第50話 行ってきます
旅立ちの朝,理人はいつもより早く目を覚ました。
薄暗い部屋の中で上体を起こす。
窓の外はまだ青みがかっており,通りから人の声はほとんど聞こえない。いつもの朝なら,あと少しすれば階下からマルタが竈へ火を入れる音がして,それを合図に理人も厨房へ降りていた。
今日は,その前に起きている。
寝台の脇には,昨日のうちにまとめた荷物が置いてあった。
着替えと雨よけの布,水袋,少量の保存食。それから自分で買った塩と黒香子,乾燥香草。マルタから受け取った給金も,必要な分だけ分けて革袋へ入れてある。
日本から持ってきたものは,着ていた服のほかには,腕時計とスマートフォン,財布や鍵,ハンカチ,ボールペンくらいしかない。その大半は,この世界ではほとんど役に立たなかった。
その荷物に,アルカで手に入れたものが少しずつ増えている。
理人は荷袋の口を確かめてから,足元へ目を向けた。
ぽんたは寝台の横で丸くなり,太い尻尾を鼻先へ巻きつけている。その向こうには,昨日から自分で何度も確認していた小さな旅袋が置かれていた。
中身は干し肉と木の実がほとんどである。
何度聞いても,ぽんたはそれで十分だと言った。
「ぽんた」
小さく呼ぶ。
片耳が動いた。
「朝だぞ」
反応はない。
「王都行くぞ」
今度は両耳が動いた。
「……行く」
「寝たまま言うな」
「起きてる」
「目閉じてるだろ」
「起きてる……」
昨夜,絶対に自分で起きると主張していた狸は,そのままもう一度鼻を尻尾へ埋めた。
理人は少し考え,
「朝飯なくなるぞ」
と言った。
ぽんたの頭が上がった。
「起きた」
「知ってた」
「最初から起きてた」
「はいはい」
寝起きのぽんたが大きく身体を伸ばし,前脚を床へ突っ張る。毛が少し乱れていて,旅立ちの日にしてはあまり格好はついていない。
けれど,たぶんこれくらいでいい。
特別な朝だからといって,急に何もかも変わるわけではないのだ。
「荷物,持てる?」
「余裕」
「昨日より増えてない?」
「増えてない」
「干し肉もう一本入れただろ」
ぽんたが止まった。
「……何で分かった」
「袋膨らんでるから」
「一本だけ」
「自分で持てるならいいよ」
理人がそう言うと,ぽんたはほっとしたように袋を見た。
本当に食べ物しか心配していないのか,それとも別のことを考えているのかは分からない。
ただ,今日は聞かなくてもいい気がした。
「行こうか」
「飯?」
「まずはな」
二人で部屋を出た。
◇
厨房には,すでに火が入っていた。
「やっぱり先に起きてた」
理人が言うと,鍋をかき混ぜていたマルタが振り返る。
「客を送り出すのに,客より寝てる宿があるかい」
「自分,客扱いだったんですね」
「今日からはね」
「昨日までは?」
「働き手」
「そこは最後まで変わらないんだ」
「朝飯食ったら皿くらい運んでもらうよ」
「旅立ちの日でも?」
「手があるんだから使うさ」
あまりにもいつも通りで,理人は笑った。
食堂ではバルドが卓の上へ皿を並べている。まだ宿泊客のほとんどは起きておらず,いつもより静かな食堂に皿の触れ合う音だけが響いていた。
クウもすでにいた。
入口近くの長椅子のそばへ座り,身体の横には小さな旅袋が置いてある。
「おはよう」
「おはよう。ぽんた起きた?」
「飯で」
「やっぱり」
「やっぱりって何だよ」
ぽんたが不満そうにクウを見る。
「昨日,起きられるって言ってたから」
「起きたぞ」
「何で?」
「王都」
理人が黙ってぽんたを見る。
「……飯も」
「そっちだろ」
クウが小さく笑った。
マルタが大鍋から煮込みをよそい,卓へ置く。
「ほら,食べな。出る前に腹に入れときなよ」
「ありがとうございます」
「道中で料理する側なんだろ。自分の分を忘れるんじゃないよ」
「作る側なんですけど」
