「この世界はゲームで、君は悪役令嬢だ」と、婚約破棄されましたが、あなた、操られてますわよ?
白銀の塔と呼ばれる王宮の大広間に、緊張が満ちていた。天井から吊り下げられた水晶のシャンデリアが、冷たい光を床に落とす。
その光の中央に、エリーゼ・ローゼンハイムは立っていた。銀色の髪が肩に流れ、紫水晶色の瞳が真っ直ぐ前を見据える。背筋を伸ばし、顎を引いた姿勢は、たとえ断罪の場であろうとも貴族の矜持を失わない。
周囲を取り囲む貴族たちの視線が、鋭利な刃物のように突き刺さってくる。誰一人として味方はいない。いや、正確には味方であるはずの婚約者が、今この瞬間、エリーゼを断罪する側に立っていた。
「エリーゼ・ローゼンハイム」
アレク・エルデリアの声が広間に響いた。金髪を後ろで束ね、蒼い瞳を伏せた王太子は、玉座の前に立ち、判決を下す裁判官のようにエリーゼを見下ろしていた。
「君は春の園遊会において、クラリス・メルヴィル嬢に毒を盛った。そして王家の宝物庫より、先代女王の遺品である翡翠の髪飾りを盗み出した。これらの罪は明白だ。証言や証拠がすべて揃っている」
エリーゼの胸が激しく高鳴った。違う。何もかもが違う。毒を盛ったことなど一度もないし、宝物庫に忍び込んだこともない。それなのに、証拠として提示された毒薬の小瓶には、確かにローゼンハイム家の紋章が刻まれていた。複数の証人が、エリーゼがクラリスの飲み物に何かを混ぜる姿を見たと証言している。
「殿下」
エリーゼは声を絞り出した。喉がカラカラに渇き、言葉が掠れそうになる。
「わたくしは無実です。クラリス様に危害を加える理由などございません。むしろわたくしは彼女を――」
「友人として大切に思っていた、と言いたいのだろう?」
アレクが言葉を遮った。その目が一瞬、焦点を失ったように見えた。何かに操られているような、違和感のある表情。だがすぐに鋭い視線がエリーゼに突き刺さった。
「……君の行動は、友情とは程遠いものだった。クラリスは優しく控えめな性格だから、君の仕打ちに耐えていた。しかし我々は知っている。君が彼女に冷たく当たり、社交界で孤立させようとしていたことを」
そんなことはない。エリーゼは首を横に振った。クラリスには常に親切にしてきたはずだ。彼女が学院に入学したとき、右も左も分からない様子だったから、エリーゼは率先して案内をした。困っていることがあれば手を貸し、必要な助言を与えた。それなのに、なぜこのような事態に。
「まあ、殿下……」
か細い声が聞こえた。エリーゼの視線がその方向に向かう。栗色の髪を巻き、緑色の瞳を潤ませたクラリス。彼女はハンカチで目元を押さえながら立っていた。可憐で清楚な容姿は、絵画の中から抜け出してきた美しい妖精のよう。貴族たちの視線が、同情に満ちてクラリスに注がれる。
「そのようなことを仰らないでください。エリーゼ様は、きっと何かの間違いで……」
クラリスの声は震えていた。だがエリーゼは気づいた。目の奥の悪意に。唇は悲しみに歪んでいるのに、瞳の奥には冷たい光が揺れている。舞台上の女優のように、表情も、所作も、すべてが演技に見えた。
エリーゼの瞳が一瞬だけ金色に光った。彼女が見ているクラリスの姿が歪んで、その先に何かが見える。じっと見つめると、クラリスの周囲に薄紫色の靄のようなものが漂い始めた。
彼女は防御魔法の使い手。こんな現象は見たことがない。不思議だ。不思議だが、エリーゼはそれを確かめる余裕もない。ふと、視界が元に戻った。彼女は混乱した頭を必死で整理しようとした。
「クラリス、君は優しすぎる」
アレクの柔らかな声。視線は婚約者であるエリーゼではなく、クラリスに向けられていた。温かく、慈しむような眼差し。それはかつて、アレクがエリーゼに向けていたものと同じ。
「しかし真実は明らかになった。エリーゼ、君との婚約は破棄する」
静寂が広間を支配した。誰もが息を呑み、次の言葉を待っている。エリーゼの心臓が激しく脈打ち、耳の奥から血液の流れる音が聞こえた。
「そして……」
