明治期元寇 戦争前夜
第一幕 皇帝への謁見
1265年、官吏・趙 彝が時の皇帝フビライハンに謁見する。
彼は半島の高麗出身であるが、科挙に合格したため進士という優遇された立場になった。
そのためモンゴル帝国に仕える身なので、祖国からは洪茶丘と並んで反逆者と言われる男だ。
この科挙は10万人に数人というほどの狭き門である。
進士には膨大な書物の暗記ではなく「君子」であることが求められる。
これは役人たちに聖人君子――徳の高さで中華王朝の広大な版図を治めようという発想からきている。
そう言ったこともあり歴代の皇帝はその有能な高官の発言に真摯に耳を傾ける。
皇帝に謁見。
趙 彝は謁見の間に半島周辺の地図を広げる。
皇帝は豪奢な椅子に腰かけて、身を乗り出して話を聞く。
趙彝は「日本は高麗の隣国であり、典章(制度や法律)・政治に賛美するに足るものがあります。また、漢・唐の時代以来、あるいは使いを派遣して中国と通じてきました――」
そして概要の説明が終わると、この日本に対して通好するための使節を派遣しましょう、と奏上する。
皇帝はしばし考えこんでから、隣に控える初老のラテン人に話しかけた。
「ふむ、そうか、してマルコ・ポーロよ。おぬしはどう思う」
白髪の初老の商人はカトリックの宣教師の服を身にまとったマルコ・ポーロ。14歳。
そのシワは長い冒険と苦労を刻み、眼光は利益を決して逃さない豪商のそれだ。
名だたる武官や文官、科挙たちを抑えて、皇帝の寵愛を受ける初老のラテン商人である。
「はい、私が聞いたところによりますと、莫大な富が眠る富国にございます。黄金の国ジパング、それが島国の名でございます」
1265年といえばマルコ・ポーロの父ニコロと叔父マテオが、今まさにローマ教皇に書簡を渡すべくヴェネツィアへと向かっている最中となる。
だが、このマルコは二人とは合わずに単身大都に来て、皇帝に仕えた。
皇帝はマルコ・ポーロも勧めたことから、この国に対して使節を送ることを決めた。
「ところでマルコよ。お主は、その……かなり老けているが大丈夫か?」と皇帝は心配そうに聞く。
「生まれつきにございます。見た目は老人でも心も体も14歳です」
マルコはそう断言した。
「むしろ生まれつきのほうが驚きだ。あとで高名な医師に診てもらうがよい」
「ほほほ、親愛なる皇帝陛下、世界はそれほどまでに広いのです。後ほど世界の広さを、私が半生をかけて見聞した様々な土地についてお話しましょう」
「お主、本当に14歳か!?」
皇帝が周囲を見渡すと、他の官僚たち全員が目を背けるのだった。
https://33039.mitemin.net/i657992/
第二幕 北条時宗 使者を追い返す
モンゴル帝国は何度も使節を送るが、最初は海を渡れず引き返し、次は国書を無視され、3度目にはついに対馬島民たちといざこざとなった。
1269年。
まずモンゴル国使8人、高麗国使4人、従者70人余、という規模で来島した。
その時、対応した島民である塔二郎と弥二郎が敵の侵略と誤認して武器を持って、上陸を阻止しようと躍り出た。
国使はこれを生け捕りにして、首都・大都へと連れて行った。
皇帝はこの2人を手厚く歓迎した。
捕虜と謁見。
「汝の国は、中国に朝貢し来朝しなくなってから久しい。今、朕は汝の国の来朝を欲している。汝に脅し迫るつもりはない。ただ名を後世に残さんと欲しているのだ」
皇帝はそう言い、多くの宝物を下賜した。
ついで宮殿の見学を許可した。
2人は「臣ら、かつて天堂・仏刹ありと聞いていました。この大都こそそれなのでしょう」と言い、その豪奢な別世界に驚嘆した。
皇帝はその反応に満足して2人を送り返した。
話は戻って第2回使節団が国書を届けたとき、鎌倉での一幕。
北条時宗は蒙古からの書面を見て怒りをあらわにした。
ふくよかな丸みを帯びた顔つきに不健康そうな人相、しかし何ものにも屈しない大和魂を持っていることは誰の目にも明らかだった。
「これはなんと無礼な手紙か! 脅し以外の何ものでもない!」
「まったくであります」
「それにしてもこの文章は……これはなんといえばいいのだ」
国書に書かれた文面は以下のとおりである。
――――――――――――――――――――
蒙古国牒状
上天眷命
大蒙古國皇帝奉書
日本國王、朕惟自古小國之君
境土相接、尚務講信修睦、況我
祖宗受天明命、奄有區夏、遐方異
域、畏威懷徳者、不可悉數、朕即
位之初、以高麗无辜之民久瘁
鋒鏑、即令罷兵還其疆域、反其
旄倪、高麗君臣、感戴來朝、義雖
