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明治43年 元寇パノラマ館


 勝利に沸いた日本に冷水を浴びせる事件が起きた。


 旅順要塞のある遼東半島から手を引かせる「三国干渉」である。


 三国――北の脅威ロシア、黄禍論を振りかざすドイツ、そしてフランスである。


 列強、その力の源泉は産業革命期に増大した過剰な生産能力に依る。


 この時代、力とは生産力である。


 この過剰な生産力を支えるには絶えず消費し続ける巨大な市場が必要だった。


 人口が少なく、産業革命の中心地である欧米市場はすでに供給が過剰な状態となる。


 そのため列強各国は大清帝国の――人口およそ3.5億人の巨大な消費市場を欲していた。


 南下政策と不凍港を確保したいロシアはその足掛かりである遼東半島を狙った。


 ドイツ植民地帝国はアジア進出の足掛かりに山東半島を求めた。


 フランスは強大化するドイツに対抗するためにロシアとの同盟の布石として参加した。


 こうして日本は師であるはずのフランスやドイツと距離を置くことになった。


 代わって、大陸利権をロシアやドイツから守りたいイギリスと日本は急速に接近することとなる。




 昭和29年、矢田一嘯は元寇の絵を描き始めた。


 だが、矢田が元寇記念碑建設運動に参加した時点では、この運動は下火となっていた。


 まず湯地丈雄が元寇記念碑計画を建てた段階で、彼はすぐさま警察署長を辞職した。


 そこから野宿しながら寄付を訴え、全国を回った。


 永井建子が「軍歌 元寇」を発表したのもこの時期になる。


 そのすぐ後に計画に協力を申し出たのが日蓮宗僧侶 佐野 前励(さの ぜんれい)だ。


 彼はこの時代の志の高い若者たちと同じく、世の中を変える、より良くしようと考える男だった。


 明治21年(1888年)30歳になる彼は、いくつもの本山に分立していた日蓮宗を統一するという目標を打ち立て、宗教改革に乗り出した。


 しかし改革派は保守派に敗れ、佐野 前励(さの ぜんれい)は九州に下る。


 佐野はそこで腐ることなく、改革の必要性を訴えた。


 そんな折、記念碑建設運動が立ち上がると、彼は湯地丈雄を支援した。


 日蓮宗とは鎌倉仏教の一つであり、数百年間途絶えることなく残り続けた宗教団体になる。


 そしてちょうど元寇が発生した時期に鎌倉を中心に活動していた。


 佐野は日蓮こそ元寇で最も活躍した人物として彼を称える銅像を建設するべきだと考えた。


 その結果、元寇記念碑計画の義援金募集ポスターには高さ9メートルの石柱の上に騎馬武者姿の北条時宗が勇ましく跨り、そして足元の台座に日蓮の肖像をレリーフのような形で入れるものとなった。


