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「はははは…」
「もう…笑いごとじゃないわよ、兄さん!」
アオクの妹ラセナは、膨れっ面で夕食の席を片付けながらぼやいた。
「とんだことだったな」
上品に微笑むアシャに親しげに笑いかける。多くの人々の例に漏れず、アオクもすぐにアシャを古くからの知己のように扱いつつあった。
「びっくりしたよ。美しい御婦人が入って来たかと思ったら、たちまち悲鳴だ」
卒なく応じて、アシャはラセナににっこり笑みを向ける。
「だって……誰もいないと思ってたんですもの」
そりゃ、兄さんが守ってるこの街は安全だと信じてるからだけど、と唇を尖らせ、まだ食卓についているイルファが皿から肉の最後の一切れを摘まみ上げるのを待つ。
「ふうー、食った食った。うまかったですよ、ラセナさん」
「ありがとうございます」
イルファの開けっ放しの賛辞に嬉しそうに笑み返し、これだけお皿が綺麗になったのは初めてかも、とくすくす笑った。
「ところで、ずいぶん長い旅をしているようだな」
アオクが食後の酒をのんびり含みながら尋ねてくる。
「うむ、実はラズーンまで行く」
どこから、ということばを巧みに逸らせてアシャは頷いた。セレドからここまで、既にかなりの距離がある。かかった日にちを考えれば驚くほど早く移動しているのは、ユーノ達の旅慣れもあるが、アシャの選ぶ道筋が並外れた正確さでラズーンへの道を辿っているからに他ならない。
それだけの道のりをなぜそれほど無駄なく選んで進んで来れたのか。
それを質問されるのを避けたのだ。
だが、返ってきたことばはアシャの警戒を軽く越えていた。
「おまえ達もか!」
「?」
「この国からもハイラカという少年がラズーンへ向かって旅立った。話によれば、ラズーンからの使者が来たとのことだ」
「そいつも王族なのか?」
イルファが興味を引かれたように尋ねる。
「いや、違う。だが、あちらこちらの国からラズーンへ向かっているようだな。ダヤン、オグトラからもラズーンへ発った者がいると聞く」
(やはり、そうか)
『銀の王族』は地位の高いものとは限らない。安全で幸福で安定した暮らしを保証できるとあれば、民の間にまぎれさせることもある。だが、民の間においては完全に保護できないのも確かで、言い換えれば、それはハイラカの重要度がそれほど大きなものではなかったと言える。
(なのに、そんなところまで『銀の王族』を集めるとは……かなり酷い状態なんだな)
自分の表情が険しくなるのを感じて、アシャは意識的に目を細め笑みを作って、渡された杯を唇に当てた。数々の女性や男性をも魅了した表情で相手を親しげに見遣り、初めて聞いたように無邪気に頷いて見せる。
「なるほど…」
「おまえ達もラズーンの使者に呼ばれたのか?」
「いや、気紛れな旅だ」
さらりと流す。
「世界の中心、ラズーンを見てみたいと、あの跳ねっ返りがごねてな」
「ついでに可愛い娘や旨い食い物にありつければいいと」
イルファが付け加え豪快に笑う。つられたようにアオクも、男の夢だよな、と笑いながら、
「そういえば、あの気の強い弟はどこへ行った」
「はい、どうぞ」
イルファの前に酒の杯を置いたラセナが一瞬動きを止めたのに気付く。うっすらと赤くなった頬、同じく染まった耳が、アオクのことば1つ1つを聞き取ろうとするように緊張している。
「ああ、レスの手当てだ」
「大丈夫なのか、あんな子どもにまかせて」
「大丈夫だ、あいつはそういうことにも長けているし」
頷きながら、アシャはラセナの耳がどんどん赤みを増していくのを眺めた。
「子ども扱いしてるとやられるぞ」
「あんな子が?」
アオクは心底不思議そうに首を傾げる。
「線が細すぎて神経質すぎるように思えたぞ。あの馬だって、気の荒らそうなのをよく乗りこなしていると思ったぐらいだ」
「ところがだ!」
ぐいとイルファが身を起こし、膨れ上がった腹に、う、と妙な顔で唸る。
「お前は知らないだろうが、俺達の国の近くにカザドという性の悪い国があってな。兵士とは名ばかりのごろつきどもだが、そいつらをたった1人で20数人倒したことがあるのだ」
「ほう…?」
アオクが面白そうに瞬きした。
「あの細腕で? 腰も、抱え込めるほどに細いようだったが」
「…」
なぜそこで『腰を抱え込める』表現がでてくる、とアシャはねじ曲げかけた口で急いで酒を含む。唇に滲んだ温もりに、自分がなぜ苛立っているのか理解してうんざりした。
「とにかくあいつは強いんだ。今に俺のような立派な剣士になる!」
「へ、え」
イルファが誇らしげに胸を張り、弟バカは可愛いなと言いたげなアオクにアシャは苦笑した。
「すまない」
「いや…あんたが長兄なのだろうな?」
アオクはちらりと視線をよこす。
「苦労してそうだ」
「わかるか」
「わかる」
跳ねっ返りの身内は困ったものだ、と続けたアオクが、皿を運んでいくラセナの後ろ姿を見遣り、何となくほっとした。
(そうか、妹と重ねたのか)
「身内もそうだが、気の強い女は困る……が」
すぐにアオクが柔らかな口調で続けた。
「時にひどく愛おしい」
「………」
それはどういう意味なのだ。
ユーノを弟と紹介しているのを一瞬忘れかけて尋ねそうになったアシャを、いきなり激しく戸を叩く音が遮る。
「失礼…こんな時間に珍しい」
アオクが険しく眉を寄せ、椅子から立ち上がって戸口へ向かった。
「誰だ」
低く重い誰何に若い声が叫ぶ。
「エナムです! エキオラ様のことで!」
「エキオラ?!」
はっとしたように叫び返したアオクが急いで戸を開け放つ。髪をくしゃくしゃにした、まだ幼さの抜けきらぬ少年兵がのめるように家の中に転がり込んできた。マントはどこかで落としてきたのか、はあはあと肩を揺らせる上半身に鎧しかつけていない。
「エキオラがどうかしたのか!」
「は、はい」
エナムは息を喘がせながら、必死にことばを継いだ。
「先程、第三王子、クノーラス殿下が突然昏倒され、未だお目覚めになりません。明日の式典は王子が目覚められるまで急遽延期となりました!」
「原因は」
「わかりません。医術師も手の施しようがなく、ただ占者が一言『影が見える』と申したきり、その者もまもなく気を失い、死に至った模様です」
(影)
アシャは目を細めて静かに杯を傾ける。
(『運命』か?)
しかし、なぜクノーラスなどに手を出すのか、相手の意図がわからない。ましてや、この時において婚儀1つを遮ったところで、何の意味があるのか。
(それとも何か別の意味があるのか?)
「エキオラ様にはいたく御不安の様子、隊長においでを願ってほしいとのこと、伝言承りました」
「畜生!」
だんっ、と激しい音を立てて戸を殴りつけたアオクは、激情を押さえかねたように俯いたが、やがて低い声でエナムに命じた。
「すぐに行く。エキオラに伝えてくれ、案ずることはない、と」
「はっ!」
エナムが一礼して、身を翻して夜闇に飛び出していく。