「だから言ってるんだよ。人の皿ばっかり見て,自分のが冷めてたこと何度かあっただろ」
言われてみれば覚えがある。
「……気をつけます」
「最初からそう言いな」
理人は席へ座った。
今日の朝食は,角鹿の肉と根菜の煮込みだった。
特別豪華な料理ではない。
煮込み鹿亭で何度も食べた味である。
柔らかく煮えた肉に,涙玉の甘みと香草の香りが染みている。黒香子は控えめで,朝から食べても重くない。
一口食べる。
いつもの味だった。
それが少し嬉しい。
「リヒト」
「何?」
「肉一個多くない?」
ぽんたが理人の皿を見ていた。
「知らない」
「俺のより大きい」
「同じだよ」
マルタが即座に答えた。
「絶対リヒトの方が――」
「旅に出る朝くらい静かに食えないのかい」
「だって」
「ぽんた」
クウが自分の皿から肉を一切れぽんたの方へ寄せた。
「私,多いから一個あげる」
ぽんたの目が輝く。
「クウ!」
「その代わり静かに食べて」
「分かった!」
数秒後には,煮込みを食べる音しか聞こえなくなった。
「本当に静かになった」
「食い物は強いねえ」
マルタが呆れ,バルドの口元が少し緩む。
理人も笑いながらパンをちぎった。
何度も繰り返した朝だった。
マルタが料理を作り,バルドが食堂を整え,ぽんたが肉の量を気にし,クウが横から何か言う。
自分もその中にいる。
いつからこうなったのかと聞かれても,境目はよく分からない。
気づけば,そうなっていた。
◇
朝食を食べ終えると,結局マルタの言った通り,理人は自分たちの皿を厨房まで運んだ。
「最後くらい置いといていいよ」
そう言われるかと思っていたが,何も言われない。
理人も何も言わず,いつもの場所へ皿を置く。
洗おうとしたところで,さすがにマルタに止められた。
「そこまでやってたら間に合わないよ」
「時間はまだあります」
「商隊はあんた一人を待たないんだろ?」
「はい」
「なら行く準備しな」
マルタはそう言うと,厨房の奥から布包みを二つ持ってきた。
「これ,途中で食べな」
「まだ増えるんですか?」
「硬いパンと干し肉。それから少しだけ焼いた根菜。今日中に食べる分は別にしてあるから,先にそっちから食べること」
「かなりありますけど」
「三人いるだろ」
「俺いっぱい食うぞ」
「知ってるから多めにしたんだよ」
ぽんたが胸を張る。
褒められたわけではない。
クウは布包みへ鼻を近づけた。
「香草入ってる?」
「干し肉の方に少しね。あんたが好きそうなのを入れたよ」
「ありがとう」
クウが素直に言うと,マルタは少しだけ表情を緩めた。
「それと水袋。道中で空になったら自分で入れな。リヒト,冷やしすぎるんじゃないよ」
「水まで心配されるんですか」
「あんたならやる」
「飲み水を凍らせたりしませんよ」
「熊の足元は凍らせただろ」
「薄くです」
「そういう問題じゃないよ」
反論しづらい。
理人が布包みを荷物へ入れている間に,バルドが奥から折り畳んだ厚手の布を持ってきた。
「これも」
「何です?」
「雨よけ。前に言ってたやつだ」
広げれば,一人が肩から被るには十分な大きさがある。新品ではなく,何度か使われた形跡があったが,破れや大きな傷みはない。
「借りていいんですか?」
「返すのはいつでもいい」
言葉の意味を考えて,理人は少しだけ黙った。
返す。
つまり,戻ってくることが前提になっている。
「分かりました」
「なくしても怒らん」
「じゃあ返さなくても?」
「マルタが怒る」
「返します」
バルドが短く笑った。
そのやり取りを聞いていたマルタが腕を組む。
「王都着いたら,まず寝る場所決めるんだよ。市場に夢中になって,暗くなってから宿探すんじゃないよ」
「そこまでしません」
「文字読めないんだから,人に聞きな」
「分かってます」
「変なもの食べる前に店の人へ聞く」
「それも」