アレクは一度、息を深く吸って拳を握りしめる。
「実は、僕には前世の記憶がある」
広間がざわめいた。前世の記憶? 何を言っているのだ、この人は。エリーゼだけでなく、周囲の貴族たちも困惑の表情を浮かべていた。国王でさえ怪訝そうに眉を寄せた。
「三ヶ月前のことだ。突然、別の人生の記憶が蘇った。そこで僕は知った。この世界は、実は『悪役令嬢2』と呼ばれるゲームの中の世界なのだと」
悪役令嬢2。聞き慣れない言葉に、貴族たちの囁きが大きくなる。「ゲームと言えばチェスではないのか?」「トランプもゲームと称するが、あくやく……なんだって?」などと声が大きくなってゆく。
アレクは構わず続けた。
「そのゲームの中で、エリーゼは悪役令嬢として登場する。主人公である平民出身のヒロインをいじめ、最終的には断罪の場で糾弾され、全てを失う運命にある」
エリーゼの頭が真っ白になった。悪役令嬢? 平民出身のヒロイン? 何を言っているのか全く理解できない。そもそも、この世界が「悪役令嬢2」というゲームの中だと、そんな発想自体が荒唐無稽だ。
「だから僕は決めたんだ。エリーゼを救うために、先に婚約を破棄すると。このまま関係を続ければ、破滅する。王宮から遠ざけ、ゲームのシナリオから外すことで、その未来を変える」
アレクの表情は真剣だった。嘘をついているようには見えない。本気で、この突拍子もない話を信じている。そして、エリーゼを救うために行動したのだと、心から信じていた。
「殿下……」
エリーゼは声を震わせた。怒りと悲しみと困惑が入り交じり、何を言えば良いのか分からない。
「わたくしを守るため、と仰るのですか? 冤罪を着せて、名誉を奪い、婚約を破棄することが?」
「理解できないだろう。だが僕は、エリーゼの破滅を見たくなかった。このゲームのシナリオでは、最後に国外追放される。それだけは避けたかったんだ」
アレクの声には確信が満ちていた。だがエリーゼには、その確信こそが恐ろしかった。彼は本気だ。自分が正しいことをしていると、心の底から信じている。
クラリスが小さく息を呑む音が聞こえた。エリーゼが視線を向けると、彼女は驚いた表情を作っていた。両手を口元に当て、目を見開いている。
「まあ、殿下が前世の記憶を……そのようなことが」
だがその目は、やはり笑っていなかった。驚きを演じているだけ。全てを知っていたかのような、冷静さを保った瞳。
エリーゼの胸に一つの疑問が浮かんだ。もしアレクの言葉が本当なら、なぜ彼にだけそのような記憶が?
「決を下す」
国王の声が響いた。白髪を蓄えた老王は、憐れみの眼差しでエリーゼを見ている。
「エリーゼ・ローゼンハイム。そなたは王太子アレクとの婚約を解消される。そして当分の間、ローゼンハイム侯爵邸にて謹慎するように」
国外追放ではない。それはせめてもの温情だろう。だがエリーゼにとって、婚約破棄という事実だけで、世界が崩壊したも同然だった。
騎士たちがエリーゼを連行しようと近づく。彼女はそのとき、広間の隅に立っていた一人の男の視線と目が合った。騎士団長のリオネル・グレイシャー。黒髪に灰色の瞳を持つ彼は、じっとエリーゼを見つめている。その目には、同情でも非難でもない、別の感情が宿っていた。
何かを探るような視線。
エリーゼは踵を返し、自らの足で広間を後にした。騎士たちが後を追う。背後で貴族たちの囁きが聞こえる。悪役令嬢、婚約破棄、前世の記憶。様々な言葉が飛び交い、エリーゼの背中に突き刺さった。
彼女は振り返らなかった。ただ真っ直ぐ前を見て、一歩ずつ歩を進める。今はまだ、何も分からない。
そんな中、彼女は一つだけ確信していた。
何かがおかしい、と。
*
ローゼンハイム侯爵邸の自室に戻ったエリーゼは、ベッドに腰を下ろして深く息をついた。重厚な天蓋付きのベッド、壁一面に並ぶ本棚、窓際に置かれた刺繍台。見慣れた部屋の光景が、今は酷く遠く感じられる。
アレクの言葉が、頭の中で何度も繰り返される。この世界は「悪役令嬢2」というゲームで、エリーゼは悪役令嬢。平民出身のヒロインをいじめ、最後には断罪される。