 しかし、このポスターを見た各仏教宗派から抗議の声が上がった。


 そのため日蓮を記念碑に入れることが出来なくなり、約束は反故となった。


 佐野 前励(さの ぜんれい)はそれならばと、この記念碑建設運動とは別に日蓮上人銅像の記念碑を日蓮宗だけで進めることとなる。


 佐野 前励(さの ぜんれい)は保守派の説得と記念碑建設それ以外にもいくつもの事業のために奔走した。


 後に彼は


 ――『直情怪行、百折不撓の強烈な精神で、理想の実現に向かって直線的に行動した人』――


 と称されるようにとてつもなく行動的な人物だった。



 湯地はそんな支援者を失った。


 話はそれで終わりではない。


 衆議院選挙によって湯地の計画は暗礁に乗り上げたのだ。


 当時の政党で最も発言力と議席数があったのが「民党」という自由民権派だったことが影響している。


 彼らは「民力休養・政費節減」という軍艦製造費、製鋼所建設費などの削減を訴えていた。


 政府海軍大臣は帝国主義時代に軍事力の削減は国家安全保障に致命的な悪影響があると、薩長藩閥政府と海軍の正統性を主張した。


 大荒れに荒れた後、第2回衆議院議員総選挙となる。


 この選挙で薩長藩閥内閣による安定した議会運営を行うために、大規模な選挙干渉が発生した。


 第9代福岡県知事である安場保和(やすば やすかず)は政府の意向に従い福岡選挙に大規模干渉をした。


 その選挙妨害資金として元寇記念碑基金を流用したのだ。


「安場しゃん、こらどぎゃんことと!?」


「湯地ん言たいこともわかる。だがここで民党ごとき国ばわからん連中が選挙で勝てば、それこそ国防が疎かになる。わかってくれ」


 安場も苦しい立場だった。


 この選挙干渉は内務省が主導し、高知、佐賀、福岡、千葉、熊本など民党が強い地域の知事に強力な圧力を働きかけたものだ。


 安場はやるしかなかった。


 湯地も国防を訴える側ということもあり、それで国が守られるのなら、と引き下がった。


 知事の選挙妨害は凄まじく、開票不正から警官隊の動員による死亡事件にまで及んだ。


 それにも関わらず民党が過半数を得てしまった。


 あまりにも非道な選挙妨害に造反者が続出して、返って政府の基盤を弱める結果となったのだ。


 そして安場は選挙干渉を指示した内務省高官たちと共に、責任を取り知事を辞めた。


 明治25年、記念碑計画は頓挫して、湯地はまたゼロから支援金を集めることとなった。




 つまり矢田一嘯が「元寇」の絵に取り組んだ時期は、選挙不正と資金流用が尾を引きなかなか資金が集まらない状態となっていた。


 矢田は博多一帯で博多人形の着色技術、近代表現技法、若手に和洋の違い、ついでに英語授業など精力的に活動している。


 その傍ら、元寇の絵を描いていた。


 制作場には海外から取り寄せた油絵具や「元寇」の史料、海外の「東方見聞録」、そして油絵の構図デッサンに医学書などが散らばっていた。


 つまり汚かった。


 そこへ 高級な洋服を纏い、身なりの整った男が入ってきた。


「矢田先生」と声をかける。


「広橋伯爵さん、こなぁ汚いところに来なくてぇぇのに」


 明治政府貴族院伯爵議員、広橋賢光(まさみつ)


