婚約破棄の理由書 ~そんなことよりハリー様、わたくしの言うとおりにしないと死んでしまいますわよ?
書面が届いたのは、冬の朝だった。
執事が銀の盆に載せて運んできた封書には、見慣れた封蝋が押されていた。ハリー様の家紋だ。少し厚みがある。手紙にしては重い。
封を切ると、几帳面な文字が並んでいた。
『婚約破棄の理由書』
手が震える。理由書の最初のページには、たった一文が記されていた。
『あなたの行動に耐えられない』
わたくしの、行動?
何を仰っているのか、まるで理解できなかった。わたくしは、ただ彼のためを思って尽くしてきただけなのに。
一年前、両家の合意で婚約が成立してから、わたくしは完璧な妻になるべく努力を重ねてきた。彼が幸せになるよう、導いて差し上げた。
なのに、耐えられない?
ページをめくる。二ページ目から具体的な内容が始まっていた。
『一、起床時間の管理について。あなたは毎朝五時に私の部屋を訪れ、起こそうとした。私は七時起床を希望していたが、あなたは「早起きは健康に良い」と聞き入れなかった』
当然ではないか。早起きは三文の徳という。彼の健康を考えれば、五時起床が最適。わたくしは毎朝欠かさず彼を起こしに行った。時には鍵がかかっていることもあったが、合鍵を使って入った。彼のためなのだから。
次のページには、食事についての記述があった。
『二、食事の指定について。あなたは私の好物を「不健康」と判断し、野菜を多く含むメニューを強制した』
肉ばかり食べていては、体に良くない。わたくしは栄養バランスを綿密に計算し、彼の健康を第一に考えた献立を作成した。彼が「これは苦手だ」と言っても、「体のためですわ」と優しく諭して差し上げた。残すことは許さなかった。彼の健康は、わたくしの責任なのだから。
『三、服装の指示について。あなたは私の好みを無視し、あなたの趣味を押し付けた』
わたくしのセンスのほうが優れている。彼は自分で似合う服を選べなかった。だから毎日、彼に相応しい服を選んで差し上げた。彼が「これは窮屈だ」と言っても、「あなたに似合っていますわ」と着せた。見た目は大切なのだから。
理由書は延々と続いた。
『四、交友関係への介入について。あなたは私の親友を「悪影響」と決めつけ、会うことを禁じた』
あの友人は、彼をだらしない生活へ誘う悪友だった。酒場に連れ出し、無駄な時間を過ごさせる。わたくしは彼のために、そんな友人から遠ざける必要があった。「あの方とは距離を置くべきですわ」と何度も説明して差し上げた。彼は最初、渋っていたが、わたくしが正しいと理解してくれたはずだった。
『五、社交界での管理について。あなたは私が発言しようとすると、必ず遮って代わりに答えた』
彼は口下手だった。適切な言葉を選べず、失言する恐れがあった。だからわたくしが横にいて、彼の代わりに答えて差し上げた。「ハリー様はこうお考えですのよ」と。これは妻の務めではないか。彼を守るために必要なことだった。
ページをめくり続ける。読書の制限、乗馬の禁止、スケジュールの管理。全て、彼のためを思ってしたことだ。理由書は三十ページを超えていたが、わたくしには理解できなかった。
なぜ、彼はこんなにも細かく記録しているのだろう。
『六、読書の制限について。あなたは私が好きな小説を「時間の無駄」と判断し、軍事書を読むよう強制した』
娯楽本など、何の役にも立たない。彼が読むべきは、一族の長となるために必要な実用書だ。わたくしは彼のために、厳選した書籍リストを作成した。彼が「これは読みたくない」と言っても「あなたの将来のためですわ」と諭した。読み終わるまで、次の本は渡さなかった。
『七、乗馬の禁止について。あなたは「危険だから」と私の唯一の息抜きを奪った』
乗馬は危険だ。落馬すれば骨折する。彼の体に傷がついては困る。わたくしは彼を心配して、乗馬をやめるよう説得した。「わたくしの言うことを聞いてくださらないの?」と問えば、彼は黙って頷いた。わたくしの愛情を理解してくれたのだと思っていた。
『八、スケジュールの管理について。あなたは私の一日を十五分単位で管理し、自由時間を一切与えなかった』
効率的な時間の使い方を教えて差し上げただけだ。起床、食事、勉強、社交、運動、就寝。全てを最適化したスケジュールを作成した。彼が「少し休みたい」と言っても「時間は有限ですわ」と、続けさせた。無駄な時間など、あってはならない。