断罪されるような覚えは一切ない。
エリーゼは記憶を辿った。クラリスと初めて会ったのは、半年前の学院入学式。彼女は子爵令嬢という身分ながら、どこか場違いな雰囲気を漂わせていた。周囲の貴族令嬢たちが社交辞令を交わす中、一人だけ戸惑っている様子だった。
エリーゼは声をかけた。学院の案内をし、必要な情報を提供し、困っている様子があれば手を差し伸べた。クラリスは感謝の言葉を述べ、エリーゼを慕うようになった。少なくとも、表面上は。
いじめた覚えはない。冷たく当たったこともない。むしろ親切にしていたはずだ。それなのに、なぜクラリスはエリーゼが虐げていたと証言したのか。
そして、アレクが言っていた「平民出身のヒロイン」という言葉。クラリスは子爵令嬢であり、平民ではない。これは矛盾している。
エリーゼは立ち上がって窓辺に歩み寄った。外は既に夕暮れで、オレンジ色の光が庭を照らしていた。木々の影が長く伸び、噴水の水面がきらめく。
矛盾。そう、矛盾だらけだ。
アレクの記憶と現実が、まるで食い違っている。
ノックの音が響いた。エリーゼが振り向くと、ドアが静かに開き、使用人が顔を覗かせた。
「お嬢様、騎士団長のリオネル様がお見えです」
リオネル? なぜ彼が。エリーゼは一瞬戸惑ったが、すぐに頷いた。
「お通しして」
数分後、部屋に入ってきたのは、広間で見た黒髪の騎士。灰色の瞳が鋭くエリーゼを見据える。彼は周囲を確認すると、低い声で言った。
「立ち聞きされないよう、使用人は遠ざけた。話がある」
エリーゼは椅子を勧めたが、リオネルは首を横に振った。そのまま窓際に立ち、彼は腕を組む。
「俺はあんたの無実を信じてる」
エリーゼは目を見開いた。味方がいない中で、初めて聞く信頼の言葉。胸の奥が熱くなり、涙が溢れそうになる。
「どうして……」
「あんたを長年見てきた。そんな陰湿なことをする人間じゃないと分かる。それに、証拠があまりにも揃いすぎてる」
リオネルは懐から小さな紙片を取り出した。それには日付と場所が記されていた。
「あの毒薬の小瓶だが、実は三ヶ月前に宝物庫から盗まれたものだ」
三ヶ月前。エリーゼは息を呑んだ。それは、アレクが「前世の記憶が戻った」と言っていた時期と同じ。
「偶然……でしょうか?」
「偶然にしては出来すぎてる。それに、もう一つ気になることがある」
リオネルは窓の外へ顔を向けた。夕日が彼の横顔を照らして影を濃くする。
「三ヶ月前、国境近くの古代遺跡で、異常が発見された。知ってるか? 『忘却の祠』という場所だ。これから調査に向かうことになってる」
「忘却の祠……」
聞き覚えのある名前だった。確か、古代魔法に関する遺跡のはず。母が生きていた頃、魔法の研究をしていたときに、その名を口にしていたような気がする。
「調査を続ける。あんたも、自分で何か分かることがあれば調べてみろ。俺が必ず真相を暴いてやる」
リオネルはそう言い残すと、部屋を出ていった。残されたエリーゼは、窓の外を見つめたまま立ち尽くす。
三ヶ月前。アレクの記憶が戻った時期。遺跡が開かれた時期。毒薬が盗まれた時期。全てが一致している。これは偶然ではない。何かが仕組まれている。
エリーゼは決意した。真相を突き止める。そして、この冤罪を晴らす。
彼女は早足で本棚へ向かい、母の遺品が保管された引き出しを開けた。中には、古い革装丁の日記帳が入っていた。亡き母、イザベラ・ローゼンハイムの研究日記。
ページを繰る。複雑な魔法陣の図や、古代文字の解読メモが並んでいる。彼女はある一節で目が止まった。
『記憶操作魔法は、古代において最も恐れられた禁呪である。使用者の魔力紋に特徴的な歪みを残し、その痕跡は消えることがない。もし誰かがこの魔法を使えば、必ず証拠が残る』
記憶操作魔法。
エリーゼの心臓が高鳴った。もしアレクの記憶が、誰かに植え付けられたものだとしたら? もし彼が見たという「前世」が、実は偽物だとしたら?