 山城国京都で大納言、広橋胤保(たねやす)の第三子として生を受ける。


 東京奠都(てんと)に伴い東京へと来た華族になる。


 彼もまた元寇記念碑建設運動の支援者だ。


 広橋は明治15年に伊藤博文のヨーロッパ調査の随員として加わった経歴がある。


 その際に欧州の銅像や石像の多さと、それによる民族の連帯感や国威発揚としての意義を目の当たりにした。


 記念碑計画が公表されると湯地丈雄に接触、政府との懸け橋として奔走していた。


「今日は何のようでっか?」


「ええ、元寇の絵の内容に関して危険そうなところを調べておきました」


 そう言って広橋は政府の意向を述べた。


 政府は廃仏毀釈を宣言したこともあり、日蓮であろうと、八幡菩薩だろうとこれらを広められては困る、という話だった。


 広橋は、それからここだけの話ですが、と言う。


「いま政府内では過激な運動を抑えるために治安警察法という法律を検討し始めました。その条文には絵画彫刻に関しても取り締まるべき、と声が上がっています」


 治安警察法、この悪名高い法律は日清戦争後に先鋭化と過激化をたどるデモ集会、秘密結社などの政治活動を規制する、という名目で施行される。


 明治33年(1900年)に成立する。


 広橋が言うには後から検閲で引っかからないためにも、宗教関係など政治意図があるものはできるだけ排除するように促したのだ。


「かーっ、それじゃあなんだ。嵐にたまたま遭遇した絵を描けばいいか?」


 広橋はその質問を想定したようで、すぐに答えを返す。


「ここはやはり神風ということにするべきでしょう」


 神風という単語が現れたのは鎌倉時代の「官宣旨」という下文などに初期から記載されている。


 しかし、この鎌倉時代から江戸時代中期までの神とは八幡神とほぼ同じ意味であり、神風というのも「八幡さまの神通力」という意味になる。


 それから長い時を経て、水戸藩士である菊池寛三郎(かんざぶろう)が安政3年(1856年)に「神風遺談」という元寇についてまとめ上げた本を世に出した。


 当時の水戸は水戸学から始まる尊王攘夷の中心地だった。


 そこで編さんされたこともあり、内容は「八幡愚童訓」から仏教要素を完全に排除したものとなる。


 その過程で八幡菩薩の神通力から神風という単語へと置き換わった。


「そして神風を起こした神はすでに政府によって決まっています」と広橋は言う。


 その風の神とは伊勢神宮の別宮(わけみや)、「風宮」、「風日祈宮」の二つだという。


 ここに祀られている風雨の神様、「級長津彦命(シナツヒコノミコト)」と「級長戸辺命(シナトベノミコト)」がそれである。


 この二柱は、元々は農耕の神であり、戦神でもなければ護国の神でもない。


 鎌倉時代、仏教が勢力を増す中で神道を信じる朝廷派閥が対抗するように祀り上げたにすぎない。


 このため民衆は八幡菩薩の神通力、朝廷だけがこの二柱を奉る形となった。


 そして長い時が、それらの記憶を風化させた。


「はいはい、神様仏様についてようわかりやした。けどあっしは画家ですわ。絵の構図にあわないのは描かんよ」


 矢田は嵐を神風と題することにしたが、風神を描く気にはなれなかった。


 風神だけではない、菩薩すら描こうとはしなかった。


 彼は渡米したサンフランシスコで、エジソンの電球が灯した光を見ていた。


 電気だ、これからは電気が世界を席巻する、その輝きに乱舞する人々の活気を見た。


 これから電気科学全盛期がやってくると知っていた彼にとって、神仏どちらも新鮮さがなかった。


「そうですか。それは結構なことです」


 広橋もあくまで神を描くのなら、という話なのでそれ以上は何も言わなかった。


 後々に検閲にかからないための方便を述べただけだ。


「ようは誰もが納得する絵を描く、それでいいだろ」


「ええ、もちろん」


 広橋はパノラマ画の懸念事項を一通り伝えたら、足早に去っていった。


 彼はこの後、湯地丈雄と資金調達や計画の進展について話し合った。




 明治31年(1898年)、遅々として計画が進まない中、世界では事件が起きた。


 日清戦争の大敗北から、大清帝国は「眠れる獅子」ではなく、獅子の張りぼてだと判明したことを皮切りに列強諸国が一気に進出した。


 世に「中国分割」という。


 ドイツは山東半島を、ロシアは遼東半島を、イギリスは対抗するように威海衛軍港とさらには大陸の鉄道敷設権を、フランスは中国南部からベトナムにかけて影響力を増大させた。