「ぽんたが拾ったものを何でも料理しない」
「俺そんな拾わねえぞ」
「森で骨拾ってただろ」
「あれは食わない!」
「クウ,人が多かったら無理に市場へ入らなくていいからね」
「うん」
「リヒトが止まらなかったら置いて帰っていいよ」
「何で俺だけ扱い違うんです?」
「一番心配だから」
「それ,普通ぽんたじゃない?」
「俺!?」
最後までいつもの調子だった。
それがありがたかった。
もしマルタが急にしんみりしていたら,自分もどう返せばいいのか分からなくなったと思う。
理人は荷物を背負い,一度重さを確かめた。
少し重い。
けれど,自分で持てないほどではない。
ぽんたも自分の袋を背負い,身体を左右へ振って位置を調整している。
クウの小さな袋は,肩の後ろへ軽く掛かっていた。
三人とも準備ができた。
「じゃあ」
理人が口を開く。
そこで,何と言えばいいのか少し迷った。
「お世話になりました」
結局,一番普通の言葉になった。
マルタが眉を寄せる。
「何だい,それ」
「いや,一応」
「帰ってこないみたいじゃないか」
「そういうつもりでは」
「なら違うだろ」
理人は少し考えた。
日本にいた頃なら,家を出るときに言っていた言葉がある。
仕事へ行くときも。
買い物へ出るときも。
また戻ってくる場所に対して使う言葉。
「……行ってきます」
口にすると,思った以上にしっくりきた。
マルタは一瞬だけ黙ったあと,笑う。
「行っといで」
バルドも頷いた。
「気をつけてな」
「はい」
「俺も!」
ぽんたが声を上げる。
「行ってくる!」
「ちゃんと戻ってくるんだよ」
「肉あれば!」
「肉がなくても戻れ!」
「分かった!」
クウもマルタたちを見る。
「行ってくるね」
「行っといで。知らない香草があったら,ちゃんと覚えて帰ってきな」
「うん」
クウの耳が前を向いた。
三人で扉へ向かう。
理人は一度だけ振り返った。
マルタはもう厨房へ戻ろうとしていて,バルドは開店前の食堂を見回している。
いつもの二人だった。
このあと客が起きてきて,朝食が始まる。
煮込み鹿亭の日常は,理人たちがいなくても続いていく。
それでいいのだと思った。
◇
外へ出ると,夜明け直後の冷たい空気が頬へ触れた。
通りにはまだ人が少ない。
店を開ける準備をしている者や,市場へ品物を運ぶ荷車が時折通る程度だった。
理人は扉を閉め,そこで顔を上げた。
軒先に,見慣れた木製の看板が下がっている。
大きな鍋。
その隣に,角のある鹿。
そして,今も完全には読めない文字。
初めてここへ来た日,理人はこの看板の前で立ち止まった。
文字であることは分かるのに,まったく読めなかった。
ミレナに,
「『煮込み鹿亭』」
と教えてもらった。
今なら,文字の一部くらいは見覚えがある。
それでも,一文字ずつ読めと言われればまだ怪しい。
たいして進歩していない気もする。
「リヒト?」
クウが呼ぶ。
「何でもない」
「看板?」
「うん」
ぽんたも見上げる。
「煮込み鹿亭」
「ぽんた読めるの?」
「読めねえ」
「じゃあ何で言った」
「知ってるから」
理人は思わず笑った。
「俺と同じだ」
「リヒトも読めないの?」
「全部は」
「ずっといたのに?」
「それとこれとは別」
クウが少し楽しそうに二人を見る。
「王都行ったら覚えた方がいいね」
「本気でそう思う」
「俺も?」
「ぽんたも読めたら便利だろ」
「飯の店だけ分かればいい」
「看板読めないと飯の店か分からないだろ」
「匂いで分かる」
「クウじゃないんだから」
「肉なら分かる!」
朝から声が大きい。
理人は笑いながら歩き出した。
煮込み鹿亭の看板が,少しずつ後ろへ遠ざかっていく。
◇
市場の南側へ着くころには,空はかなり明るくなっていた。
普段なら露店が開き始める時間だが,今日は市場の端に別の活気がある。