それなら全ての辻褄が合う。アレクは操られている。そして真犯人は――
エリーゼは日記を握りしめた。まだ確証はない。だが、道筋は見えてきた。
母の日記を読み進める。記憶操作魔法の詳細、その痕跡の見抜き方、対抗手段。全てが記されている。そして最後のページに、一行だけ走り書きがあった。
『我が娘、エリーゼは真実を見抜く力を持つ。その瞳が金色に輝くとき、全ての虚偽は暴かれる』
金色の瞳。
エリーゼは思い出した。断罪の場でクラリスを見たとき、確かに視界が歪んで目の奥に熱を感じた。あの感覚は……。
もしかして、あれが母の言う「真実を見抜く力」なのだろうか。
エリーゼは日記を胸に抱いた。希望が湧いてくる。まだ終わっていない。
*
それから三週間、エリーゼは密かに調査を続けた。父の協力を得て、王立図書館の古文書を取り寄せる。記憶操作魔法に関する文献を片端から読み漁った。
そして分かったことがある。
記憶操作魔法、正式には『記憶移植』と呼ばれる禁呪で、昔は戦争に使われていた。敵国の指導者に偽の記憶を植え付け、国を内部から崩壊させる。その恐ろしさゆえに、三百年前の大戦後、厳重に封印された。
そして、この魔法を発動させるためには、触媒が必要だという。それが記憶の水晶。持ち主の記憶を他者の脳に移植する力がある、と言われる結晶だ。
文献にはこう記されていた。
『記憶の水晶は、忘却の祠に封印されている。この水晶には特異な性質がある。使用者が魔法を発動する際、その者の全記憶が水晶内部に刻まれるのだ。これは水晶の自己防衛機能であり、悪用を防ぐための古代魔法使いたちの叡智である。真実の鏡と組み合わせれば、水晶に刻まれた記憶を映像として投影することが可能となる』
エリーゼは息を呑んだ。これだ。これがあれば、クラリスの真実を全て暴き出せる。
彼女はすぐにリオネルに連絡を取った。
*
二日後、リオネルから報告があった。彼が忘却の祠を実際に調査したところ、封印が三ヶ月前に解かれた痕跡を発見したという。そして、祠の近くで一枚のハンカチを見つけた。刺繍された紋章は、メルヴィル家のもの。クラリスの持ち物だ。
全てが繋がり始めていた。
エリーゼは自分の能力の訓練も始めた。母の日記に記された方法に従い、瞳の力を意識的に発動させる練習。最初は上手くいかなかったが、徐々に感覚を掴んできた。集中すると、視界が変わる。魔法の痕跡が、色のついた靄のように見えるようになった。
エリーゼは決意した。アレクに直接会い、彼の魔力を解析する。もし記憶操作の痕跡が残っていれば、それを見つけ出す。
*
彼女は現在、謹慎中。当然ながら、王宮への立ち入りは禁じられている。しかしアレクは時折、王立図書館を訪れる。エリーゼはその機会を狙った。
図書館の古文書室。誰もいない静かな空間で、エリーゼはアレクを待った。約束をしたわけではない。それでも、彼の習慣を知っている。毎週この曜日のこの時間、アレクは政治学の文献を読みに来る。
ドアが開くと、金髪の王太子が入ってきた。エリーゼの姿を認めると、彼は驚いて足を止めた。
「エリーゼ……」
「お久しぶりです、殿下」
エリーゼが丁寧に一礼すると、アレクは複雑な表情を浮かべたまま近づいてきた。
「謹慎中のはずだが」
「父上の許可を得ております。調べたいことがありまして」
嘘ではない。父は娘の無実を信じて協力してくれている。アレクは少し迷った顔をして、やがて頷いた。
「そうか。なら、構わない」
彼は近くの椅子に腰を下ろした。エリーゼとの距離は、数歩程度。これなら十分だ。
エリーゼは深呼吸をし、意識を集中させた。瞳に力を込める。視界が変わり、世界が変わってゆく。アレクの周囲に様々な色の靄が見えた。それは彼の魔力の痕跡。
彼女は王太子の頭部に、異質な靄があることに気づいた。薄紫色の、歪んだ形をした靄。アレク自身の魔力ではない。外部から侵入した別の魔力。