 中国だけではない。


 アフリカの大地を巡ってイギリスとフランスがにらみ合い、アメリカは米西戦争でフィリピンを奪い取ることに成功した。


 まさに帝国主義の名のもとに「世界分割」が進行したのだ。


 そして日本が最も恐れていたことが現実となった。


 ロシアが遼東半島、つまり旅順要塞と近代軍港を手に入れたのだ。


「やはり、やはり国防が大事や。国ば守る力がなかと大変なことになる。もうすぐそこまでロシアが近づいてきとるんじゃ!」


 湯地は声を張り上げる。


 自分が行動を起こさなければ日本の国土は切り取られ、清国のようになる。


 彼はもはや強迫観念に近いほど、国防意識が高まっていた。


「矢田先生、お願いだ。もっと力強う訴る絵ば描いてくれ! そうすりゃ講演会ん時に国防ん大切さば知ってもらゆる」


 矢田はこの頃にはすでに何作も「元寇」を題材にした絵を完成させていた。


 湯地は幻灯機で油絵を映し、全国各地で講演をしていた。


 幻灯機とはランプの入った箱にレンズを取り付けて、穴を通して光を映し出すシンプルな装置になる。


 ランプとレンズの間にガラス板に描かれた画像を差し込むことで、絵をスクリーン(当時は適当な幕)に投影する機械だ。


 つまりスライド映写機の原型ともいうべきシロモノになる。


「……もうちっと、考えさせてくれ」


 矢田は即答しなかった。


 彼にしてみれば、敵愾心を煽る絵を描けば描くほど、虚しさが込み上げてきた。


 サンフランシスコには多様な人種が住んでいた。


 全員が聖人君主のような人ではない。


 しかし醜い悪魔でもない。


 同じ人間が、ある程度秩序だって暮らしていただけだ。


 「元寇」の絵を見た人々は国防でも愛国でもない、排他的な、他国に敵意と悪意を宿しているように感じた。


 だからもう少し、元寇の絵を描くか、否か、見極めようとした。


「わかった。また声ば掛くる。そん時はよろしゅう願います」


 しかし、このような個人の考えを、この時代は許さなかった。



 明治33年(1900年)、中国に進出してきた列強のキリスト教宣教師たちが現地人と対立した。


 教会を建てるための強引な土地の買収が暴力沙汰にまで及び、ついに「義和団の乱」へと発展する。


 現地の宣教師に被害が及ぶと、義和団の鎮圧を渋る清国に対して列強各国は外交的圧力を強めていった。


 これに対して、積年の恨みと主戦派の暴走から清国は全列強に対して「宣戦布告」することとなった。


 ここに八カ国連合 対 清国の戦争状態へと発展した。


 戦争は連合の圧倒的な勝利を持って数か月で終わった。


 この時派兵した8カ国とは清国に外交官を派遣していた国であると同時に、東アジアまで軍隊を派遣できる「力のある国」となる。


 つまりこのときに「北京議定書」に署名した8カ国が1900年における、世界の列強となる。


 その列強とは、イギリス帝国、フランス共和国、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー二重帝国、ロシア帝国、イタリア王国、アメリカ合衆国、日本帝国だ。


