何だ」
「無支祁は、御存知でしょうか」
「中国の無支祁だったら、大まかには聞いたことがある」
無支祁は、夏王朝(紀元前2070年~ 紀元前1600年頃)の禹王が、治水工事を行った際、桐柏山(河南省と湖北省の境界にある山脈で水源の一つ)で、強風と雷を起こして抵抗した神の名だ。
無支祁は、全長15メートルほどの猿に似た姿で、青い身体に白い首、金色の瞳、白い牙、首は30メートルほど伸ばせて、怪力にして疾風の如く俊敏だった。
禹王の臣下は何度も鎮圧を試みた末に捕らえたが、神の身であり、武器では殺せなかった。
そのため首を鎖で繋ぎ、鼻に穴を空けて金鈴を取り付け、淮河(中国で長江・黄河に次ぐ第三の大河)に沈めた。
それから、遥かに時を下る。
唐の永泰年間(765年~766年)、楚州(現在の江蘇省。北部は淮河が流れ、中国と朝鮮半島の間にある黄海に面する)で、李湯が刺史(知事)をしていた頃。
ある夜、漁師が楚州で釣り糸を垂れていると、まったく引き上げられない大物が掛かった。
泳ぎが得意な漁師が海中に飛び込み、深く潜ったところ、鎖が水中に沈められていた。
どこに繋がっているのかと怪訝に思った漁師が報告し、李湯の耳にまで届く。
李湯は、泳ぎに長けた数十人の漁師に命じて、鎖を引き上げさせようとした。
だが人力では鎖を引き上げられず、50頭あまりの牛も使って、ようやく鎖を引き上げた。すると鎖の先には、15メートルあまりの猿に似た怪物が繋がれていた。
引き上げた時には、目が閉じられたままで、眠っているようだった。
目や鼻から海水が流れ出し、口から流れるよだれは酷い悪臭で、誰も近付けない。
暫く経つと怪物は目を覚まし、荒れ狂った。
人々が逃げ出すと、怪物は鎖を引き摺りながら、海中に戻っていった。
「その無支祁が、蓬莱に流れ着いたとか、そういうオチか」
「ご推察のとおりです」
「東海の安寧を保つ立場の何仙姑様だと、悪臭を放つ物体を東海に捨てられないな」
「神を相手に、直接手を下すことも、憚られそうですね」
状況を理解した一樹は、深い溜息を吐いた。
「俺が使役する幽霊巡視船に鎖を繋いで、どこかに引っ張っていけば良いかな」
「そうして頂けましたら、仙境の出入り口の濁りが浄化されます」
「……地球で最も深い海って、何処だったっけ」
一樹は自らに問いかけるように呟きながら、蓬莱宮の荘厳な玉座の間を後にした。
「北西太平洋にあるマリアナ海溝は、水深1万メートル以上だそうです」
夢乃は一歩後ろを歩きながら、静かに答える。
「日本列島からは、南に約2500キロメートルになります」
「幽霊巡視船の速度だと、片道2日と少しか。引っ張ると遅くなるから、呪力を多目に籠めて、往復してもらうか」
幽霊巡視船には、45人の幽霊巡視船員が付いている。
一樹自身が乗船せずとも、指示しておけば彼らが行って、任務を果たしてくれるわけだ。
無支祁を引っ張っていって、目標地点で切り離す。
トラブルがあれば、その時点で切り離す。
内容が単純明快で、途中で指示を出さなくても良い。
つまり一樹の気が、幽霊巡視船に届かなくなっても良い。
「やることは理解した」
「よろしくお願い致します」
一樹は短く頷きながら、夢乃と共に宮殿の回廊を歩き始めた。
蓬莱の宮殿から外へ出ると、視界が一気に開ける。
空は霞がかった青で、現世とは異なる透明感を帯びている。淡い霧が陽光を和らげ、空間全体に柔らかな光を満たしていた。
道の両側には、瑠璃や翡翠でできた灯籠が並び、微かな光を放っている。
それらはただの装飾ではなく、霊的な気配を含んでいた。
