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やりやがった。
アシャは体の力を抜いた。薄笑みを零す。
知らないとはいえ、一番踏んではいけないものを踏みにじった。
(そんなことをあいつが許すはずが)
アシャに張り合い、ユーノの唯一無二の騎士を名乗る誇り高い少年が、守るべき姫にそんな罵倒を向けさせたままにするはずがないものを。
レスファートが、おもむろに包帯の巻かれた手で草色の仮面をむしり取る。
『王よ!』
「なんていった?」
冷やかな声が響く。
草猫達の致命的な間違い、それはレスファートがなぜ自分達の王となろうとしたのか、理解していなかったことにある。
(もう、大丈夫だな)
レスファートが草猫に降りようと決心したのは、おそらくは自分がユーノにとって足手纏いにしかならない、それぐらいならばという切ない祈りだったのだろうから。
「ユーノのことを、ひどく言ったね」
ぱさりと草原に落とされた草色の仮面を見下ろしたレスファートの顔が、それこそ王者以外の何ものでもない傲慢な意志に引き締まる。
「ぼくの、ユーノを」
『しかし、王……王!』
「どうしてぼくをとめるの?」
ことばは一気に幼くなったが、内容は格段にしたたかになった。草猫をじろりと睨み返したアクアマリンの目は、次の瞬間、歓喜に満ちてユーノに向けられる。
「ユーノ!」
『、王……っ』
「レス!」
脚を傷つける草も何のその、草波を押し分けながらレスファートがあっという間に走り寄ってきて、ユーノの広げた腕の中に飛び込み、しがみつく。
「ユーノ! ごめん……ぼく…ユーノぉ!」
「レス!」
まるで引き離されていた恋人同士のようにお互いを強く抱き締めあう2人に、草猫達は茫然と竦んで見守っている。
「……いい性格してるよな、さすが王子様育ち」
ぼやきながら、アシャは2人を庇う位置に立ち塞がった。
レスファートを失うと気付いてざわめきながらじりじりと近寄ってくる草猫達、砦のあちこちから次々に姿を現し数が増えていく。
「おい、いい加減にして早く行け!」
「アシャっ」
「大人には大人の」
始末があるんだ。
ぼそりと唸ると、微妙な顔になったユーノがきょとんとしたレスファートを抱えて急いで馬に跨がる。
「でも、『運命』相手ならっ」
不安そうに叫ぶユーノを肩越しに見上げる。胸に抱えられたレスファートも、今回は突っ込みもなく大人しくしている。
「アシャ1人じゃまずいよ!」
アシャの正体を知ってしまえば、こんな状況で心配するはずがない。こんな無害な連中に何ができるとあっさり離れていくのだろうが。
「……それまでは甘えるか」
「え?」
「ユーノ」
見下ろす相手の黒い瞳の優しさに満足している自分が馬鹿馬鹿しくなるほど甘い、が。
「無事を祈ってくれ?」
「祈るより、私は!」
「レスファートをちゃんと連れ帰るのが先だろ」
「っ」
軽く目をつぶって見せるとぎくりとした相手に笑って付け加える。
「大丈夫だ、すぐに戻る」
「う、ん、わかった!」
泣きそうな顔になったユーノが一気に身を翻して駆け去っていくのを惚れ惚れと眺めた。
「…いいものだな」
心配されて案じられて、自分の無事を願ってくれる熱くて柔らかな心の味は極上。
「レスの気持ちがわかる」
俺もずいぶんお子さまだ、と苦笑したところで背後から陰鬱な声が響いた。
『ジャマ………ヲ……シテ…』
「どちらがだ」
片手を上げると、既に粉のような密度を持った金の靄がそれを取り巻きつつあった。
「草猫達の想いを利用したくせに」
掌から手首、腕、肩、胸から腹、やがて全身へと金色の光がまとわりつきながら広がっていくのに、草猫達が一斉に尾を震わせた。
『オ…ペだ…』
『オぺ』
先頭に立っていた草猫がじりじりと下がっていく。『運命』本体ならまだしも、操りの影だけを宿した骸ではアシャに対して抵抗にもならないとわかっている。がく、がくがく、と不安定に脚を崩れさせつつ後退するのに歩み寄っていくと、周囲の草猫達が逆に歓迎するように取り囲んでくる。
『「運命」は封じられない……視察官に権限はない………「統合者」ではない』
「どうかな」
アシャは、『統合者』ということばに鬱陶しく眉を寄せた。
「俺は……特別製だからな」
『視察官に、運命を裁く権利はない……』
「だが、『銀の王族』を守る義務はある」
黄金色の光が満ちた掌を差し上げていく。見上げた草猫達が次々と尾を震わせる。
『では、オペよ、ラズーンは我らを見捨てていないと』
『では何ゆえ、ここに「運命」が至る』
『何ゆえ、見捨てられ荒れ果てていく』
『支配下は選別されているのか、繁栄を得るものと、闇に呑まれ滅びるものと』
『オペよ、我らはただ』
生きたかっただけだ。
『それほど不相応な望みなのか』
アシャは静かに目を閉じる。
指先から掌から溢れ出す光がどれほどの力を持つものか、知っている者はもう皆この世界にはいない。
ぎゃはぁ、と掠れた悲鳴を上げ、『運命』の影となった草猫がぞぶぞぶ崩れる音がした。だが、大半の草猫は逃げもしない、怯えもしない、ただ草原を満たし、溢れ、広がっていく金色の海の中に浸っていく我が身に従容と声を潜めていく。
「視察官の任として、この地を留める………アシャの名のもとに」
自分の声が重くうねる。祈りのように言えればいいと思いながら、それはいつも死の宣告にしか過ぎないのだが。
アシャ。
アシャだ。
あの、ラズーンの御方、アシャ……だ。
アシャが我らの地におられたのか。
そしてアシャの手で我らは封じられるのか。
ならば。
ざわめく草猫達が喜ぶ声にアシャは目を開けて顔を歪める。
今や草原は黄金の空間と化し波打ち煌めいている。沈む草猫達の姿が溶けていき、海と一つとなり、やがて緩やかに波は高さを減らし、地面に水が吸われていくようにアシャの掌の内側へ消えていく。
微かに響く、吐息のような優しい囁き。
『ラズーンよ……』
永遠なれ。
りぃん、と遠く小さな鈴が転がるように。
「………そうであれば、よかったのに、な」
掌の中で零れた掠れた声に囁き返し、アシャはそれさえも封じるように強くきつく手を握り締める。
「永遠であれば……よかったんだ」
呟いて、俯き、歯を食いしばる。
「みんな、そう望んでいたんだ」
自分の声が幼いのに気付いている。
「でも」
それは、間違った道だ。
吐き捨てたことばの本当の意味を知るのは、ただ『太皇』のみ。
ラズーンを統べ、世界を制御する、唯一の王のみ。
もう、ネークで草猫が噂になることはないだろう。
静まり返り、生き物の気配1つしなくなった草の中で、アシャは俯いたまま立ち竦んだ。