 日本はついに列強入りを果たし、大国となったのだ。


 清国のこの無謀ともいえる宣戦布告は多大な犠牲を払うことになる。


 まず賠償金が4億5千万両(テール)を39年におよぶ分割払い(利息を含めると約9億8000万)というものだった。


 これは年間歳入が8800万両(テール)に対して、まさに莫大な賠償金となる。


 さらに自国民保護という名目で各国の軍隊が駐屯することを認めた。


 このとき駐屯が認められていない満州一帯に派兵していたロシア軍がそのまま要衝を占拠し続け、実効支配の度合いを強めた。


 そして、このため満州側を通過するシベリア鉄道、東清鉄道の開通はあと数年という段階に入った。



 この時期に矢田の耳に文明国というものに落胆する出来事が起きた。


 1898年に始まった米西戦争の時にフィリピン独立運動を支援した。


 しかしスペインを下し、フィリピンの領有権を得ると手のひらを返して、独立を認めなかった。


 フィリピン=アメリカ戦争は正規軍対武装した民衆のゲリラ戦となった。


 激しい抵抗に手を焼いた米軍は「10歳以上はすべて殺すこと」という命令を下した。


 このような狂気の命令であるが、当時は文明人が非文明人に対して行う行為として正当だとアメリカの新聞では主張していた。


 この民間人の犠牲者は20万とも150万とも言われているが、正確な人数は不明である。


 この文明国アメリカは6年前に旅順要塞を攻略した日本に対して「旅順虐殺」があったと声高に叫び、日本を非難していた。


 これは清国敗残兵が民間人の衣服を着て――便衣兵として逃げ隠れたり、あるいは戦闘を継続したため、旅順一帯を掃討した作戦を言っている。


 この作戦で民間人にも犠牲者が出たのは事実だ。


 その犠牲者数は「ニューヨーク・ワールド」が2000人もの民間人が残虐に殺されたと主張した。


 このニュースは日米不平等条約改正交渉にまで影響を及ぼし、それは非文明的な国と対等な条約を締結するのは時期尚早というものだった。


 つまり文明国とは自国が数十万人殺害するのは素晴らしいことだと誇り、他国がおこなえば外交問題だと高らかと宣言して、交渉を有利に進める。


 矢田はアメリカという国に失望した。


 そして敵愾心を煽る絵を自粛するのもやめるべきだと悟った。


 矢田一嘯は他の民衆と同じく帝国主義というものを「学習」した。



 明治35年(1902年)、ロシアを警戒するイギリスと日本とで「日英同盟」が成立した。


 このため日露の緊張が高まり、それは元寇記念碑建設運動にも影響を及ぼした。


 この年に福岡県知事に就任した河島 (じゅん)は激変する世界情勢を懸念していた。


 もはやロシアとの戦争は不可避だろうと、あの国が引き下がるなどということはないと理解していた。


 彼も広橋と一緒に伊藤博文の欧州調査に随行した一人だ。


 そのため複雑怪奇なヨーロッパ情勢には多少の理解がある。


 そして広橋が熱を上げている元寇記念碑建設運動に興味はあったが、彼は「民力休養・政費節減」を掲げる立憲自由党の幹事だった。


 湯地の訴える国防優先とは意見が対立していた。


 しかし日清戦争後によって社会、産業構造が変化すると、それまで軍備優先のための重税が相対的に減税水準になった。


 このため与野党双方が対立する争点を失い、ほぼすべての党が分裂してしまった。


 それはほどなくして二大政党制へと収束していく。


 こうなると国防に関して対立する必要が無くなり、表立って支援することが出来るようになった。


 河島はそこで記念碑運動を進めるために一つの決断をした。


 貯えたあごひげを撫でながら、待ち人を待つべく窓から外を眺める。


 ――コン、コン。


 秘書官が来客が来た旨を伝える。


 少しして県知事室に日蓮僧侶 佐野が入ってきた。


「単刀直入に言おう。文無しだ」


 湯地はどちらかというと国防に固執して、元寇記念碑にはそこまで固執していなかった。


 すべては国防意識を国民に芽生えさせるために行動している。


 そのため多少集まった寄付金はすぐに次の講演会への移動費として使ってしまった。


 都会ではなく、できるだけ地方で演説しようという意向も、経費の増加に拍車がかかった。


 佐野は黙ってこくりと頷いた。


「北条時宗ではそちらの日蓮宗と信者方の反発もあろう。そこで亀山上皇の銅像を建てるように変更するので、彼を助けてくれないだろうか」


 福岡県知事が腹を割って記念碑計画の出資を願い出た。


 それを聞いて佐野はにこりと笑顔をつくる。


「私は湯地さんと仲違いしたわけじゃありません。あの時に周囲の圧力から別々に行動しようとなったんです。彼とは今も志を同じくした友だと思っています」


 そして、「あの時とは大分世の中が変わりました。引き受けましょう」、と言った。


 佐野も日蓮宗の改革の支持者を獲得していって、影響力が増していた。


 二人は湯地と会い、そして説得した。


 湯地も「北条時宗でなくなるのは悲しいが、むしろ亀山上皇ともなればまさに今の国勢を表していると言える」と言い切った。


 記念碑運動が再度動き出した。



 ――2年後。


 明治37年(1904年)ついに日露戦争が勃発した。


 日本は初めて列強の一角と本格的な戦争を体験する。


 その戦時中に亀山上皇像と日蓮上人像が完成した。


 明治37年(1904年)、11月。


 明治21年から数えて17年もの歳月をかけて、元寇記念碑建設運動はようやく終結することとなった。


 除幕式には大勢の人が集まった。


 湯地はこの式で――『明治三十七年五月十七日、特旨ヲ以テ故北条時宗ニ、従一位ヲ贈ラセ給フ。嗚呼聖恩枯骨ニ及ヒ、億兆感泣セサルモノナク、時恰モ征露膺懲ノ軍起リ、陸海戦闘方ニ酣ナルニ際シ、将士之ヲ聞キテ、益感憤興起シタルヲ信ス。』――と祝辞を述べている。




 明治38年(1905年)、日露戦争が終戦した。


 大国ロシアを打倒したことで、国内は戦勝ムードになると同時に、賠償金を得られなかったことで、不穏な空気が漂っていた。


 佐野はこの時勢に日露戦争勝利を記念してパノラマ館を建設することにした。


 場所は亀山上皇像と日蓮上人像のある東公園内だ。


 佐野は矢田一嘯の制作現場に来た。


「佐野さん、言われた絵できてるよ」


 そう言って威厳のある日蓮の肖像画を見せた。


「おお、これは素晴らしい。まるで本当に生きてるようだ」


 佐野は大いに満足した。


 その出来栄えをあらん限り、褒めちぎる。


 そして、さらに切り出した。


「実は元寇記念碑の公演広場に矢田先生もご存じのパノラマ館を建てようとなっています」


 それを聞いて、矢田一嘯が顔を上げる。


「そいつぁ、本当かい?」


「ええ、つきましてはパノラマ画を描いていただきたい」


 久しぶりの元寇の絵になる。


「いいでしょう。書きまっせ」


 矢田は、承諾して絵の制作に入る。


 この十数年の間に帝国主義の影響は多方面に作用した。


 大衆芸術家は世界に蔓延する終わりなき領土欲と非文明人を見下し苛烈な圧政を敷く、この狂気の時代、その空気を一心に受け止めて筆を取った。



 明治43年(1910年)元寇パノラマ館が完成した。


 元寇油絵の迫力のある圧巻の戦闘シーンが連続して展示され、「元寇パノラマ館」と呼ばれるようになる。


 その絵物語はこの時代を反映していた。


4話分ぐらいを1話にまとめました。

本編関係ないので日露戦はカットです。

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