エピソード63 碧の空
「奥野さんッ! 奥野さんッ! 大丈夫ですか!?」
悲鳴のような上田の声が、空の彼方へ吸い込まれていく。
「……ッ!上田少尉、大丈夫です。聞こえてます」
蓮が低い声で応じると同時に、AIグラス越しにA.I.D.A.の冷静な声が響いた。
「蓮。大丈夫ですか?右腕に損傷を確認。出血が見られます」
「……キャノピーの破片が腕に刺さったみたいだ。そんなに深くは刺さってない。後、手の痺れもないので大丈夫だ」
「良かったです。痛みは耐えれますか?」
「問題はなくはないが、操縦もなんとか出来そうだ」
A.I.D.A.の口調に、少しだけ人間味の混じった呆れが混ざる。
「蓮はいつも我慢してそう言います」
「本当に大丈夫だって」
「蓮の『大丈夫』は、過去の統計上、信用できませんよ」
「……悪かったな」
蓮と上田は機体の状態確認に移った。
エンジン回転数、油圧、水温、燃料、などを一つずつ確認し、二人は蓮華の帰投に支障がないことを確認した。
二人が一通りの確認を終えると、A.I.D.A.が静かに口を開いた。
「……蓮。あなたの判断は合理的でもなく、正しい選択でもありません」
「分かってるさ」
「ですが、あなたが守ろうとした人々は、今も生きています」
「……そうだな」
蓮は深く息を吐き出すと、インターコムのスイッチを入れた。
「上田少尉。霞ヶ浦へ戻りましょう」
「……はい!」
力強い返事を確認し、蓮はA.I.D.A.に小さく呼びかけた。
「A.I.D.A.」
「どうかしましたか?蓮」
「心配かけて悪かった。すまん」
蓮華は夕暮れへ向かう空を滑るように、霞ヶ浦への帰路についた。
房総半島を離れた蓮華は、霞ヶ浦海軍航空廠へ向けて高度を落としていく。
後席の上田少尉は、長距離通信装置のスイッチを入れ、緊張の面持ちでマイクに向かった。
「こちら蓮華。霞ヶ浦、応答願います」
「こちら霞ヶ浦。どうぞ」
「任務終了。敵機一機を撃墜しました」
上田は一度言葉を区切り、真剣な声音で続けた。
「……それと、奥野さんが負傷しています。ただし、意識はあり、操縦にも問題ありません」
通信担当者が復唱し、受信を完了する。
そのやり取りのすぐ傍らで、無線音声の断片を聞き取った響子の表情が凍りついた。
(蒼が……負傷?)
響子は迷うことなくハルのもとへ走り出す。
連絡・調整を担当していたハルにその報せを伝えると、たまたま居合わせていた久子も足を止めた。
「……蒼さんが?」
「でも、意識はあるって……!」
三人は一斉に、着水予定の岸辺へと急いだ。
やがて、夕映えの空の向こうから、見慣れた蓮華のシルエットが現れる。
機体は穏やかな水面を滑るように着水した。
水飛沫を上げて止まった機体に、響子がいち早く駆け寄る。
「蒼……!」
「響子」
キャノピーが開き、蓮が降りようとしたその時、響子は右腕の痛々しい赤みを見つけて息を呑んだ。
「腕……!」
「大丈夫。ちょっと破片がささっただけだ」
「ちょっとって……血が出てるじゃない!」
遅れてハルと久子も息を切らせて追いつく。
「蒼さん!」
「奥野さん……!」
「右腕だけだよ。大したことない」
蓮がいつもの調子で答えようとするが、響子は唇を噛み締めた。
「……本当に、無茶するんだから」
だが、その瞳には安堵の色が激しく揺れていた。
「でも……帰ってきてくれてよかった」
蓮は少しだけ目を丸くし、それから柔らかく笑った。
「ああ。ただいま」
この時代に、自分が「ただいま」と言える場所がある。
その実感が蓮の胸に温かく広がった。
後席から上田少尉も地上へ降り立ち、響子に深々と頭を下げる。
「上田少尉も、お疲れさまでした」
「はい。ありがとうございました。あの……奥野さんのおかげで、私たちは……」
