7
導師の家は昼間見た川の流れの近くにあった。
ヒストをゆっくり進めながら、ユーノの頭には繰り返し同じことばが流れている。
『俺にも好みと言うものがある』
冷やかな突き放した声音はよく耳にしたことがある。
ユーノと親しく話していた親衛隊の1人が仲間にセレドの皇族におさまる気かとからかわれた時。街中でレアナの護衛として同行していて、姉に見愡れた男がユーノを見ていたと勘違いされた時。
比べられて貶められるのはもう数えるのも飽きたぐらいで。
(傷つかないわけ、じゃないのにな)
髪をしなやかにする薬草を調べたこともある。レアナより浅黒い肌に少しは映える紅を考えてみたこともある。棒杭のように柔らかさのない体つきをふわりと見せる仕草を探したこともある。
(それでも)
かなわない、どこもかしこも何もかも。
全てにおいて自分は姉にも妹にも母にも劣るのだと繰り返し思い知らされるばかりで。
「ふ、ぅ」
小さく溜め息をついてユーノは苦笑した。
(慣れているはず、なのに)
早く導師の所へ行こう、と思った。
体の傷みは耐えられる。心の痛みも慣れている。
けれどこんな想いには慣れていない。
(温かい腕だったなあ)
自分を支えてくれたアシャの温もりを思い出す。次の瞬間、衣服を引き剥がれたにせよ。
(気持ちいい、胸…だった、なあ……)
人の体温というのはあれほど柔らかく傷を温めてくれるものなのか。布や炎や薬剤とは全く違う。肌からしみいって、傷の奥深くまで届く熱、なるほど怪我をした子どもが母親に抱き締められたがるわけだ、と納得する。
ユーノはいつも1人で手当てしてきた。
止血の順序を誤って血が止まらなくなり、何とか包帯で巻き締めたものの自室へ辿りついたとたんに気を失ったこともある。床に転がってどれほど意識がなかったのだろう、気付けば皇宮内は静まり返り、凍りつくほど冷えた手足で起き上がってまず確かめたのは周囲を汚していないかということ。
幸い再出血はしていなかった。体が熱ぼったくて喉が乾いていたけれど、水呑み場までは行けなかったし、誰かを呼ぶわけにもいかなかった。のろのろとベランダまで行って、そこで夜気で体を冷やし、湿った空気を吸い込んでかろうじて生き返る気がして、そのままうとうとして夜明けを迎えた。
翌日は皇族閲兵式、平和なセレドでそれは皇族が勢ぞろいして民衆と触れ合うお祭り騒ぎとくれば休むわけにはいかず、ゼランに引っ張り出されて半日日射しの中に立っていた。何度もふらついて倒れかけたけど、それでも最後まで居るしかなくて。
誰かに助けてもらえるとは……思わなかった。
(あの時に比べれば、ずっと楽なんだ)
どんどん暗さを増す夜道を進みながら、ユーノは胸の中で言い聞かせる。
(皇宮に居たころよりずっと楽だ、ここにはアシャだけじゃない、イルファもいる、レスもいる)
傷を受ければ手当てしてもらえる。熱が出れば眠らせてもらえる。戦うときも背中に誰かが居てくれる。
(仲間が、居る)
たった1人で全てを背負っていたころに比べれば、格段の差だ。
けれど、だからこそ。
(仲間、なんだ)
それ以上を望んじゃいけない。それでなくても、イルファが疑いだしたのはユーノが無意識にアシャに甘えてしまっていたせいかもしれない。レアナのいないのをいいことに、人のものを自分のものだと思い込みつつあったのかもしれない。
仲間でいられるうちに。アシャへの気持ちに押し潰されて、身動きできなくなる前に。
(導師に打ち明けて、この気持ち全部)
消し去ってもらおう。
目の前に見えてきた小さな小屋の灯に、ユーノは唇を引き締めて顔を上げた。
ヒストを家の前の木に繋ぎ、木製の戸をことこと叩いて声を掛ける。
「こんばんは」
静まり返った世界の中で、導師の家もしんとしていて人の気配はない。
ユーノはもう一度、低い声を掛けた。
「こんばんは……導師はおいででしょうか」
「入りなさい、開いてますよ」
「っ」
いきなり背後から声を返されて、ユーノはびくりと身を竦めた。とっさに剣に手が滑った。