濃い青色の布を掛けた大型の荷車が何台も並び,その周囲を商隊の者たちが忙しく行き来していた。
積み荷は木箱だけではない。
布で包まれた大きな荷。
縄で束ねられた皮。
箱の隙間からは,乾燥させた森の植物らしい匂いもする。
荷車の前には,太い四肢を持つ荷蜥蜴が繋がれていた。
アルカへ来た初日にも見た生き物である。
馬より低い姿勢で,がっしりとした身体を地面へ近づけ,出発前だというのにずいぶん落ち着いた様子で休んでいる。時折大きな目を瞬かせ,太い尾をゆっくり動かしていた。
「でかい」
ぽんたが足を止める。
「前も見ただろ」
「近くで見るの初めて」
「噛む?」
「怒らせなければ大丈夫らしい」
「それ,リヒトが最初に聞いてたやつ?」
クウが言った。
「覚えてた?」
「ミレナから聞いたよ」
「俺知らない」
「今知っただろ」
ぽんたは荷蜥蜴へ少し近づこうとして,理人に肩の袋を掴まれた。
「勝手に触るな」
「見てるだけ」
「それなら離れて見ろ」
「細かい」
「出発前に荷蜥蜴怒らせたら,ハリスさんに置いていかれるぞ」
それは困るらしく,ぽんたは素直に一歩下がった。
「来たか」
ハリスが荷車の間から現れる。
今日はいつもの市場で見る格好より旅装が増えており,腰の短剣のほかに厚手の外套と革袋を身につけていた。
「遅くないですよね?」
「まだ大丈夫だ。荷もほぼ終わってる」
ハリスは三人を見てから,理人の荷物へ目を向ける。
「それだけか?」
「はい」
「ならいい。増やすなよ」
「まだ出発もしてないのに」
「お前は王都で増やす顔してる」
「また顔ですか」
最近,本当にこれが多い。
ハリスは気にせず,中央の荷車を指した。
「お前らは最初,あれに乗れ。荷の横に座れる場所を空けてある。道が悪くなったら降りてもらう」
「分かりました」
「ぽんた,聞いた?」
「聞いた」
「荷台で勝手に箱になるなよ」
「何で」
「人が箱になったら荷物と見分けつかなくなるだろ」
「俺,人じゃないぞ」
「そこじゃない」
クウが喉の奥で小さく笑った。
「炊事は昼から頼むかもしれん。朝は宿で食ってきたんだろ?」
「はい」
「なら最初の休憩までは何もない。荷車から落ちるなよ」
「そこまで子どもじゃないですよ」
「そっちの二匹にも言ってる」
「俺,落ちないぞ」
「私は大丈夫だよ」
クウは落ち着いている。
ぽんたの方は少し心配だった。
◇
「来たね」
聞き慣れた声に振り返る。
ミレナだった。
森へ入るときと同じように剣を腰へ下げ,荷物は理人よりずっと少ない。余計なものを持たない辺りが旅慣れている。
「おはようございます」
「おはよう。三人ともちゃんと起きた?」
「俺起きた!」
「飯でね」
「リヒト!」
ミレナが笑う。
「出発前からいつも通りだね」
「そっちは準備終わったんですか?」
「とっくに。護衛は先に配置確認してるから」
ミレナは商隊の先頭を指した。
「私は最初,二台目と三台目の間。だからずっと一緒にはいられないよ」
「仕事ですからね」
「何かあったら勝手に荷車から飛び出さないで」
「分かってます」
「本当に?」
「信用ないですね」
「火爪熊のとき,水樽まで走っていった人がいるから」
「あれは状況が違うでしょう」
「その判断を自分だけでしないでってこと」
そこは正しい。
「分かりました」
ミレナは満足そうに頷く。
「ぽんたもね」
「俺逃げるの得意だぞ」
「それは知ってる」
「褒められた」
「半分ね」
ぽんたはそれでも機嫌がよかった。
クウは荷蜥蜴の匂いが気になるのか,少し離れた位置から鼻を動かしている。
「初めて?」
ミレナが聞く。
「近くでは」
「独特でしょ」
「うん。でも嫌な匂いじゃないよ」
「旅の間,ずっと一緒だから慣れるよ」
クウが荷蜥蜴をもう一度見た。
「この子たちも王都まで行くんだね」
「そう」
ミレナが答える。