上田が今日の空での奮闘を言葉にしようとした時、航空廠の奥から慌ただしい足音が響いてきた。
「迎撃隊から報告が入ったぞ!」
その声に、その場にいた全員がハッと顔を上げる。
戦果の全貌が、いよいよもたらされようとしていた。
通信担当者の声に導かれ、蓮たちはそのまま作戦室へと移動した。
室内に張り詰めた空気の中、第一迎撃隊と第二迎撃隊の戦果報告が次々と読み上げられていく。
「第一迎撃隊の零戦十二機、敵機十一機を撃墜!」
最初の交戦で五機、続く戦いで後方から迫った六機を撃墜したという。
室内にどよめきが広がる中、報告は続いた。
「第二迎撃隊の九七式戦闘機十二機が、残る敵機と交戦! さらに四機を撃墜しました!」
そして、息をのむ作戦室の静寂を切り裂くように、最後の言葉が告げられる。
「そして蓮華が、逃れる最後の一機を撃墜! これにより、敵B-25爆撃機隊、全十六機完全撃墜! 本土への爆撃被害、ゼロです!」
十六機、すべて。日本本土への爆撃は、一発たりとも許されなかった。
「勝浦の間者一型が敵の接近を捉え、その情報が霞ヶ浦へ届いた。蓮華が空中で敵を先導し、零戦隊と九七式戦闘機が戦い、最後の一機を俺たちが止めた……」
作戦室の隅で、蓮がつぶやくように言った。
「みんなが繋がったから日本を守れたんだ」
響子は横顔を見つめ、クスリと微笑んだ。
「……蒼らしいね」
「何が?」
「自分が一番頑張ったみたいに言わないところ」
「実際、俺一人じゃどうにもならなかったさ」
霞ヶ浦海軍航空廠の救護室。
軍医が蓮の右腕の処置を終え、丁寧な手際で包帯を巻く。
「この程度なら大したことはない。ただし、今日はもう腕を使いすぎないことですな」
「分かりました。ありがとうございます」
治療を終えた蓮は、そのまま窓辺へと歩み寄り、夕暮れに染まりゆく霞ヶ浦の静かな水面を見つめた。
そこへ、戸を叩く音が響いた。
「蒼」
響子が入ってきた。
「どうした?」
「様子を見に来ただけ。……本当に大丈夫?」
「ああ、軍医にも言われたろ。大したことないって。そこまで心配しなくてもいいのに」
「するわよ。蓮華は私が直すことが出来るけど、蒼の腕は私には直せないんだから」
響子らしい技術者としての芯と感情が滲む言葉に、蓮は苦笑する。
続いて、ハルと久子も心配そうな表情で顔を覗かせた。
「蒼さん、もう痛まないですか?」
「うん、平気だよ」
「本当に……本当によかったです」
三人は静かな湖面を眺めた。
「……静かですね」
「ああ」
「今日、東京も横浜も……皆んなの頑張りで、いつも通りの日常が過ごせてますね」
「ああ…そうだな」
その言葉に、「守れたもの」の重みと温もりが滲んでいた。
少し遅れて、上田少尉も顔を出す。彼は今日の戦いを振り返り、感慨深げに呟いた。
「一人で戦っているわけじゃないんですね……。間者一型が見つけて、蓮華が案内して、零戦が戦って、私たちが待ち受けて……最後は奥野さんが止めた」
「みんなが活躍して、そして繋がったからこそ、ですよ」
全員が救護室を後にしたあと、再び静けさが戻った。蓮は窓の外を見つめたまま、AIグラスに意識を向けた。
「蓮」
蓮は窓の外を見たまま、わずかに口元を緩めた。
「……どうした、A.I.D.A.」
「一つ、報告があります」
「何だ?」
「我々が知っている歴史から、変化が生じています」
夕闇が濃くなる救護室で、AIグラス越しにA.I.D.A.の声が静かに響いた。
「最初の大きな分岐点は真珠湾でした。あなたの介入により、私の知る歴史とは異なる戦争になっています。それに続くフィリピン戦線、そしてマッカーサーの捕虜化……そのすべての積み重ねによって、今回のドーリットル作戦も、史実の四月十八日から四月十五日へと前倒しされました」