エリーゼはさらに集中した。その魔力の波長を感じ取る。独特のリズム、パターン、質感。彼女はどこかで感じたことのある波長だと気づいた。
クラリス――
あの日、断罪の場でうっすらと見えた。クラリスの周囲に漂っていた薄紫色の靄。それと、アレクの頭部に残る魔力の波長が酷似している。
確信した。アレクの記憶は、クラリスによって植え付けられた偽物だ。
エリーゼは能力を解いた。視界が通常に戻る。目の前のアレクは何も気づかず、のほほんと本を読んでいた。
「殿下」
エリーゼは静かに声をかけた。アレクが顔を上げる。
「記憶は本当にあなた自身のものですか?」
アレクは首を傾げ、眉毛がハの字に変わる。何を言われているのか理解できていない。
「どういう意味だ?」
「もし、殿下の記憶が、誰かに植え付けられたものだったら? もし、あなたが信じている『前世』が、実は誰かの作り物だとしたら?」
「そんなはずはない」
アレクは即座に否定した。だが、その目には一瞬の迷いが浮かんだ。
「僕の記憶は本物だ。確かに覚えている。ゲームの画面、攻略ルート、エンディング。全てを」
「では伺います。そのゲームの主人公は、どのような人物でしたか?」
「平民出身の少女だ。心優しく、誰にでも分け隔てなく接する。そして――」
「少女の名前は?」
「……」
アレクが言葉に詰まった。しばらく考え込んでも、答えは出てこない。
「名前は……覚えていない。なぜだろう」
「外見の特徴は?」
「それも……よくわからない。だが、確かに平民の少女で……」
アレクの声が小さくなっていく。気づいたのだろう。自身の記憶が不自然だと。
「クラリス・メルヴィル嬢は、平民ではありません」
エリーゼの言葉で、アレクの顔色が変わった。
「いや、彼女は……」
「彼女は子爵令嬢です。貴族です。もし彼女があなたの言う『ゲームの主人公』なら、なぜ身分が違うのですか?」
沈黙が降りた。アレクは何も言えず、ただエリーゼを見つめている。その目には、動揺と困惑が渦巻いていた。
「殿下、あなたは操られています。誰かに、偽の記憶を植え付けられて」
「そんな……ことが」
「信じられないでしょう。ですが、真実を知りたいなら、わたくしに協力してください。必ず証明してみせますので」
エリーゼは決意に満ちた表情で立ち上がった。アレクはまだ混乱しているようだったが、やがて小さく頷いた。
「分かった。君に協力しよう」
エリーゼが微笑んだ。希望が見えてきた。真相を暴き、クラリスを引きずり出す。
*
二日後、月光舞踏会が開催された。満月の夜に行われる社交の場。エリーゼは父の政治的交渉により、謹慎を一時的に解かれ、出席を許された。
白銀の塔の大広間は、華やかに装飾されていた。貴族たちが色とりどりのドレスを纏い、優雅に踊っている。音楽が流れ、シャンデリアの光が反射して、星空のように煌めいていた。
エリーゼは隅の席に座り、周囲を観察していた。視線の先には、アレクとクラリスが並んで立っている。二人は親しげに会話をし、やがて踊りの輪に加わった。
周囲の貴族たちが囁く。「新しいカップルね」「王太子妃はクラリス様になるのかしら」。その言葉が、エリーゼの胸に突き刺さる。だが彼女は表情を変えず、ただ観察を続けた。
クラリスの首元に、小さなペンダントが揺れている。水晶のような透明な石。それは装飾品としては地味で、クラリスの華やかなドレスには似合わない。だが、なぜかエリーゼの直感がそれに反応した。
ただの装飾品ではない。
エリーゼは能力を発動させた。視界が変わり、魔法の痕跡が見えはじめた。そして、クラリスのペンダントから、強力な魔力が放たれていることが分かった。薄紫色の歪んだ波長。それは、アレクの頭部にも漂っている。
記憶の水晶。
クラリスはおそらく、魔法を維持するためにあれが必要なのだろう。