「人より働くかもね」
理人は大型の荷車を見上げた。
これが十日余り走り続ける。
途中で宿場へ寄り,村を通り,野営をし,道が悪ければ自分たちも降りて歩く。
昨日まで頭の中にしかなかった旅が,目の前に形を持って並んでいる。
少し緊張してきた。
◇
「リヒト」
低い声に呼ばれて振り返る。
少し離れたところにガルドが立っていた。
いつもの革の装備を身につけ,弓を背負っている。
「ガルドさん」
「間に合ったな」
「見送りに?」
「市場へ来たついでだ」
「朝から弓持って?」
「森へ行く」
「じゃあ本当に途中なんですね」
「そう言ってる」
相変わらずだった。
ガルドは理人の荷物を見てから,ぽんたとクウにも目を向ける。
「三人とも行くんだな」
「うん!」
ぽんたが答える。
「そうだよ」
クウも続いた。
ガルドは少し頷いただけだった。
「道中,ハリスの言うことを聞け。商隊は一人の判断で止まれん」
「分かってます」
「森で何か感じても,勝手に確かめに行くな」
「行きません」
「苦いとか変な味がしたら先に言え」
「はい」
「知らん肉見つけてもすぐ食うな」
理人は眉を寄せた。
「そこまで?」
「お前ならやる」
「自分,森の赤い実すら食べなかったですよ」
「最初だけは慎重だったな」
「今も慎重です」
ガルドは返事をしなかった。
その沈黙が納得していないように見える。
「何か言ってくださいよ」
「必要なことは言った」
「ガルドさんらしいですね」
「王都で肉見るなら,名前だけで決めるな」
突然,少し違う話になった。
「え?」
「同じ魔獣でも,育った場所と部位で違う。強いやつだからうまいとも限らん」
理人は少し姿勢を正した。
何度も教えられたことだ。
角猪の肉を最初に扱ったとき,自分は「魔獣の肉」という大きなくくりで見すぎていた。
そこから肩,腹,脂,筋の違いを教わった。
「覚えてます」
「ならいい」
ガルドはそれだけ言った。
理人は少し迷ってから頭を下げる。
「いろいろ,ありがとうございました」
「だから帰ってこないみたいに言うな」
マルタと同じことを言われた。
「今日二回目です」
「なら学べ」
「はい」
理人は笑った。
「行ってきます」
「ああ」
ガルドは短く頷く。
「帰ったら,また何か作れ」
「ハンバーグ?」
ぽんたがすぐ食いついた。
「何でもいい。食えるものならな」
「最初から食えるもの作ってますよ」
「最初のは?」
「それを言われると弱い」
ガルドの口元が少しだけ緩んだ。
◇
「ぽんた」
今度は,さらに低く太い声が飛んできた。
ぽんたの耳が立つ。
人の間から現れたのはドランだった。
市場の中でもよく目立つ体格で,朝だというのに腕や前掛けにはうっすら煤がついている。
「ドラン!」
「朝からうるさい」
「来たのか!」
「聞こえてる」
そう言いながら,ドランはぽんたの前まで来る。
理人が挨拶すると,軽く片手を上げただけだった。
「王都行くんだってな」
「行く!」
「そうか」
ドランの視線が,ぽんたの背負っている小さな袋へ移る。
「肉しか入ってねえ顔してるな」
「何で分かる!?」
「匂う」
「……そうだった」
クウが横で笑った。
ドランは荷車へ目を向ける。
「ちょうどいい。まずあれ見とけ」
「荷車?」
「車輪と軸だ」
ぽんたも荷車を見る。
「前に言ってたやつ?」
「そうだ。回ってるのは車輪だけじゃねえ。何が支えて,どこに力がかかるか見ろ」
「走ってる途中も?」
「荷車の下に潜るなよ」
「潜らねえ!」
「お前ならやりそうだ」
理人は横で強く頷いた。
「リヒトまで!」
「俺も止めるから安心してください」
「頼む」
「何で俺の信用そんなないんだよ!」
ぽんたの尻尾が不満そうに膨らむ。
ドランは気にせず続けた。
「王都なら,ここにない道具もある。でかい物や複雑な物を見て,すぐ真似しようとすんな」
