武士のはじまり
――奈良時代末期、三十八年戦争初期。
東北の〈従わない者〉との戦いは山岳弓騎兵 対 重歩兵弓兵の混成軍となった。
わずか数百騎の弓騎兵 対 十万以上の大軍――人口の少ないこの時代では圧倒的な兵力差だった。
朝廷軍は数の優位によって重要な要衝をまたたくまに制圧していった。
ところが戦闘に関しては朝廷側が圧倒的に不利だった。
機動力に勝る山岳弓騎兵がその特性を生かして、執拗に襲撃を繰り返したのだ。
当初の目論見とは違い戦いはずるずると長引くのだった。
転機。
この何十年も続いた討伐戦争に転機が訪れた。
征夷大将軍副将、坂上田村麻呂の下に〈従わない者〉の一派が降伏したのだった。彼らは乳飲み子の時から続く戦乱に嫌気がさしていた。
坂上田村麻呂は降伏した〈従わない者〉たちと一つの約束を交わした。それは一族の身と安全を保障をする代わりに男子は討伐軍に参加することだった。
信用は戦果を持って得られる。
〈従わない者〉はこの取り決めに従った。
ここに二つの全く違う兵科の融合が行われることとなった。
東国は山岳弓騎兵の技術を出し、〈治める者〉は大陸から得た鉄の技術を出した。
重装化。
坂上田村麻呂率いる遠征軍はすぐに新しい兵科の模索を始めた。
まず彼らは弓騎兵の長所を一つずつ潰していった。
僅かに得られる鉄、そのすべてを大陸で最新の対矢鎧である薄片鎧の製作に費やした。
重装化に伴い重量が増したので、馬はできるだけ軽装にした。
この馬の防御力の無さを母衣と呼ばれる布を背に付けた。これにより走っているの時に流れ矢を防いでくれる。
さらに随伴歩兵には垣楯と呼ばれる大きな楯を持たせた。
大陸式の重装備をすべて捨てて、垣楯と弓矢のみという装いは、騎兵と共に駆け回ることを前提とした。
そして、垣楯を並べることで敵騎兵の機動力を奪うという役目も生まれた。
改善は防御だけにとどまらない。
重装化による機動力の低さを貫通力と飛距離を上げることで対処した。
その結果、獣の骨を使った短弓から竹材を使った大弓へと変わっていった。
大鎧を着て、馬で駆け、弓で射る。垣楯を持ち、味方を守り、敵を足止めする――重装長弓騎兵と垣楯弓兵の誕生である。
武士団の結成。
律令体制によって実現できた費用度外視の新しい部隊の創設。
それでも既存軍の兵を大幅に削減することとなった。
しかし、それだけではこの新兵団を運用することはできない。
主に戦闘を担う、〈従わない者〉からなる騎兵部隊。
反乱が起きないように同じ思想で統一させるための従軍僧侶。
兵站物資輸送に長けた商人からなる兵站部隊。
その部隊をまとめる貴族階級から武官。
ここに武官と士官と輸送団そして僧侶からなる諸兵科総合部隊「武士団」が誕生した。
弓騎兵殺しの武士団。
801年(延暦二十年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂率いる武士団が遠征に出た。
総兵力四万弱、これは最大時の四割ほどの動員数であるが、その陣容は完全に別物だった。
防御に特化した垣楯部隊とそれに守られる輸送団によって〈従わない者〉の襲撃はすべて失敗に終わった。
さらに武士たちは地形を読み垣楯を巧みに配置して、弓騎兵の追い込みを始めた。
垣楯弓兵たちの矢戦によって疲弊したところへ、少数の重装弓騎兵による追い討ち。
〈従わない者〉たち山岳弓騎兵はそのほとんどが為すすべなく全滅した。
まさに圧倒的で一方的な戦いは、たった一度の遠征で終った。
終戦。
〈従わない者〉たちは勝てないと悟り降伏した。
これに対して坂上田村麻呂は敵であった彼らに誠心誠意、礼節を持って接した。
これは武士団を構成する俘軍――かつて降伏した者たちとの約束として無益な殺生をしないことを誓ったからだ。
しかし都の貴族たちは怨敵を許すことはせず皆殺しを命じた。
これに対して坂上田村麻呂は助命を懇願し、最終的に棟梁二名の処刑のみとなった。
この結果、彼の尽力に感謝した〈従わない者〉たちは征夷大将軍を信頼し、新たな棟梁として忠誠を誓うのだった。
種が撒かれる。
世はすでに平安初期、ひとたび遠征すれば連戦連勝。そして終戦。
その過程で軍備は減り続け、ついには四千以下にまでなっていた。
貴族たちはあまりに一歩的な合戦と勝利の理由がわからなかった。
彼ら死を忌み嫌い――実際に戦ったことが無く、そこで遠方での戦闘と勝利を朝廷の御威光によるものと解釈した。
彼らは自分たちが作り出した強力な暴力装置に気が付かなかった。
またこの時には大国唐との戦いはついに起きず、唐の衰退から負担の大きい律令制を維持する理由が喪失していた。
武士団も解散となり〈従わない者〉たちは団結して反乱を起こさないように少数の一族を各地方へと住まわせた。
