表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白い結婚だった夫が離婚届を破り捨てた  作者: 秋月 もみじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/10

第8話 中庭を歩く


冬灯花は、結界の光でしか咲かない。だから夜にしか見られない。


けれど春が近づくと、昼でも部分的に光が漏れる。夜間防衛結界が、少しだけ弱まるから。季節の変わり目だから。薄紫の花びらが、日中の微かな結界光に照らされている。完全ではない光。でも、光だ。


中庭に出た。入団試験の準備で、ここ五日間、結界理論の本を読みっぱなしだった。頭が重い。目の奥がじんわりと痛む。


冬灯花は、相変わらず薄紫だった。ただ、今日は光が違う。昼間の光に、かすかに結界光が混ざっている。だから、花の色が二重に見える。現実の色と、結界の色の両方。


「点検中だ」


声がした。後ろから。振り返ると、クラウスが立っていた。いつものような報告書ではなく、魔力計測装置を持っていた。


「結界の点検ですか」


丁寧語で聞いた。嘘ではないのだろう。本当に点検しているのだろう。けれど、この時間に、この場所を選ぶ理由は、結界だけではないはずだ。


「そうだ。春の季節変動が始まった。結界の波動が不安定になる。監視が必要だ」


いつもの通り、報告書のような説明。でも、その横顔を見ると、目が違った。見つめている。結界ではなく、私の方を。


「春灯花の色が変わりましたね」


言った。結界光の話。


「そうだ。昼間の光が通り始めるから、結界が弱くなる」


「そういう季節なんですね」


「そうだ。お前は、春が好きか」


唐突な質問だった。それまでの報告書のような話し方から、別の形へ。普通の会話へ。人間が人間に聞く、ただの質問へ。


「春ですか」


考えた。(春が好きかどうか、考えたことはない。冬も、秋も、全て壁の向こう側で過ごしてきたから、季節なんて関係なかった)


「春は、歓迎な季節ですが、生憎、方向音痴が悪化する季節でもあります」


正直に言った。それは本当だ。春になると、新緑が増えて、道標がわかりにくくなる。枝葉が伸びるから。太陽の位置も変わるから。


「方向音痴」


彼は、小さく笑った。いや、違う。声が変わった。それまでの団長の声ではなく、別の音。


「では、戻りを見張っていよう」


そう言って、私の横に立った。結界計測装置を持ったまま。


◇◇◇


中庭を一周した。石畳の上を、二人で。ゆっくり歩いた。足音が、静かに重ねられた。


クラウスが魔力計測装置で、結界の波動を測定していた。その傍ら、私は冬灯花を見ていた。次々と咲いている花。春が近づいて、光が強くなるにつれて、花の数が増えていく。薄紫が濃くなっていくような。そういう季節だ。


「結界がこの季節を呼ぶのか。季節が結界を揺さぶるのか」


彼が呟いた。


「どちらですか」


聞いてみた。


「その分け方は、正確ではない。互いに影響しあう。季節の魔力が、結界に働きかける。結界が、その魔力を吸収する。春の光が増えるから、結界が薄くなる。結界が薄くなるから、昼間の光がより強く入る。因果は循環している」


説明していた。それは、レポートではなく、考えを言葉にしたものだった。(この人も、考えているのだ。結界だけではなく、季節について。複雑な因果について。言葉に詰まりながら)


「春は、そういう季節なんですね」


その時だ。


方向が、分からなくなった。中庭は、ただの四角い空間のはずなのに、突然、どこから来たのか分からなくなった。四方から石壁が迫ってくるような感覚。(これだ。これが方向音痴だ。春の日差しが強くなると、いつも起こる。太陽の位置がずれるから、全ての方角がずれてしまう)


「生憎、戻る道が……」


言いながら、キョロキョロしていた。同じ石畳を見ているはずなのに、全く別の景色に見える。


クラウスが、手を出した。


握った。温かかった。黒い手袋をしていない。素の手だ。(この人の手を握るのは、初めてだ。三年間、壁を挟んでいたから。でも、今、手を握っている。確かに触れている)


「この方向だ」


導いた。正確に。迷いなく。


歩いた。彼の手に引かれて。石畳の感触が足裏に伝わる。角を一つ曲がり、二つ曲がる。彼の歩幅は大きいのに、私に合わせて遅くなっていた。報告書のような正確さで方向を示しながら、速度だけは私に合わせている。


途中、冬灯花の群生を通り過ぎた。薄紫の花びらが、二人の足元に散っている。春の風が、花の香りを運んでくる。手を繋いだまま、花の間を抜けた。


◇◇◇


正門に着いた。元の場所だ。


「戻った」


彼が言った。手を離した。温度が消えた。


「ありがとうございます。毎回迷ってしまって、お恥ずかしいです」


丁寧語で礼を言った。


「お前の魔力波動の方が、ずっと正確だ。僕は、結界を通して、お前の位置を感じている。だから、迷わない」


呟いた。それは、報告書のような説明ではなく、別の何かを言っていた。(三年間、壁越しに感じていたと言ったのか。そういう意味か)


「クラウス様」


呼んだ。いつもの敬称で。でも声が揺れていた。


「……名前で、呼んでいいか」


彼が言った。唐突だった。中庭の石畳の上で、結界計測装置を片手に持ったまま。三年間、業務連絡のように話しかけてきた人が、初めて許可を求めている。


答えられなかった。言葉にならないから。


耳が熱い。春の日差しのせいだと思いたかった。


「春の結界は、不安定です」


返事の代わりに、そう言った。季節の話に逃げた。


彼は何も言わなかった。ただ、頷いた。でも、その横顔の口元が、ほんの少しだけ上がっていた。


◇◇◇


書斎に戻ると、いつものお茶が待っていた。


二つ。並んでいた。一つは、私が毎朝置く紅茶のカップ。もう一つは、彼が淹れたコーヒー。


その横に、春告げ草の花が一輪。中庭で咲いていた花だ。さっき、二人で通り過ぎた場所に咲いていたもの。いつ摘んだのだろう。手を繋いでいた間に、空いていた片手で摘んだのだろうか。結界計測装置を持ち替えて、花を一輪だけ。


そういう不器用な気遣いをする人なのだと、三年経ってようやく知った。


窓から、冬灯花が見えた。結界光に照らされて、薄紫に光っている。完全な光ではないから、色が二重だった。現実と結界の両方が、同時に見える季節。


その季節の中で、彼が手を握ってくれた。方向音痴の私を、導いてくれた。名前で呼びたいと、初めて許可を求めてくれた。


(これから、どうなるのだろう。壁の向こうから、こちら側へ。そういう季節なのだろう)


耳がまだ、温かかった。春の日差しと、別の温度で。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