「分かってる」
「本当か?」
「分かんないやつにはならない」
ぽんたの返事に,ドランが少しだけ目を細めた。
「ならいい」
以前,ぽんたが鋏を見て,自分には無理かもしれないと言ったとき。
ドランはそれでいいと答えた。
分からない道具になるな。
形だけではなく,中身を見ろ。
ぽんたはちゃんと覚えている。
「王都で,すげえの見つけたら覚えてくる」
「全部じゃなくていい。分かるもんから見ろ」
「おう!」
「あと,道具になってるときに車輪へ挟まれるなよ」
「ならねえ!」
最後までそこは信用されなかった。
ドランは理人を見る。
「お前も,変な道具思いついたら形だけ描いて持ってくるなよ」
「まだ覚えてたんですか」
「忘れるか」
「次はもう少し中身を調べてきます」
「そうしろ」
肉挽き器の絵を持っていった頃の自分を思い出す。
形は何となく覚えている。
でも,中で何が回り,どこで支え,どう切るのかは知らなかった。
今思えば,ドランが作れないと言ったのは当然だった。
あれから少しは変わっただろうか。
それを確かめるためにも,知らないものを見るのは悪くない。
◇
「そろそろ乗れ!」
ハリスの声が響いた。
商隊の者たちが次々に動き始める。
荷蜥蜴へ繋がれた綱が確認され,荷台の布が締め直され,護衛たちもそれぞれの位置へ散っていく。
ミレナが腰の剣を確かめた。
「じゃあ,私は向こう」
「はい」
「最初の休憩でね」
「またあとで!」
ぽんたが声を上げる。
「落ちないでよ」
「落ちねえ!」
ミレナは笑いながら二台目と三台目の間へ向かった。
ガルドもそろそろ森へ向かうらしく,片手を軽く上げる。
ドランは何もせず,顎を少し動かしただけだった。
理人は二人へ頭を下げ,荷車へ向かう。
「乗るぞ」
「おう!」
「うん」
ハリスに示された荷車の後部には,小さな踏み台が掛けられていた。
理人が先に荷物を載せる。
中には大きな木箱や布包みが隙間なく積まれているが,片側には人が座れる程度の場所が確保されていた。床には厚い布まで敷かれている。
ぽんたは踏み台を使わず飛び乗ろうとして,一度失敗した。
「……」
「今の見なかったことにする?」
「して」
「分かった」
「俺は見たぞ」
荷を確認していた商隊の男が言う。
「見るな!」
二度目は理人が少し支え,無事に乗った。
クウは踏み台へ前脚を掛け,軽い動きで荷台へ上がる。
「クウの方がうまい」
「言うな!」
理人も最後に乗り込んだ。
荷車の端へ腰を下ろすと,目線が普段より高くなる。
市場がいつもとは違って見えた。
ガルドとドランの姿も,人の向こうまでよく見える。
少し離れたところには,煮込み鹿亭へ続く道がある。
「出すぞ!」
ハリスの声。
先頭の荷蜥蜴が身体を起こした。
太い脚が石畳を踏み,繋がれた荷車が一度大きく揺れる。
「おっ」
ぽんたが身体を低くする。
「始まった?」
クウの耳が立った。
「始まったみたい」
理人は荷台の縁へ手を置いた。
車輪が回る。
木と金具が擦れる低い音が響き,ゆっくりと景色が動き始めた。
一台。
次の一台。
その後ろにも荷車が続く。
商隊全体が,巨大な一つの生き物のように少しずつ動き出していた。
ぽんたがすぐに荷台の端から下を覗こうとする。
「車輪!」
「落ちるなって!」
「見てるだけ!」
「止まってから見ろ!」
「動いてるところ見ろってドラン言ってた!」
「下に顔出せとは言ってない!」
出発して十秒も経っていない。
「ぽんた」
クウが言う。
「王都までずっと怒られるよ」
「リヒトが細かいんだよ」
「落ちたら困るから言ってるんだ」
理人がぽんたの旅袋を掴んで引き戻す。
そこで,後ろから笑い声が聞こえた。
振り返る。
ガルドが呆れた顔をし,ドランが腕を組んでいる。
そのさらに奥。
