エピソード33 計算外の代償
身体を芯から冷やすような寒さの中、突然、蓮の鼓膜の奥に直接響くような、A.I.D.A.の特殊な指向性アラームが起動した。
「――起床時間です。外部温度マイナス五度。生存に必要な基礎代謝カロリーを維持するため、速やかな覚醒を促します、蓮」
眠気と寒さで頭が回らない蓮が、布団の中で
「うるさい……もう五分……」と心の中で悪態をつく。
それに対し、A.I.D.A.は
「効率的な一日のスタートに遅れが生じます」
と、淡々とシステムログのようなツッコミを入れる。いつもの日常的な掛け合いだった。
居間に下りると、囲炉裏の周りに神崎、トメ、そしてハルが揃っていた。
湯気の立つ雑穀入りの汁物と、わずかな漬物が並んでいる。
温かな朝食を囲み、平和な空気が流れる中、突如として空間を切り裂くように、駐在所の電話のベルが激しく鳴り響いた。
その鋭い音に、ハルが「ひゃっ」と肩を揺らし、神崎が不機嫌そうに眉間にしわを寄せる。
「まったく、朝っぱらから……」
神崎がぼやきながら居間から奥の駐在所スペースへ移動する。
受話器を取る低い声が聞こえたかと思うと、数秒後、神崎がガラリと戸を開けた。
「おい、蒼君! 陸軍の津村さんから電話が来てるぞ!」
緊張交じりの神崎の声に、蓮は胸騒ぎを覚えながら箸を置き、立ち上がって受話器へと急いだ。
一呼吸を入れて受話器を取る蓮。
「もしもし……奥野です」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、いつもより遥かに低く、緊張に満ちた津村の声だった。
「――朝早くからすまん、奥野」
その瞬間、蓮の耳元でA.I.D.A.が囁く。
「……主音響解析完了。相手の心拍数および血圧上昇を検知。何か悪い話のようです、蓮」
飲み込むように
「……どうしたんですか、津村さん」と問う蓮に、津村は重い事実を告げる。
「つい先ほど連絡があった。お前の言う通り、本日未明、バリクパパン沖で海戦が発生した」
蓮の脳裏によぎるのは、
自分が提供した新型電探「間者一型」だ。
「では……間者一型のおかげで、こちらの被害はゼロで、敵を完全に奇襲返しできたということですか……?」
と思わず早口で問い返す。
しかし、津村の声は沈んだままだった。
「……確かにお前の情報で、待ち伏せ自体は成功し、敵駆逐艦は全艦撃沈した。だが――こちら側にも被害が出てしまった」
「被害が、出たのですか……?」
蓮の背筋に冷たいものが走る。
津村が吐き捨てるように言う。
「輸送艦一隻と、哨戒艇一隻が撃沈された。敵の魚雷が運悪く命中したそうだ」
「なぜですか!? 間者一型があれば、敵船を補足できるので、夜襲など完全に無力化できたはずです!」
蓮の声がうわずる。
津村の答えは残酷だった。
「……杉山閣下は、海軍に『敵襲の情報』だけは流したが、お前との約束である肝心の『間者一型』の提供を行わなかったようだ。情報提供した事で海軍に恩を売れたので、これ以上の提供は価値がないと判断したようだ……!」
その言葉を聞いた瞬間、蓮の血の気がサーッと引いていく。
脳裏に蘇るのは、あのとき陸軍参謀総長・杉山元に
「間者一型を海軍にも渡して欲しい」とお願いをした場面のことだ。
あのとき、杉山が浮かべたあの深奥の読めない「笑顔」。
そして、その背後でA.I.D.A.が発していた微かな警告アラート。
「交渉が上手くいった」という安堵と自負に目が眩み、あの違和感を完全に放置し、忘れていた自分自身に、蓮は激しい眩暈と絶望を覚える。
津村は電話口で拳を握りしめているかのように、怒りを露わにした。
「被害は最小限だったかもしれん。だがな、死者が出たんだ。一人の兵士の命が、泥臭い陸海軍の権力闘争と、あの老害どもの面子のために散った……! 人の命を政治の武器にするなど、許されていいはずがない」
言葉を失い、冷や汗を流す蓮に、津村は切実な言葉を投げかける。
「……私は、この腐った陸軍を内側から変えてみせる。そのためには、お前の持つその情報網と技術がどうしても必要なんだ。頼む、明日……土曜日、こちらへ来てくれ」
蓮は唇を噛み締め、声にならない声で「……はい」とだけ答え、受話器を置いた。
ガチャリと音が響き、通信が切れる。
駐在所スペースから、足元をよろよろと引きずりながら居間に戻ってくる蓮。その顔面蒼白な様子は、誰が見てもただ事ではないとわかる。
箸を止めた神崎、ハッとするトメさん。
そして、ハルは席から半身を乗り出すようにして蓮を見つめていた。
「蒼さん……? 顔色が、すごく変です……何か、あったんですか……?」
蓮は彼女たちの心配の視線を受け止めきれず、目を伏せる。
「……すいません、少し……食欲がないので、部屋に戻ります。もちろん、残りは昼に食べますので、置いておいていただけますか……」
それだけ言い残すと、返事も待たずに自分の部屋へとフラフラと歩み去る。
残された居間で、トメさんが心配そうに溜息をつき、神崎が渋い顔で戸のほうを見る。
そしてハルは立ち上がりそうになりながらも、踏み込めない幾重ものもどかしさを覚え、ぎっと自分の裾を握りしめた。
自室に戻った蓮は、A.I.D.A.と今回の事態についての話し合いを開始する。
「――蓮。先ほどの通話内容のログを解析完了しました。私の予測ミスおよび確認不足による被害の発生が出てしまいました。謝ります」
「A.I.D.A.だけのせいじゃない。俺も気づいていたのに、気にしなかったんだ。まさか人命が掛かる状況を政治ゲームにするなんて思っても見なかった」
様々な話を2人は重ねる。そしてA.I.D.A.が言う。
「私たちが計画していた歴史改変について、コントロールの喪失リスクが急激に跳ね上がっています。これまで私は、史実との差分を予測し、その影響を管理できると考えていました。しかし――それは誤りだった可能性があります」
「……A.I.D.A.」
「この時代の人間は、私たちが想定した通りには動きません。政治、組織、感情、そして権力。そこには、データだけでは予測できない要素が存在します」
「蓮。歴史を変えるということは、歴史を『操作する』ことではありません。一度変えた歴史が、どこへ向かうのか。それを予測することの困難を私たちは乗り越える必要があるようです」
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