第一章 一話 ── 胸に刺さった杭 ──
「そんな……! 奥様! 奥様が……!!」
穏やかな昼下がりに、家令バルバラの悲鳴が響き渡る。
おっとりとしているようで冷静沈着な彼女が大声を上げているところなど一度も見たことがない。
余程の緊急事態なのだろう。部屋の外からバタバタと慌ただしい足音が聞こえてくる。
ユアンは手に持っていた本を机に置き、ゆっくりと立ち上がった。
ただ事ではない様子を見に行こうと思ったのだ。
「ああ……そんな、まさか……」
屋敷の女主人である母の部屋の前では、バルバラがふくよかな身体を丸め、顔を両手で覆って座り込んでいた。
その横で、老執事のジャックが幽霊でも見たかのように目を見開いて立ち尽くしている。
「何があった」
二人はユアンの足音にすら気が付かなかったようで、びくりと肩を揺らしてユアンを振り返った。
ユアンがさらに歩みを進め、部屋の中を覗き込もうとした瞬間。
ジャックがそれを遮るように素早く手を伸ばし、「奥様が……」と頼りない呟きを漏らした。
「これは、」
ユアンは、息を呑んだ。
深紅のベルベットの椅子に腰掛けた母親の胸には、無骨な木の杭が深く突き刺さっていた。
そこから流れ出た血液が、衣服を濡らし、床に何本もの枝分かれした不吉な血の道を作っている。
「奥様、奥様……」と啜り泣くバルバラの声が、静まり返った部屋に虚しく響く。
ジャックが執事としての矜持をどうにか手繰り寄せ、震える声で「皆を呼んできます」と背を向けた。
ユアンは、自身の革靴が床の血に染まるのも構わず、彼女の死体に近づいた。
今にも艶然と微笑んで起き上がりそうなほど、安らかな顔をしている。
ただでさえ透き通るように青白い肌だというのに、完全に血の抜けた皮膚は、まるで精巧に作られた蝋人形のようにそこに存在していた。
リリ・ヴォルテーヌ。
それがユアンの母親の名前であった。
いつまでも少女のような若々しさを保ち、悪魔的なまでに奔放で、己の欲に忠実な女性だった。
血のつながった親であるというのに、ユアンはリリについて街に流れる噂程度のことしか知らない。
ユアンと揃いの、月光を吸い込んだような銀髪が、椅子の深紅のベルベットに妖しく絡みついている。
ユアンはその頬にそっと手の甲を当てた。ヒヤリとしていて、生きている人間の体温は微塵も感じられない。
「……なぜこんなことに」
そのとき、ユアンは長く伸ばし後ろで結んだだけの自身の髪が、不意に揺らされたことに気がついた。
窓が開いている。カラリとした風が部屋の中に吹き込んでいた。
日は傾き、格子窓から差し込んだ西日の光が、床に広がった真っ赤な血を、まるで底無しの湖面のように不気味に光らせている。
「ひっ……し、死んでおられるのですか……っ」
短い悲鳴に振り向くと、そこには母付きの女中であるポーレットが立っていた。顔を真っ青に染め、口元を手で覆っている。
今にもその場に崩れ落ちそうなほど激しく動揺していた。
「死んでいる。心臓に、木の杭が刺さっているようだ」
ユアンは、自身の声がずっと冷静にその場に響いたことを、どこか他人事のように不思議に思った。
母親とは物心つく頃から疎遠ではあったが、自分を産んだ存在であると認知はしていた。
というのに、凄惨な死体を目の前にしても、胸の奥の感情は凪いだままだ。
同じ屋敷にいても、時折その姿を見て、鈴の転がるような声を聞くだけの存在だったからだろうか。
「どうして……」
「分からない。バルバラが見つけた」
ポーレットの大きな瞳に涙がなみなみと盛り上がり、大粒の雫となって頬を伝い落ちた。
彼女は半年ほど前、その優れた髪結いの腕をリリに認められ、直々に連れてこられた女中だった。
リリ・ヴォルテーヌという存在に心酔しているような様子を、ユアンも何度か見かけている。
「違います、坊っちゃん! ……なぜ、なぜ貴方は、そんなに冷静でいられるのですかと聞いているのです!」
ポーレットが張り裂けんばかりの悲鳴を上げた。その瞳には、恐怖だけでなく、ユアンに対する明らかな拒絶が混じっている。
「止めなさい!」
隣で呆然としていたバルバラが、弾かれたようにポーレットの腕を引いた。
いつもの穏やかさを捨て、正気に戻ったような厳しい眼差しで部下を諌める。
「気持ちはわかります、でも落ち着きなさい。……今は取り乱している場合ではありません。屋敷の皆さんとよく話し合わなくては」
家令のバルバラは、女中であるポーレットの直属の上司にあたる。
二人の張り詰めたやりとりには、普段から培われてきた強固な信頼関係が滲んでいた。
「坊っちゃん、こちらへ。お召し物が汚れてしまいます」
バルバラがユアンの目を真っ直ぐに見据えた。その理性の宿った瞳に触れ、ユアンは胸のざわめきが少しだけ解けるような気がした。
古くからこの屋敷に勤めるバルバラは、ユアンにとって生みの母親よりもずっと母親らしい温もりを持つ存在だった。
ユアンは大理石の床と、豪奢なメダリオン柄の絨毯に、べっとりと血の跡をつけながらバルバラのもとへと歩み寄った。
バルバラが、その柔らかな腕のなかにユアンをそっと閉じ込める。
ユアンよりも頭一つ分小さな体でありながら、彼の全てを包み込むように優しく背中を撫でた。
「坊っちゃん、いきましょう。ジャックが皆を広間に集めてくれているはずですから」
ユアンは小さく一つ頷いて、安らかに眠る亡骸に背を向けた。
時が止まったままの薄暗い部屋には、禍々しい血で汚れた、ユアンの靴跡だけが点々と残されていた。