市場へ続く通りの方から,一人の大柄な女性が歩いてくるのが見えた。
「マルタさん?」
見送りには来ないと思っていた。
マルタは市場の入口までは来ず,少し離れたところで足を止めた。隣にはバルドもいる。
宿を開ける準備の途中なのだろう。
二人とも前掛けをつけたままだった。
マルタが大きく手を振る。
「リヒト!」
声が届く。
理人は反射的に立ち上がりかけ,荷車が揺れて座り直した。
「危ないよ」
クウが言う。
「今のは本当に危なかった」
理人は座ったまま,大きく手を振った。
「行ってきます!」
マルタが何か返した。
車輪の音に重なって,全部は聞こえない。
それでも,
「食べな!」
だけは聞こえた。
最後までそれだった。
理人は笑った。
◇
商隊は市場を抜け,大通りへ入った。
朝のアルカを,青い布の荷車が列になって進んでいく。
店を開け始めた人々が道を空け,何人かは顔見知りの商人へ手を上げている。子どもが荷蜥蜴を見て走ってきて,親に止められる姿もあった。
理人は流れていく町並みを見た。
最初に一人で買い物へ行った市場。
ガルドに肉の部位を教えてもらった店。
ドランの鍛冶場へ続く道。
ぽんたを連れて歩いた通り。
クウと初めて三人で買い物をした広場。
見覚えのあるものが次々と後ろへ流れていく。
「リヒト」
クウが隣から呼ぶ。
「何?」
「ずっと後ろ見てるね」
どこかで聞いた言葉だった。
この世界へ来た最初の日。
ガルドとミレナに連れられて森からアルカへ向かう途中,何度も後ろを振り返っていた自分へ,ミレナが同じことを聞いた。
あのときは,角猪がまた出てこないか心配だった。
置いていかれないか少し不安だった。
最後には,知らない森を覚えておこうと思った。
今日は違う。
「覚えておこうと思って」
理人が答える。
「アルカを?」
「うん」
クウも一度,後ろを振り返った。
ぽんたはしばらく前を見ていたが,やがて同じように町の方へ顔を向ける。
「戻ってくるんだろ?」
「そのつもり」
「じゃあ覚えなくてもいいじゃん」
「戻ってきても,今日と同じとは限らないだろ」
「店なくなる?」
「そういう大きな話じゃなくて。自分たちも変わるかもしれないし」
ぽんたはよく分からないという顔をした。
クウは少し考えている。
「王都行ったあとで見たら,違って見えるってこと?」
「そうかもしれない」
「森と同じだね」
「森?」
「リヒト,前に言ってたよ。最初に森へいたときと,あとから入ったときで見え方が違うって」
理人は少し驚いた。
「覚えてたんだ」
「リヒトはいろいろ言うから」
「それ,褒めてる?」
「どうかな」
クウが少し笑う。
ぽんたは二人の会話にはもう興味を失ったらしく,マルタからもらった食料の包みへ鼻を寄せていた。
「開けるなよ」
「匂い嗅いでるだけ」
「朝飯食べたばっかだろ」
「旅すると腹減る」
「まだ町の中だぞ」
「もう旅だろ」
ぽんたに言われ,理人は少し黙った。
確かに。
荷車は動いている。
煮込み鹿亭は後ろにある。
これから向かうのは,まだ見たことのない王都だ。
「そうだな」
理人は前を向いた。
◇
城門へ近づく。
ここを通ったのも,最初の日だった。
あのときはガルドに連れられ,衛兵に事情を説明してもらわなければ町へ入ることすらできなかった。
今は,商隊の一員として自分から外へ出ていく。
門の脇では衛兵が荷車を確認していた。
ハリスが先頭で何かを話し,順番に通過していく。
理人たちの荷車も門をくぐった。
石壁の影へ入り,一瞬だけ朝日が遮られる。
そして,すぐに視界が明るくなった。
町の外だった。
前方には街道が伸びている。
その先には低い丘が重なり,さらに遠くには森の緑が見える。
アルカへ来るまでに歩いた道とは別の方向だった。
初めて見る景色である。
「王都,あっち?」
ぽんたが聞く。
「たぶん――」