エリーゼが立ち上がったところで、騎士団長のリオネルと目が合う。
彼はすでに、王家の宝物庫から真実の鏡を借りていた。正式な手続きを経て、国王の許可を得た上での行動。準備は整っている。
リオネルが大広間の中央へと歩み始めた。その腰には、布に包まれた鏡が下げられていた。
そのとき。
*
クラリスの表情が凍りついた。彼女の視線がリオネルの腰に釘付けになって、さっと顔色を失った。踊っていた足が止まり、アレクが不思議そうに見つめる。
「クラリス? どうかしたのか」
「い、いえ……少し、気分が」
クラリスはか細い声で答えた。視線は、エリーゼとリオネルを交互に見ている。
エリーゼはその様子を見ながら「まずい」と呟く。クラリスに気づかれた。罠に。
クラリスの手が、ペンダントを握りしめた。水晶が、僅かに光を放つと同時に、思考が高速で回転した。このままでは終わる。真実の鏡で水晶を調べられたら、全てが露見する。文献で読んだ。あの鏡は記憶の水晶と組み合わせると、使用者の記憶を映し出す、と。
逃げなければ。
だが、騎士たちが配置されている。リオネルの指示で、すでに出口は封鎖されているだろう。
ならば――
混乱を起こして、その隙に。
クラリスは、アレクから離れた。
「お手洗いに……」
そう告げて、彼女は人混みに紛れた。大広間の隅、装飾用のカーテンが垂れ下がる場所へ。そして、誰にも見られていないことを確認すると、詠唱を始めた。
古代語の呪文。炎を生み出す攻撃魔法。彼女の専門ではないが、基本的な魔法は使える。
カーテンに手を翳し、魔力を流し込む。一瞬で布が発火し、炎が広がり始めた。
*
エリーゼは唖然としていた。まさかこんなに大胆な行動に出るとは、と。
広間の一角から火の手が上がった。
叫び声が上がって、貴族たちは慌てて逃げ惑う。炎は瞬く間に広がり、カーテンや装飾を焼いていく。混乱の中、クラリスの声が響いた。
「火事です! 皆様、お逃げください!」
クラリスは、エリーゼを指差した。
「エリーゼ様が火をつけました!」
周囲の視線が一斉にエリーゼに向けられた。非難と恐怖の目。だがエリーゼは動じなかった。冷静に炎を見つめ、その魔力の痕跡を読み取る。
これは、クラリスが起こした火災だ。
そして、彼女の目的も見えた。混乱に乗じて逃げるつもりだ。出口へ向かう人の流れに紛れて――
エリーゼが詠唱を始めた。防御魔法の応用。炎を封じ込め、酸素を遮断する障壁を作り出す。彼女の得意とする魔法だ。透明な壁が炎を取り囲み、やがて火は消えていく。
広間に静寂が戻った。貴族たちはエリーゼを見て困惑していた。火をつけた本人が自ら消した。火災を消して、証拠を保全した。なぜだ、と。
焼け跡には魔力が漂っていて、明らかな痕跡が残っていた。
「リオネル卿」
エリーゼは騎士団長を呼んだ。彼はすぐに駆け寄り、焼け跡を調べ始める。そして、炎が発生した地点に、魔法陣の痕跡を発見した。その魔力紋は、メルヴィル家特有のもの。
リオネルが告げると、クラリスの顔色が変わった。
「これは……わたくしは関係ありません!」
「ならば、証明しましょう」
エリーゼは真実の鏡をリオネルから受け取った。それは古代の魔法具で、あらゆる魔法の痕跡を映し出す力を持つ。
鏡をクラリスに向けると、彼女の周囲に薄紫色の靄が映し出された。そしてペンダントの水晶から、強力な魔力が放たれていると、誰の目にも明らかだった。
「その水晶は何ですか、クラリス様」
エリーゼの声はよく通り、広間中に響いた。クラリスは後ずさりしながらペンダントを握りしめる。
「これは、ただの装飾品……」
「記憶の水晶、ですね? あなたが三ヶ月前、忘却の祠から盗み出した」
広間がざわめいた。記憶の水晶。禁呪の触媒。その名を知る者は多い。
「違います! わたくしは――」
クラリスは水晶を握りしめて、首から引き千切った。床を見つめて、大きく振りかぶる。破壊するつもりだ。
