第8話 中庭を歩く
冬灯花は、結界の光でしか咲かない。だから夜にしか見られない。
けれど春が近づくと、昼でも部分的に光が漏れる。夜間防衛結界が、少しだけ弱まるから。季節の変わり目だから。薄紫の花びらが、日中の微かな結界光に照らされている。完全ではない光。でも、光だ。
中庭に出た。入団試験の準備で、ここ五日間、結界理論の本を読みっぱなしだった。頭が重い。目の奥がじんわりと痛む。
冬灯花は、相変わらず薄紫だった。ただ、今日は光が違う。昼間の光に、かすかに結界光が混ざっている。だから、花の色が二重に見える。現実の色と、結界の色の両方。
「点検中だ」
声がした。後ろから。振り返ると、クラウスが立っていた。いつものような報告書ではなく、魔力計測装置を持っていた。
「結界の点検ですか」
丁寧語で聞いた。嘘ではないのだろう。本当に点検しているのだろう。けれど、この時間に、この場所を選ぶ理由は、結界だけではないはずだ。
「そうだ。春の季節変動が始まった。結界の波動が不安定になる。監視が必要だ」
いつもの通り、報告書のような説明。でも、その横顔を見ると、目が違った。見つめている。結界ではなく、私の方を。
「春灯花の色が変わりましたね」
言った。結界光の話。
「そうだ。昼間の光が通り始めるから、結界が弱くなる」
「そういう季節なんですね」
「そうだ。お前は、春が好きか」
唐突な質問だった。それまでの報告書のような話し方から、別の形へ。普通の会話へ。人間が人間に聞く、ただの質問へ。
「春ですか」
考えた。(春が好きかどうか、考えたことはない。冬も、秋も、全て壁の向こう側で過ごしてきたから、季節なんて関係なかった)
「春は、歓迎な季節ですが、生憎、方向音痴が悪化する季節でもあります」
正直に言った。それは本当だ。春になると、新緑が増えて、道標がわかりにくくなる。枝葉が伸びるから。太陽の位置も変わるから。
「方向音痴」
彼は、小さく笑った。いや、違う。声が変わった。それまでの団長の声ではなく、別の音。
「では、戻りを見張っていよう」
そう言って、私の横に立った。結界計測装置を持ったまま。
◇◇◇
中庭を一周した。石畳の上を、二人で。ゆっくり歩いた。足音が、静かに重ねられた。
クラウスが魔力計測装置で、結界の波動を測定していた。その傍ら、私は冬灯花を見ていた。次々と咲いている花。春が近づいて、光が強くなるにつれて、花の数が増えていく。薄紫が濃くなっていくような。そういう季節だ。
「結界がこの季節を呼ぶのか。季節が結界を揺さぶるのか」
彼が呟いた。
「どちらですか」
聞いてみた。
「その分け方は、正確ではない。互いに影響しあう。季節の魔力が、結界に働きかける。結界が、その魔力を吸収する。春の光が増えるから、結界が薄くなる。結界が薄くなるから、昼間の光がより強く入る。因果は循環している」
説明していた。それは、レポートではなく、考えを言葉にしたものだった。(この人も、考えているのだ。結界だけではなく、季節について。複雑な因果について。言葉に詰まりながら)
「春は、そういう季節なんですね」
その時だ。
方向が、分からなくなった。中庭は、ただの四角い空間のはずなのに、突然、どこから来たのか分からなくなった。四方から石壁が迫ってくるような感覚。(これだ。これが方向音痴だ。春の日差しが強くなると、いつも起こる。太陽の位置がずれるから、全ての方角がずれてしまう)
「生憎、戻る道が……」
言いながら、キョロキョロしていた。同じ石畳を見ているはずなのに、全く別の景色に見える。
クラウスが、手を出した。
握った。温かかった。黒い手袋をしていない。素の手だ。(この人の手を握るのは、初めてだ。三年間、壁を挟んでいたから。でも、今、手を握っている。確かに触れている)
「この方向だ」
導いた。正確に。迷いなく。
歩いた。彼の手に引かれて。石畳の感触が足裏に伝わる。角を一つ曲がり、二つ曲がる。彼の歩幅は大きいのに、私に合わせて遅くなっていた。報告書のような正確さで方向を示しながら、速度だけは私に合わせている。
途中、冬灯花の群生を通り過ぎた。薄紫の花びらが、二人の足元に散っている。春の風が、花の香りを運んでくる。手を繋いだまま、花の間を抜けた。
◇◇◇
正門に着いた。元の場所だ。
「戻った」
彼が言った。手を離した。温度が消えた。
「ありがとうございます。毎回迷ってしまって、お恥ずかしいです」
丁寧語で礼を言った。
「お前の魔力波動の方が、ずっと正確だ。僕は、結界を通して、お前の位置を感じている。だから、迷わない」
呟いた。それは、報告書のような説明ではなく、別の何かを言っていた。(三年間、壁越しに感じていたと言ったのか。そういう意味か)
「クラウス様」
呼んだ。いつもの敬称で。でも声が揺れていた。
「……名前で、呼んでいいか」
彼が言った。唐突だった。中庭の石畳の上で、結界計測装置を片手に持ったまま。三年間、業務連絡のように話しかけてきた人が、初めて許可を求めている。
答えられなかった。言葉にならないから。
耳が熱い。春の日差しのせいだと思いたかった。
「春の結界は、不安定です」
返事の代わりに、そう言った。季節の話に逃げた。
彼は何も言わなかった。ただ、頷いた。でも、その横顔の口元が、ほんの少しだけ上がっていた。
◇◇◇
書斎に戻ると、いつものお茶が待っていた。
二つ。並んでいた。一つは、私が毎朝置く紅茶のカップ。もう一つは、彼が淹れたコーヒー。
その横に、春告げ草の花が一輪。中庭で咲いていた花だ。さっき、二人で通り過ぎた場所に咲いていたもの。いつ摘んだのだろう。手を繋いでいた間に、空いていた片手で摘んだのだろうか。結界計測装置を持ち替えて、花を一輪だけ。
そういう不器用な気遣いをする人なのだと、三年経ってようやく知った。
窓から、冬灯花が見えた。結界光に照らされて、薄紫に光っている。完全な光ではないから、色が二重だった。現実と結界の両方が、同時に見える季節。
その季節の中で、彼が手を握ってくれた。方向音痴の私を、導いてくれた。名前で呼びたいと、初めて許可を求めてくれた。
(これから、どうなるのだろう。壁の向こうから、こちら側へ。そういう季節なのだろう)
耳がまだ、温かかった。春の日差しと、別の温度で。