理人は途中で口を閉じた。
クウがこちらを見る。
ぽんたも見る。
「……ハリスさんが進む方」
「分かってないじゃん」
「十日以上先なんだから見えるわけないだろ」
「山の向こう?」
「知らない」
「川ある?」
「知らない」
「肉は?」
「それも知らない!」
「リヒト,何も知らないね」
クウまで言う。
「だから見に行くんだよ」
理人は笑った。
知らない。
分からない。
この世界へ来た日から,そればかりだった。
森のことも。
魔法のことも。
魔獣の肉のことも。
ハンバーグがこの世界の材料で作れるのかどうかさえ,最初は分からなかった。
試して,失敗して,誰かに聞いて。
そしてまた作った。
その繰り返しで,今は一皿のハンバーグを「うまい」と思えるところまで来た。
けれど,王都には知らないパンがある。
知らないチーズがある。
この先には,まだ食べたことのない肉も,香辛料も,料理もある。
ぽんたは知らない道具を見たいと言った。
クウは知らない匂いを知りたいと言った。
理人も同じだった。
知らないなら,見に行けばいい。
食べてみればいい。
作ってみればいい。
「リヒト」
クウが前方を見ながら言った。
「何?」
「王都着いたら,最初何食べる?」
理人は少し考えた。
「それ,昨日も話さなかった?」
「もう一回」
「俺,肉!」
ぽんたは迷いがない。
「クウは?」
「市場の匂いを見てから決める」
「食べ物を匂いで選ぶの?」
「リヒトもするでしょ」
「……するな」
店の前を通って,いい匂いがすれば立ち止まる。
日本でもそうだった。
「じゃあ自分も,市場を見てから」
「ハンバーグは?」
「すぐには作らない」
「何で!」
「まず王都の料理を食べる。パンもチーズもそのまま食べる。肉も,どう食べられてるか見る」
「そのあと?」
「そのあと考える」
ぽんたの尻尾が左右へ揺れる。
「新しいハンバーグ?」
「できれば」
「うまいやつ?」
「それは作ってみないと」
「失敗する?」
「するかも」
「じゃあ俺が食う」
「失敗したやつを?」
「食えるなら」
理人は吹き出した。
クウも笑う。
「私は匂い見てからにするよ」
「二人とも失敗前提やめてくれない?」
「最初まずかったからな」
「それ,いつまで言うんだよ」
荷車が揺れる。
車輪が土の街道を踏み,アルカの石畳とは違う鈍い音を立てる。
朝日が少しずつ高くなっていた。
理人は一度だけ振り返る。
アルカの城壁が,もう少し遠くなっている。
煮込み鹿亭の看板は,ここからでは見えない。
それでも,どこにあるかは分かる。
戻ろうと思えば戻れる場所になった。
だから今は,前を向いていい。
「行こうか」
理人が言う。
「もう行ってるぞ」
ぽんたが即座に返した。
「雰囲気だよ」
「変なの」
「最近それ言われすぎなんだよな」
クウが小さく笑った。
三人を乗せた荷車は,青い布を揺らしながら街道を進んでいく。
その先にあるのは,まだ名前しか知らない王都。
もっとおいしいハンバーグが作れるのかは,分からない。
けれど。
分からないからこそ,理人は少し楽しみだった。
ここまで読んでくださり,本当にありがとうございます。
第50話をもって,第1章「アルカ編」は完結です。
異世界へ来て,最初のハンバーグを失敗した理人が,
肉を知り,道具を考え,ぽんたやクウと出会い,
ようやく「うまい」と思える一皿を作って,アルカを旅立つところまで来ました。
初めて投稿した作品を,ここまで読んでくださる方がいることを本当に嬉しく思っています。
物語はまだ続きます。
第2章では,理人,ぽんた,クウの三人が,まず王都へ向かう十日余りの旅へ出ます。
アルカとは違う食べ物や料理,道具,人との出会いを,三人と一緒に楽しんでいただけたら嬉しいです。
これからも『異世界ハンバーグ』をよろしくお願いします。




