AIがどうなろうと書きつづける人はいる
『AI時代の入口で』を連載して、いくつかコメントをいただきました。
それを読んで強く感じたことがあります。
AIがどうなろうと、どれほど進歩して小説生成が上手くなろうと、書きつづける人はいる、ということです。
一定数の書き手はけっしていなくならないでしょう。
書くことが好きでたまらない人。
小説執筆が、他のどんな趣味より楽しい人。
書かないと生きていられない人。
書くことによって、心の闇を解毒しているような人。
そういう人は書きつづけるでしょう。
私は書くのが好きだし、文章を吐き出すことによって精神の解毒をしているようなところもあるので、書きつづける側にいるかもしれません。
釣りと小説が趣味で生きてきました。
アウトドアの釣りとインドアの小説。
開放的な釣りと内省的な小説。
車の両輪みたいなもので、両方あってバランスが取れ、生きることができています。
AIなんか気にせず好きなように書いていこうと開き直ることができます。
あるいは思いっきりAIを利用して書いていこうと考えることができます。
さて、AIがどうなろうと書きつづける人のことは置いておいて、子供たちのことを考えてみましょう。
AIがあたりまえにあり、AI生成文学・美術・音楽・映像を浴びながら育った世代のことを。
彼らは自力で芸術しようとするでしょうか?
彼らはおそらくごく自然にAIを使って芸術活動をすると思います。
それはそれでいい。
新たな芸術の時代の幕開けです。
しかし、自力だけで創造することをまったくしないで育った芸術家に、「真の創造」ができるでしょうか……?
できる、と私は思います。
原始時代、叫びから歌が生まれ、音楽が育っていきました。
洞穴の壁に石で描いた絵から、美術が成長していきました。
言語と文字が生まれ、文学が育ちました。
竹簡が生まれ、筆が生まれ、紙が生まれ、鉛筆が生まれ、印刷技術が生まれ、ワープロが生まれ、パソコンが生まれ、スマホが生まれ、文学のつくられ方が変わっていきました。
単にAIが新たに生まれたに過ぎません。
AIは人間以上の知能を得るかもしれませんが、だとしても人間とまったく同じではないので、人間のための芸術は生まれつづけると思います。
人類が存在する限り。
できるだけ長生きして、芸術の未来を見つめたいです。
執筆2026/3/17




