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白い結婚だった夫が離婚届を破り捨てた  作者: 秋月 もみじ


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第6話 名前を呼ばないでください


朝日が書斎の窓を斜めに照らしていた。


春が近づいている。窓を通して、庭の冬灯花が見える。薄紫の花。その香りが、室内にも届いている。いつもより濃い。春の日差しで、花の香りが強くなるのだろう。


クラウスが机の上に書類を広げていた。いつもの報告書ではなく、人事記録だった。羊皮紙の色が異なる。古い記録。黒檀の机に、ずらりと並んでいる。私の記録だ。


「君の魔力供給記録を、君の名前で再登録する。副団長の報告書は改ざんとして記録を修正する。反論の余地がないようにするため、証人が必要だ」


粛々と説明した。いつもの調子で。報告書のような無表情で。でも、言葉の意味が、私に刺さった。三年分の記録。全てが戻る。名前が戻る。


「今さら……」


短く、出た。感情が言語になる前に、もう別の言葉が続いた。


「今さら名前で呼ばないでください」


丁寧語が崩れた。短い文節。呼吸が浅い。肩が上下していた。声が震えている。(自分がこんなに怒っているのか。三年間、怒りを溜め込んでいたのか)


「三年間、名前で呼ばれなかった。実績で呼ばれなかった。存在しないものとして扱われた。今さら、何ですか。あなたは何をしたんですか」


言葉が出る。止まらない。もう、丁寧語ではない。短い文だけが続く。感情がせき止められていたダムが決壊したように。


「記録室を見ていたのか。報告書を見ていたのか。私の名前がないことに、気づいていたのか。気づいていたなら、何もしなかったのか」


呼吸が途切れる。でも、続く。


「記録が戻れば、全てが解決するとでも思ってるんですか。三年間の虚しさが、戻りますか。その間、どこで私は立っていたか、知ってるんですか」


そこまで言ったとき、自分が何をしているのか気づいた。夫に怒鳴っている。それも、壊れた声で。


「すまなかった」


クラウスが初めて、謝った。


その一言で、私の中の何かが壊れた。怒りではなく、何か違う感情。言葉にならない、けれど形のある重さ。目の奥が熱くなった。涙が溢れそうだ。彼の顔が、ぼやけていく。


「あの……」


声が出なかった。出しようがなかった。すべてが、音になる前に消えていく。


クラウスは何も言わなかった。ただ、そこに立っていた。報告書を持たずに。黒手袋もしていない。ただの人間として。


◇◇◇


昼前に、足音がした。複数の足音。書斎へ向かうような。


ドアが開いた。ミランダが入ってきた。彼女の後ろに、若手の魔導師たちが数人。銀色の魔導師ローブの裾が、光で輝いていた。藍色と銀糸の組合せ。昨日、夜間供給を一緒にしていた娘たちだ。みんな、目が真っ赤だった。怒りで。涙で。


「私が証人になります」


彼女の声は、硬い。決意に満ちている。


「あと二人も。記録室で、リーアさんの夜間供給を見ていた人たちです。それから、地下の相互支援室にいた娘たち。みんなが知ってます。リーアさんなしに、あの結界は持たないって。だから、証人になる」


ミランダが証人の書類にサインした。その手が震えていた。他の者たちも続く。署名の音が聞こえた。ペンがこすれる音。みんな、怒りに満ちていた。でも、それは私への怒りではない。不正への怒りだ。エルヴィラへの。システムへの。自分たちの同期が消されたことへの。


私は何も言えなかった。泣いていた。顔も、胸も、全てが揺れていた。自分の身体をコントロールできない。音もしない泣き方。涙だけが、落ちていく。


「ありがとう」


私の声は、消え入りそうだった。全く違う声が出ていた。小さな、震えた、誰のものでもない声。


三年間で初めて、泣いた。壁の向こう側で、ずっと我慢していた涙が、ここに出た。


ミランダが肩を抱いてくれた。その時も、泣いていた。


◇◇◇


書斎に戻ったのは、昼食の後だった。


ミランダたちが去った時、彼女が私の手を握ってくれた。「頑張ってください」と言った。今度は、その言葉の意味がわかった。頑張ることではなく、前に進むこと。壁の向こうから、こちら側へ。


証人の署名も完了した。記録室に戻すための書類も、全て整った。エルヴィラへの調査も、同時に走るという。あとは、修正が走るだけだ。名前が戻るだけだ。


でも、それは終わりではなく、始まりなのかもしれない。


目が腫れていた。泣いた後の顔は、どうしようもない。水で冷やしても、腫れは引かない。鏡を見なければいいのに、つい見てしまう。


クラウスが静かに、紅茶を淹れた。自分で。いつもと違う。彼は、紅茶を淹れない。侍従に任せる。それなのに。彼が、自分で。


「名前が戻った」


彼が言った。


「夜間防衛結界の維持記録。三年分。全て、リーアの名前で。副団長の報告書は、改ざんとして処理された。調査も始まる」


聞こえていた。けれど、それもまた別の次元にある話のような。私は今、三年分の涙の中にいた。


「三年間、壁の向こうにいたのは私です」


呟いた。それ以上は言えなかった。けれど、それで十分だった。その言葉が、全てを表していた。壁の向こう。誰にも見えない場所で。名前も、実績も、存在も記録されない場所で。私は立っていた。三年間、ずっと。


その空間に、彼はいなかった。でも、私の傍にはいた。


クラウスが黒い手袋をした。いつもの、報告書を持ちながら歩く時の手袋。だが、今、その手が私の肩に置かれた。何も言わずに。ただ、そこに。温かい。重い。


その手に、私は寄りかかった。壊れそうな自分を支える手。三年間、壁の向こうに欲しかった手。手袋越しでも、温度は伝わった。重くて、確かで、逃げない手だった。


しばらくそうしていた。どれくらいの時間が経ったのかわからない。涙が止まった後も、肩の上の手は動かなかった。


書斎の窓から、冬灯花が見えた。もう季節は春に向かっている。薄紫の花が、春の日差しで輝いている。銀木犀も咲き始めていた。春告げ草が、どこかで花を開いているのだろう。すべてが、新しく始まっていく季節。


その季節の中で、やっと、私も。


長い沈黙の中で、私たちは立っていた。


何も言わない。言葉がなくても、この空間は満たされていた。名前が戻ってきた。記録が修正された。けれど、それ以上に大事なのは、この瞬間かもしれない。三年間の沈黙が、やっと音になった。


彼の手が、そっと私の手に触れた。何も言わずに。名前も呼ばずに。ただ、指先だけが、壁の向こうから、やっとこちら側へ届いた。


握り返した。

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