だが、リオネルが素早く動いて、彼女の手首を掴んだ。その手から水晶がこぼれ落ちたところを、リオネルがキャッチした。
騎士団長はすかさず真実の鏡を水晶にかざした。古代の魔法具同士が共鳴する。鏡面が淡く光り始め、水晶からも同じ光が放たれた。
「記憶の水晶には、使用者の全記憶が刻まれる。これは古代魔法使いたちが施した安全装置だ。悪用を防ぐために、証拠を残す仕組みになっている」
リオネルの声が広間に響く。
「真実の鏡と組み合わせることで、その記憶を映像として投影できる。今からこの水晶に刻まれた真実を、皆に見せよう……さて、何が映ってるかな?」
水晶から光が溢れ、見知らぬ映像が広間の壁に投影された。
*
壁に映し出された映像は、奇妙な部屋だった。壁も床も、この世界の建築様式とはまるで異なっていた。その部屋の中で、黒髪の女性が光る平らな板を見つめていた。
板の表面には、読めない文字が表示されていた。黒髪の女性はそれを操作し、板の中では……エリーゼに似た銀髪の女性が、栗色の髪の少女に冷たく当たる場面が映っていた。
黒髪の女性はブツブツと呟いているが、大広間の人びとには理解できない言語だった。
――ゴッ
その女性が突然突っ伏した。
*
投影された画面が切り替わると、黒髪の女性が、クラリスへと変わっていた。
周囲は一面の荒野。足元には、食い散らかされた食べ物と、半分骨になった馬が倒れていた。
地面には魔物の足跡がたくさん残っている。遠くに見えるのは岩山。ふもとに人工物が見えているが、人の気配はない。あれはおそらく古代遺跡「忘却の祠」だろう。
「あれ? この身体……もしかして転生した? げっ、この身体の人、魔物に喰われちゃったみたいね……むなむ」
今度はこの国の言葉だった。そのため、大広間の人びとは内容を理解できた。
「ん~? 怪我は治ってるみたいね……」
クラリスがそう言いながら目を細める。
「おおっ!? あれって……『忘却の祠』じゃん! てことは『悪役令嬢2 ~婚約破棄された悪役令嬢ですが、前世の記憶が戻ったので復讐します~』の世界じゃね!?」
映像からそんな声が聞こえてきた。クラリスとは思えない喋り方に、広間がざわめく。
彼女の独り言が続く。
クラリスの皮をかぶった何かは、自分が「ゲームの世界」に来たのだと確信し、ヒロインとして王太子を攻略しようと決意していた。
だが、その何かは、すぐに気づいた。この世界は、自分がプレイしたゲームとは違う。細部が異なり、登場人物も微妙にずれている、と。
しかし、クラリスは諦めなかった。「大筋は同じはず」と信じ、エリーゼを排除する計画を立て始めた。
*
忘却の祠で記憶の水晶を発見したクラリス。彼女は近くを通りかかった行商人と交渉し、王都ルミエールへ戻ってきた。
クラリスの父、メルヴィル子爵は大層喜んでいた。領地へ戻る娘の旅路に、護衛の冒険者を十名もつけていたのに、全員が行方不明になっていたからだ。
王都に生還したクラリスは、その日から精力的に動き始めた。王太子アレクに謁見し、水晶の力を借りて彼に記憶を植え付けたのだ。
「エリーゼは悪役令嬢です。このまま彼女と結婚すると、あなたは破滅する。婚約を破棄してください。ただし、王太子から一方的に婚約破棄をすると、あなたが悪くなるので、うまいこと言い訳を考えてください」
偽の記憶。アレクはそのせいで、婚約を破棄した。
証拠もクラリスが仕込んだものだった。
毒薬の小瓶。
目撃証言。
宝物の盗難。
全てが、彼女の手によるものだった。
壁の映像が消えた。
広間は死んだように静まり返っていた。誰もがいま見た光景を信じられないという表情だ。
視線がクラリスに集まる。
彼女は床に膝をついて震えていた。顔面蒼白で、涙がこぼれていた。
「どうして……どうしてゲーム通りにならないの……」
静まり返った広間によく響いた。