そして今日の全機撃墜と、本土爆撃の完全阻止。
「……もう、俺が知ってる歴史じゃないな」
「はい、蓮」
「このまま歴史が変われば……一九四五年も変わるのか?」
「可能性はあります。しかし、どのような未来になるかは、現時点では予測できません」
A.I.D.A.は静かに、しかし明確に告げた。
「私たちが未来を知っている、ということ自体が、すでに過去のものになりつつあります」
「……そうだな……。俺が最後の一機を撃ったことも、その中に入ってるんだろうな」
「はい。私たちは完全に歴史を変え、そして戦争に介入する形となりました」
「分かってるよ」
「しかし、あなたがこの時代の人間ではないことは変わりません」
蓮は自らの右腕に視線を落とし、それからまっすぐ前を見据えた。
「例えそうだったとしても、あの時の攻撃に後悔はしてないさ」
「……蓮の行動原理は合理的じゃありません」
「分かってるよ。それでも俺は同じことをする」
「……長い付き合いですから。蓮がそう答えることは、分かっています」
「これからは俺たちが知っている未来じゃない。だったらこの先は手探りで行くしかない」
「蓮。恐怖はありませんか?」
「ここまで来たんだ。今さら未来を知らないからって、怖がっても仕方ないだろ」
「確かに。蓮らしいですね。ですが……」
「んん…?」
「次に無茶をするときは、絶対に事前に相談してください」
「大丈夫だよ。相談するさ」
「蓮の大丈夫は信用できませんと言ったばかりですが?」
「悪かったよ。ちゃんと相談するよ」
蓮とA.I.D.A.の優しい時間が過ぎていく。
「これから先、何が起きると思う?」
「蓮。いくらAIでも変わった未来の予測はできません」
「お前でもか?」
「はい。現在の歴史は、私が知っている歴史から、さらに離れ続けています」
蓮は窓の外の暗くなりゆく空へ視線を戻した。
「……そっか。なら、見届けるしかないな」
「そうですね」
「これからも相棒として頼んだぞ、A.I.D.A.」
「もちろんです、蓮。私はあなたを支えるAI、A.I.D.A.ですから」
会話が途切れたあと、蓮はしばらくの間、窓の外を眺め続けていた。
霞ヶ浦の夕陽が沈みきり、空は深い群青色から夜へと移り変わろうとしている。
戦闘が終わったあとの、静かな夜だった。
蓮の脳裏に、これまでの日々が静かに浮かんだ。
真珠湾の海、フィリピンの熱気、津村たちとの出会い、霞ヶ浦での日々、相棒である蓮華の感触、響子の温もり、ハルや久子の笑顔、そして今日の激しい空戦。
すべてが胸の奥にしっかりと収まっていくのを感じながら、蓮は静かにつぶやいた。
「……ここで、やれることをやろう。俺たちは自衛隊なんだからな。守れる人がいるなら、守ればいいさ」
未来を救うとか、歴史を書き換えるとか、そんな大層な決意ではない。
ただ、目の前にいる人たちを守る。その営みを、明日へ繋げていく。
蓮は夜空を見上げた。
霞ヶ浦の空は、夕暮れの赤みから、どこまでも深く、澄んだ碧へと変わっていく。
変わり始めた歴史の先に、どんな未来が待っているのかは分からない。それでも――蓮の隣にはA.I.D.A.がいた。
そして目の前には、まだ見たことのない碧い空が広がっていた。
――完。
今まで読んで頂きまして、ありがとうございました。
このエピソードで、最終話となります。
この先の展開も考えていたのですが、
一旦はここまでのストーリーとさせて頂きます。
初めての執筆活動でしたが、
皆様の応援のおかげで、ここまで書くことができました。
もし良ければ、読後の感想など貰えると
次の執筆エネルギーに変えれますので、
嬉しいです。
全64話、読んで頂きまして
本当にありがとうございました。




