11
夜はいつのまにかとっぷり暮れて、月が頭上に昇っていた。
煌々と照らす光を浴びて、渡り廊下をアシャは進む。
ユーノに何の話があるんだと散々イルファに絡まれた。濡れた髪は既に乾き始めている。伸びてきたそれをさくりと掻き上げ、ユーノの首筋に絡みついていた髪の毛を思い出した。
『気付かな、かったよ…』
茫然とした声が、濡れてくしゃくしゃになった髪の毛が絡みつく細い首の向こうから響く。
ただでさえ、ゼランに裏切られていたという事実はユーノを傷つけている。そのうえ手取り足取り教えられた剣に、自分の命を危険に晒すような罠が仕掛けられていたと知って、微かに震えた肩が痛々しかった。
「俺が先に気付いていれば」
唇を噛んでアシャは眉を寄せた。
そうすれば、あんなに無造作に知らせることはしなかった、それとなく剣を教えて、それとなく隙に気付かせて。
「この上に剣を教える?」
自分の思いつきを嘲笑った。
17歳の少女として、ユーノは十分に強い。天賦の才能とはこういうものなのかと何度も思わせる。
それは遠くラズーンに住まう『太皇』がアシャに対して感じたものを想像させた。稀に見る才能、豊かな力量、王たるにふさわしい器、だがしかし。
アシャは目を伏せ、髪を掻き上げたまま立ち止まる。頭に当る掌の感触、それもまた、遠い日に自分を愛おしんだ掌を思わせる。
だがしかし。
その存在は、これまでの世界の理を破壊する。
それを『王』として選んでよいのか。ただ優れた資質があるからと世界の命運を自分の手で変えてしまっていいのか。
『太皇』の胸にあっただろう逡巡はゼランの惑いでもある。
自らを、世界を滅ぼす敵を造り上げてしまうかもしれない……。
「………」
あなたはどうして俺を選べたんだ。
彼方の地の穏やかな眼に問いかける。
いくらでも選択肢はあったはずだ。ギヌアだって居た、彼の資質も十分に豊かだった。彼を選べば、何も問題はなかった、アシャはその位を望んでいなかったのだから。
なぜ、俺を。
ひょっとして『太皇』の中にも蠢いたものがあるのだろうか、世界の命運も自らの保守も捨て去って、力の花開くさまを見てみたいという魔性の囁きが。
今アシャの中に沸き起こる微かな興奮と同じように。
(もう、十分じゃないか)
湯舟の中に浸っていた身体がそっと振り返った時、首筋が吸い込まれるように湯に消えていて、そのままどこかに漂っていってしまいそうで、つい、指を伸ばした。触れたのは波打つように引き攣れた皮膚、ぴくりと揺れて逃げそうな気配に掴みかけ、かろうじて自制した。
イルファとの間に滑り込む、背中に湯を通して柔らかな熱が伝わってくる、けれどその熱は震えて、まるで褥の中でこれから互いに求め合う前の危うさで。
ごくりと唾を呑んだ気配に気付かれただろうか。
「………狡いな、男は」
目を閉じて揺れる気持ちにしばらく酔う。開かせたい、まだ誰も見たことがないあの花を。自分の手で、最後の最後まで。
危うい衝動をずらせば、ユーノの剣の罠を消すために剣を教え込みたいという意志に変わる。
変えたい、ユーノを、この掌の中で。
この激しくて理不尽な衝動を、ゼランもまた味わっていたのだろう。
単に敵となるから剣に罠を仕込んだのではなく、いつか自分の敵となり、誰か他の男のものとなる、その屈折がどこかに潜んでいたからこそ、身を安全に守る盾を与える代わりに、自ら屠られるしかないような剣を植え込んだのではないか。
畜生が。
顔をしかめる。同じ鞭が自らを打つ。
「なら、俺は…?」
どうする。
迷いつつ、再びゆっくり歩き始め、ユーノ達の寝室に辿り着いた。
「……ユーノ? 寝たか?」
低く声をかけたが、答えがないのにそっと扉を開く。
部屋に入ると、そこにも窓から注いだ銀色の光が満ちていた。
ユーノを待ちくたびれて眠ってしまったらしいレスファートが、ベッドの上で丸くなっている。乱れた髪がきらきらと輝き、閉じられたまつげも銀色にけぶっている。小さく開けた唇から微かな寝息、軽く身動きしてレスファートは呟く。
「ん……ユーノ……イルファの……ばか」
その側に、微笑みながら上がけをかけてやるユーノの姿があった。
湯上がりの薄い衣1枚、それでも手足をしっかり覆う服を身に着けている相手に胸が傷む。
ユーノの剣に隙があるのは確かだ。それが危険なことも。
だが、剣を教えるならば、一層ユーノを危険に追い込むことにはならないか。
そうするぐらいなら。
(俺が守ればいい)
片時も側を離れず、敵には盾となり、疲労には床となり、哀しみには憩いとなり、空腹には心身を満たす食物となり。
「、ごほっ」
「アシャ?」
一体何を食わせるつもりなんだ俺は、と思わずむせたアシャにはっとしたように振り返ったユーノが怪訝な顔になった。
「どうしたの?」
「あ、いや、レスの傷はどうかと思ってな」
「大丈夫みたい……よく寝てる」
微笑むユーノは愛おしそうにレスファートを見下ろす。一瞬、そこに横たわっているのが自分でないことに嫉妬して、アシャはゆっくりと近付いた。
開け放った窓から風が静かに入ってくる。
「いい風だな」
「うん……静かで気持ちいい夜だよ………ねえ、アシャ」
ユーノの柔らかな声に、窓際まで行って振り返った。
「なんだ」
「……私に剣を教えて」
「え…」
「私の剣には罠がある、それはもう聞いてたよね?」
「ああ」
「カザド相手ではしのげても『運命』相手じゃ難しい、アシャもそう思うでしょ?」
「……ああ」
「だから、剣を教えて」
ひたりと見つめ返してくるユーノの顔に迷いはない。月光を浴びていつもより白く見える顔、噛み締めていたのか唇がほんのりと色づいて開いている。
「『ラズーン』へ行かなくちゃならない、絶対。『ラズーン』へ行って、どんな御用があるかは知らないけど、でもカザドの非道も訴えて」
続けたことばに、そんなことも考えていたのか、と頷いた。
「忠誠を誓って、姉さま達が安心して暮らせるようにセレドもちゃんと見守って下さいとお願いして」
必死な目の色は黒く澄んで僅かに潤んでいる。
「もし、万が一、私が」
戻れなくても。
「……」
呟いた声に胸を突かれた。
(死ぬ、つもりで)
「セレドが安泰に続くように」
「守ってもらおうと考えないのか」
ことばが零れ出てしまった。