アレクが彼女の前に進み出た。彼の目には、怒りではなく、深い悲しみが宿っていた。
「クラリス。君は、僕を騙していたのか」
「違います! 殿下を愛しているんです! ゲームの主人公として、あなたと結ばれるはずだったのに……」
「ゲームの世界、だと? 君はこの世界を何だと思っている」
アレクは声を震わせながら、頭を抱えた。
「僕の記憶は、君に植え付けられた偽物だった。僕はエリーゼを傷つけた。本当に大切な人を……」
彼はエリーゼの方へ向き直った。その目には後悔と罪悪感が満ちている。
「エリーゼ、僕は――」
「殿下、あなたは被害者です。責任を感じる必要はありません」
「だが、僕は君を!」
「もう真実が明らかになりました。それで十分です」
エリーゼの声は優しかった。彼女はアレクを責めるつもりはない。全ての元凶は、目の前で崩れ落ちているクラリスだ。
国王が立ち上がった。
「クラリス・メルヴィル。そなたは記憶操作魔法という禁呪を使用した。これは王国法において最も重い罪である。直ちに拘束せよ」
騎士たちがクラリスを取り囲む。彼女は抵抗することもなく、ただ呆然としたまま連行されていった。その背中を見送りながら、エリーゼは深く息をついた。
終わった。長い戦いが、ようやく終わった。
アレクがエリーゼの前に膝をつく。王太子のそのような姿に、周囲がざわめく。臣下の娘に膝をつくなど前代未聞だからだ。
「エリーゼ。僕は取り返しのつかないことをした。君の名誉を傷つけ、婚約を破棄し、心に深い傷を負わせた」
アレクの声は涙で掠れていた。
「どうか許してほしい。僕は君を救おうとして、君を傷つけた。それは、どんな理由があろうと許されないことだ」
エリーゼは彼を見下ろした。かつて愛した人。かつて信じた人。そして、操られていた人。
「殿下。顔を上げてください」
アレクがゆっくりと顔を上げる。エリーゼは微笑んだ。
「あなたは間違っていました。ですが、あなたの心には本当に、わたくしを守りたいという思いがあった。それは理解しています」
「エリーゼ……」
「ですが」
エリーゼの表情が消えた。
「今すぐに許すことはできません。一度失われた信頼は、取り戻すまで時間がかかります」
それは当然のことだ、とアレクは頷く。
「もう一度、最初から関係を築きましょう。今度は互いを信じて」
アレクの目に光が戻った。
「ありがとう。僕は必ず君の信頼を取り戻す。今度こそ、本当の気持ちで」
エリーゼが手を差し伸べ、アレクはその手を取る。二人の手が重なった瞬間、広間に拍手が響いた。貴族たちは二人の和解を祝福していた。
リオネルが近づいてきた。満面の笑みで。
「見事だ。俺は今回の件で、騎士団に魔法犯罪対策部門を作る。二度とこんな事件が起きないように」
「それは良い考えですね」
エリーゼは微笑みを返しながら、瞳を意識する。金色に輝く真実を見抜く力を。
鳴り止まぬ拍手の中、三人とも新しい未来を描いていた。
*
――ドサッ
「おわっ!? 何だこいつ」
「お前っ! 身体検査したのか?」
慌てふためく騎士たち。彼らの足元には、クラリスが倒れていた。両手で強く握りしめた短剣。それが彼女の胸に深々と刺さっていた。
「……」
「……」
騎士の動きが止まり、眼球が震え始めた。瞳孔が開き、口からよだれを垂らす。
「あ、あれ?」
「ぼんやりすんな。この死体、さっさと焼却しろって言われてるだろ」
「そうだったな……すまんすまん」
遺体となったクラリスを、二人の騎士が持ち上げる。さすがは騎士。確かな足取りで、彼らは焼却炉へ向かっていった。
*
「ふう……リスポーン地点、何度やっても変わらないのね。マジだっる」
荒野にて立ち上がるクラリス。彼女の目には、古代遺跡「忘却の祠」が映っていた。
(了)
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