足を止めた一樹が灯籠に手を翳すと、ひんやりとした感触が掌に伝わり、内部から脈打つような波動を感じた。
「これ一つでも、滑石製の勾玉と遜色がない霊物だな」
「ここは三神山に数えられる仙境ですので」
一樹は灯籠から手を離し、再び歩き出した。
蓬莱宮を抜けると、その先には黄金色の砂浜が広がっていた。
波打ち際には、淡い光を放つ貝殻や珊瑚のかけらが散らばり、波が引くたびに輝きを増す。
海は静かで、どこまでも青く澄んでいる。
しかし、その奥に広がる深淵には、何か得体の知れないものが潜んでいるようにも感じられた。
「無支祁は、この海域のどこに?」
一樹は海を見渡しながら尋ねた。
「あちら側、南の沖です」
夢乃が指差したのは、数百メートルほど先の沖だった。
周囲の海は綺麗に見えるが、蓬莱の基準では濁りが混ざっているのかもしれない。
一樹は小さく息を吐いた。
「では、始めるとするか、『PL200、出て来い』」
一樹が静かに海へと手をかざすと、海上に羽根が落ちるほど静かな揺らぎと共に、白と青の船影が浮かび上がった。
まるで蜃気楼のように現われた幽霊巡視船に向かって、一樹は念じる。
『無支祁の鎖と、巡視船にある2本の錨を繋いで、マリアナ海溝まで曳航してから投棄しろ』
錨とは、船が流れないように、綱や鎖につけて海底に沈める重りのことだ。
中型以上の巡視船には、両舷に1つずつ錨が搭載される。みやこ型巡視船は、大型に分類されており、もちろん搭載されている。
一樹の指示で動き出した幽霊巡視船は、無支祁が沈んでいる海上へと向かい始めた。
「取り付け作業をするための潜水は、幽霊船員がするのですか?」
「そうだ。幽霊だから呼吸は必要ない。楚州の刺史が命じた漁師達より、上手くやれるだろう」
無支祁は、古代中国では神の1柱に数えられた存在だ。
おそらく猿などから昇神して、桐柏山に神域を生み出し、治水工事で神域を荒らされたことから抵抗して、夏王朝の禹王に倒されたのだろう。
全長15メートルであるから、推定で荒ラ獅子魔王に匹敵するS級以上の力を持っていた。
だが神域を失って呪力の回復がままならず、その都度で起きて暴れるだけになっている。
中国は無支祁を受け入れないだろうから、桐柏山にお帰り頂くわけにはいかない。
日本に居着かれても迷惑なので、各国の領海外であるマリアナ海溝に送るのが最善だ。
日本のためになる行動でやる気を出す幽霊巡視船員にとって、無支祁の投棄は是であろう。
「直上に到着したようです」
「よし、『そこで錨を下ろせ』」
一樹に指示された幽霊巡視船は、錨を下ろし始めた。
次いで幽霊巡視船員の何人かが、澄んだ海へと飛び込んだ。
彼らは水の抵抗を受けることなく、音もなく降下していく。
やがて、海底に横たわる鎖の元へと到達した。
無支祁を封じた鎖は、まるで海底に横たわる沈没船のように鎮座していた。
これほどの長期に渡って朽ちないのだから、霊物か、神仙の術でも掛けられているのだろう。
船員達は慎重に鎖の端を引き寄せ、巡視船に積み込んでいるロープを使い、下ろされた錨との結び付けを始めた。
途中で外れては溜まらないので、沢山のロープで、何重にも結び付けていく。
海底での作業は静かに進行し、最後の固定が完了すると、幽霊巡視船から合図が送られた。
「繋がったそうだ。それでは、行ってもらう」
「……何年も煩ったのですが、呆気ないですね」
「幽霊巡視船が無ければ、手の出しようがなかった。相性が良かったのだろう」
白い霧を纏いながら、幽霊巡視船は蓬莱の外へと向かっていった。


