君臣、而歡若父子、計
王之君臣、亦已知之、高麗朕之
東藩也、日本密迩高麗、開國以
來、亦時通中國、至於朕躬、而無
一乘之使以通和好、尚恐
王國知之未審、故特遣使持書
布告朕意、冀自今以往、通問結
好、以相親睦、且聖人以四海爲
家、不相通好、豈一家之理哉、至
用兵、夫孰所好
王其圖之、不宣
至元三年八月 日
――――――――――――――――――――
「時宗様、この国書の大蒙古國皇帝奉書と日本國王の部分に注目してください。このように一文字下げることによって、間接的に我が国を臣下に列する関係を望んでいると言っております」
科挙制度では「五経」の数十万の文字を誤字脱字、一字一句違えない暗記能力が求められる。
それに合格した者が書く公文書ともなれば文字の位置から、漢字の美しさに至るまですべてにおいて一切の間違い妥協があってはならない。
それは古くから交流のある日本も当然ながら知っている。
そのため文字の構成だけでも真意が伝わる。
「つまり、これは不平等条約を求めているにほかなりませぬ」
外交相手の文を一字わざと下げて対等な外交をするつもりはないと暗に匂わせていた。
「……不平等条約とはなんだ?」
「……最近は不公平な取り決めをそういうらしい」
「なんと無礼な!」
周囲でもざわめく。
「して、北条時宗殿はこの一件どうしますか?」
国威を傷つけられて激怒した北条時宗は、「使者をさっさと送り返せ!」といい国外へと追放した。
そして、彼は着々とモンゴル帝国から国家国民を守るための準備を始める。
彼の毅然とした態度、国防意識は明治期に湯地丈雄に広められ、それが評価されて従一位が追贈される。
1269年の9月に第4回の使節団は塔二郎と弥二郎を護送する名目で渡来。
そのまま太宰府まで来て、今度は行政機関である中書省が発行した国書を渡す。
そこ国書には明確に日本の従属を要求する内容だった。
1271年の第5回の使節団を率いたのは女真族の趙良弼になる。
彼は太宰府より東への訪問を拒否された。
国書の返書を待ち、回答しない場合は武力行使もあり得ると忠告した。
そして4か月後に回答の代わりに日本使節と共に帰国した。
1272年に6回目の使節団とし趙良弼がまたしても渡来した。
彼は密命を帯びてやってきた。
「よいかできるだけこの国の情報をまとめて、持ち帰るのだ」
「ハッ、敵情視察ということですね」
「そうだ。詳細に調べ上げ、漏らさず書き残すのだ」
「仰せのままに」
彼らはただ返書を待つのではなくスパイ活動していた。
明治期の世界各国が外交官を派遣して、その内情を調べ尽くすように、この時代も外交使節団は敵情視察をしていた。
およそ1年ほど滞在した後に帰国した。
執政北条時宗は来るか来ないかもわからい中、国防を重要なことと考え、決断を下す。
「速やかに高札ですべての民衆に周知するのだ」
「ハッ」
高札にはモンゴル帝国が攻め込んでくることが書かれ、それが一般国民に周知した。
まさに明治期に大清帝国やロシア帝国との戦争の危機を国民全体で共有したことと同じになる。
なお、高札は古代から使用されていたが、それが大衆にまで浸透したのは江戸時代になる。
この板には掟や規則、さらには改元から将軍の代替わりまでを書き記して広く周知させるために用いられた。
明治初期はそんな江戸時代の手段を継承して、かなりの頻度で使用していた。
しかし高札が江戸期に文化のように根付いたのは江戸町民の識字率の高さが影響している。
鎌倉期に高札が機能したかどうかはまた別の問題となる。
「なあ、一体なんて書いてあるんだ?」
「さあ? 文字なんて読めねぇからわかんねぇ」
こうして高圧的なモンゴル帝国による外交圧力に北条時宗が屈しなかったために戦争は不可避な状態となった。
https://33039.mitemin.net/i657993/
狂気の帝国主義時代の話から一転、やっぱりギャグ化するのが元寇の運命。
この時代の言説の特徴はロシア帝国が憎ければマルコ・ポーロも憎いという具合になります。
がんばれマルコ・ポーロ14歳。
そしてやっと北条時宗が出てきました。
彼の評価も江戸末から明治期に外圧によって不必要なほど高まっています。
そのため作品の性質上この時期に出てくる形になりました。
掲載した絵に関しては下記を出典としています。
出典:うきは市 元冠の油絵 本仏寺
URL
https://www.city.ukiha.fukuoka.jp/kiji0035107/index.html
作者:矢田一嘯