その時、彼らを土地に縛るために地名を氏名として与えた。
こうして西国の各豪族の下に、獣を射り喰らう、土地の名を冠した、起源不明の暴力集団「仕える者」が各所に同時に現れた。
終わりの始まり。
平安末期、軍事力の消滅した朝廷では貴族たちの権力闘争が激化していた。
その中でも台頭したのは平家だった。
彼らはその起源を武士団の兵站部隊とし、〈仕える者〉経由で武士団の知識を有していた。
だが死を忌み嫌う貴族には、律令制ですら負担しきれない武力に特化洗練された武士団を運用することはできなかった。
そこで「本物」に限りなく近い「偽物」、礼式と作法を整えた戦、格式高い一騎打ち、とまさに戦の負担を最小限に抑える枠組みを作り上げた。
「本物」に限りなく近い「偽物」、それでもこの私兵団を擁する平家には誰も敵うことがなかった。
平家の繁栄はその問題も浮き彫りとなった。
例え偽物でもその軍備の維持には莫大な費用が負担としてのしかかった。
力の源泉である私兵を維持するために経済と貿易を優先するのは当然だった。
しかしそれが地方豪族と平家以外の全ての有力者との敵対の道となっていく。
「偽物」対「本物」。
ついに治承・寿永の乱、あるいは源平合戦と呼ばれる戦いが起きた。
戦いは当初平家側の圧倒的な優位で進んだ。
しかし平清盛の死去と養和の飢饉によって戦いは膠着した。
その間に源氏側は東北からかつての「本物」の武士団、その子孫を集めて再編を始めた。
彼らは先祖伝来の口伝に従い、常に肉を喰らい、仏道を信じ、弓馬に長けた武士たちが鎌倉に集う。
その生き方は「本物」のそれだったが、装備だけは反乱抑止のためにまったくないに等しかった。
分捕りの功。
そこでまず第一の勲功として分捕りの功を認めた。
武器防具が無いのなら、それをそろえた平家から奪えばいい。
こうして、敵からすべてを奪う軍勢ができた。
手負、討死の功。
長い布教活動の結果、彼らは死後に極楽浄土へ行けると信じる、死を恐れない兵へとなっていた。
しかし残された親族一門に対する懸念が残っていた。
そこで第二、第三の武功として手負、討死の功を制定した。
こうして、死を恐れない軍勢ができた。
先懸の功。
いかに平家と言っても矢が尽きればただの的でしかない。
礼儀・作法を無視すれば矢が先に尽きたほうの負けなのは戦の常識である。
そこで第四の武功として先懸の功を制定した。
しかし、皆がこぞって先懸をしないように、大将が認めた時以外は無効となる抑止を定めた。
それはあまりに一方的な戦いだった。
平家の武士団は身内の貴族と家臣からなる礼儀作法を第一とした偽物だ。
どうしようもないほどの偽物だった。
対して源頼朝率いる武士団は本物だ。
山岳弓騎兵による奇襲、夜襲、追い討ち、兵站部隊の狙い撃ち。
平家が長年培った戦いの作法を無視する、本当の戦いがそこにあった。
一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦い。
名のある武将は瞬く間に戦死して、ついに海に逃げるしかなかった。
栄枯盛衰。
ボロボロの船団が目指すは平家の勢力圏である松浦党との合流と壱岐島での再起。
地上戦では勝てないと理解した平家は海上に移っていた。
だが壇ノ浦を越えて下関を見ると、絶望が広がった。
九州の武士団のほとんどが源氏側に与した。
両岸に源氏の旗が掲げられ、すべての武士が弓を引く。
この日、平家は離島に逃げ延びることすら諦め海に身を投じた。
平家滅亡。
残された者たちはやはりなぜ戦いが一方的に終わったのか理解できなかった。
およそ七年に及ぶ合戦ではあるが、東国鎌倉が動いてから終焉までわずか二年あまり。
その軍勢が弓騎兵殺しに特化したものだということに、誰も理解が及ばなかった。
残された者たちは自分たちが理解できる物語を作ることにした。
ある程度は史実に忠実ながら、不明瞭な戦術、戦略に関しては物語を優先した書物。
「平家物語」の誕生である。
この武士の起源は蝦夷だった説は本作品内の設定です。
史実の武士の起源は最新の研究をもってしても謎のままです。
通説の土地を守るために農民が武装→武士化というのは昔の授業で言われていました。
現在では農民が鉄を大量に手に入れて馬に跨って弓を引いて、というのがあり得なさすぎるので否定気味です。
他の説では都で要職につけなかった次男三男が在野化→武士化したと言われています。
こちらはある日、雅な貴族のボンボンが肉を喰らう野生児になって鉄と馬と弓を……と同じく説得力が低いそうです。
果たして武士の起源が解明される日が来るのでしょうか?きたらいいなー。
それまでは鎌倉殿の大河ドラマでも見て我慢します。