理由書の中盤に差し掛かった頃、ある記述が目に入った。
『九、拒絶の無視について。私は三ヶ月前から明確に「やめてほしい」と伝えていた。しかしあなたは、それを「恥ずかしがっている」と解釈し、さらに干渉を強めた』
恥ずかしがっていたのだ。男性は素直に感謝を表現できない。わたくしは彼の本心を理解していた。「やめてほしい」という言葉は、照れ隠しに過ぎない。だから、わたくしはもっと彼のために尽くした。「あなたは自分に甘すぎますわ」と、指導を強化した。
それなのに。
理由書の後半、ある出来事が詳細に記されていた。
『十、形見の処分について。あなたは私が大切にしていた亡き母の形見の本を「古臭い」と判断して勝手に処分した』
あの古い本のことか。ボロボロで、読む価値もないものだった。彼の部屋に置いておくには相応しくない。だからわたくしは処分した。彼が激怒したことは覚えている。彼があんな顔をしたのは初めてだった。
『どうして捨てたんだ!』
彼が叫んだので、冷静に応じた。
『あなたのためですわ。過去に囚われてはいけません』
彼は何も言わなくなった。涙を流していたが、わたくしは構わなかった。いずれ、彼はわたくしの正しさを理解するだろう。そう思っていた。
理由書には、その後の彼の心情が綴られていた。
『その時、私は悟った。あなたは私の気持ちを理解しようとしていない。あなたにとっての私は、導くべき対象ではなく、支配すべき存在だった』
支配? 違う。わたくしは彼を愛していた。だから、正しい道へ導こうとしただけだ。
理由書を読み進めるうちに、わたくしは立ち上がった。母に相談しなければ。母なら、わたくしの気持ちを理解してくださる。
応接室へ向かうと、母が優雅に紅茶を飲んでいた。
「お母様」
母は穏やかに微笑んだ。
「どうしたの、フロンテーヌ」
「ハリー様から、婚約破棄の理由書が届きましたの」
「まあ。それは残念ね」
母は驚いた様子もなく、紅茶を一口飲んだ。
「でも、フロンテーヌ、あなたは何も悪くないわ」
「わたくしもそう思いますの」
「男性は導くべき存在よ。あなたのお父様も、私が導いてきたから今がある」
その通りだ。父は母の指導のおかげで、立派な辺境伯になった。母は完璧な妻だ。
応接室を出ると、廊下で父と弟がすれ違った。父は何か言いたげだったが、口を閉じた。弟が小声で尋ねる。
「父上、大丈夫ですか」
「……ああ。お前も、将来は大変だな」
父の声には、妙な疲れが滲んでいた。仕事が忙しいので仕方がない。
部屋に戻り、理由書の続きを読んだ。四十ページを超え、最後に近づいていた。
『私は何度もあなたに伝えた。しかし、あなたは一度も私の言葉を聞かなかった。あなたは「私のため」という言葉で、全てを正当化した』
そう。全ては彼のため。わたくしは間違っていない。
四十九ページ目。彼の最後の言葉が記されていた。
『最初は、あなたの献身を好意だと思っていた。しかし次第に、自分の人生が奪われていると気づいた。私の意思は無視され、私の感情は踏みにじられ、私の大切なものは破壊された』
大げさだ。わたくしは、ただ彼を導いていただけなのに。
そして、最後のページを開いた。
そこには、たった一文が記されていた。
『あなたの「善意」という名の呪いから逃れるため』
わたくしは、理解できなかった。
呪い? わたくしは、ただ彼のためを思っていただけなのに。わたくしの愛情が、どうして呪いになるというの?
窓の外は、永劫不変の吹雪だ。朝なのに暗くて寒いし、もう見飽きた。
理由書を閉じて、もう一度考える。
けれど、わたくしの考えは変わらなかった。
まるで分からなかった。
何も悪いことはしていない。
ただ、彼のためを思っていただけなのに。
半年後、魔王軍は人間界へ侵攻する。わたくしは辺境伯家筆頭として、その先陣を切らねばならない。
サイクロプスの一族なのだから。
ハリー様、あなたは矮小なゴブリンだと自覚しておいででしょうか。
わたくしの言うとおりにしないと、すぐに死んでしまいますわよ?
(了)
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