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「ユーノ……」
「……はい」
粉々に砕けたベッド、風が吹き込む状態の部屋の片隅、とりあえず敷き藁と布で床に盛り上げた寝床で、ユーノはさすがに首を竦めて相手を見上げた。
「動いた、ってなあ?」
ついさっきセレドから戻ったばかりのアシャは、埃塗れの薄汚れた顔にぎらぎらと正視に耐えない光を瞳に浮かべながらこちらを見下ろしている。表情は悪鬼一歩手前、あれほど心穏やかな美形がここまで殺気立つのかと思うほどの怒りの形相、声は人みな凍りつかせるという吹雪を思わせる。
「ま、まあ……その」
「まあその、じゃないっ!」
「いろいろと事情があってほら…」
言いかけたユーノをばしりと遮ってアシャが吠える。
「動くなと言っただろうが!」
「う」
「大人しくしてると言った!」
「だ、って」
「だっても糞もないっっ!」
断じるアシャの綺麗な形の唇から糞、と叫ばれ、思わず背後に居たイルファも引きつる。いわんや、側でイルファの上着の裾を握りしめているレスファートは、背中から見てもアシャの激怒が伝わるのだろう、ぎゅっと唇を噛みながらもさすがに反論しない。
「で、でもっ」
他にどうすればよかった。
他に、誰も、居なかったんだ。
言いかけて、ユーノは堪える。その代わり、
「無事だったんだからいいだろっっ!」
元気さを証明するように声を張り上げた。
レガ襲撃から丸1日ぐっすり眠った。きっと痛み止めにそういう成分が入っていたのだろう、これまでないほど熟睡し、空腹に目覚めれば、レスファートがいそいそと、作り方を教えてもらったという柔らかでおいしい粥と煮物を持ってきてくれ、しっかり食べてなお眠った。
「それに大人しくしてるなんて言ってない、大人しく聞いておくって言ったんだっ!」
「こ、のっ」
「お、おい」
ずかずかと部屋に踏み入ったアシャが側にしゃがみ込むのにイルファが思わず声をかける。振り返ることもなく、凄みを含んだ声でアシャが吐いた。
「心配したと言ってるんだぞ」
「ボクは強いんだ…それに、居なかったやつにあれこれ言う資格なんてない」
睨みあげると、唐突にアシャの顔から一切の表情が消えた。いきなり顎を捕まれ引き寄せられる。
「な…っ」
驚きにことばを失うユーノに、
「側に居た」
「…は?」
「『運命』が動いたと知っていたら……離れなど、しなかった」
冷やかな声はさっきよりも温度が低い。
「お前を置いて、行きはしなかった」
睦言のような甘いことばと、表情がつり合わない。凍りついた紫の眼とも。
見えているものを全て裏切って伝えてくるのは切ない懇願、お前が大事なのだ、無茶をしないでくれと響く。
(アシャ)
そちらに踏み込んで読み取りたくなる、自分への好意を、愛情を。
「…っ」
天性の女たらしだ。
呑まれそうになってユーノは慌てて眼を閉じた。対抗できそうな唯一のことばにしがみつく。
「『運命』って何だよっ」
「!」
びく、と明らかに顎を掴んでいた手が震えてアシャが息を呑む気配がした。
「……『運命』って、あいつのこと?」
ゆっくり目を開きながら、続けて尋ねる。
「レガの背中に張り付いて……レガを操っているように見えた」
「………」
アシャが静かに手を離した。動かない表情のまま、そろそろと身を引いていく。
「……見たのか」
やがて、どさりと腰を落とした。うっとうしそうに呟きながら、床に胡座を組む。疲れ切ったような様子で、のろのろユーノを見る瞳が、さっきの勢いを失っている。
「黒い髪の、赤い目の、男とも女ともつかない、人、みたいなもの」
ユーノはアシャの無言の問いに応じた。
「……あいつは、ボクらを狙ってる? ひょっとして……」
ごく、と唾を呑む。
「ボク、を?」
「……どういうことだ」
イルファが重々しく唸りながら腕組をした。
「俺の知らない話がずいぶんあるようだな」
「……」
「そいつが女だってことも」
「っっ!」
ぎょっとした顔で弾かれたようにアシャがユーノを振り向いた。今度は見る見る青くなっていく顔に逆にユーノはうろたえた。
「いや、あの、違う、イルファが何か勘違いして」
「勘違いなもんか、触ればわかるだろ、あの感触は」
「感触…?」
イルファの突っ込みにアシャが上の空で繰り返す。
「触れば…?」
「あ、あのね、アシャ」
「触らせたのか、こいつに?」
「え、いや、そうじゃなくて、ボクが倒れたときに」
「どこまで?」
「は?」
「ああ、そいつがひっくり返ったから、抱き上げて運んだ」
イルファが何か文句あるのか、と言いたげに顎をしゃくって言い放つ。
「抱き上げ」
茫然とした様子でアシャが繰り返し、ユーノは不安になった。
「あの……どうしたの、アシャ。大丈夫?」
「あ〜…」
ふいにレスファートがひくっと引き付けるように顔を歪めた。見ると、今にも吹き出しそうな表情で見返してきて、
「あのね、アシャ」
「なんだ」
「……もうちょっと話してくれたほうがいいみたい。話せることだけ」
素早く片目をつぶったのはイルファには見えなかったはずだ。はっとしたようにアシャが我に返る。自分が何をしていたのか、どういう振る舞いをしていたのか、ようやくわかったように少し血の気が戻る。舌打ちしそうな悔しげな顔、やがて、ゆっくり大きな息をついて、諦めたように立ち上がった。
「わかった……事情を話そう」




