03:赤毛の青年との
最近見つけた飲み屋があるのは王都のとある裏通り。その店先に『逆さ月の花陰』という店名を書いた看板は無く、入り口のドアの足元に小さくその名が刻まれている。私がそこを飲み屋だと認識したのは偶然だ。夕暮れ時に歩いていたら店主が酔っ払いを通りに捨てに出て来たのだ。いつから飲んでいたのか顔を赤くした酔っ払いは店主のされるがままに通りに転がり、二度と来るなというドスの効いた声に尻尾を巻いて逃げ出した。開いたドアから見えたのはこじんまりしたカウンターとその中にびっしりと並べられた酒の数々。
「飲み屋なのか?」
私の突然の質問に店主はゆっくり振り返るとコクリと頷いた。ドスの効いた声に似合う強面の男だった。年はわかりづらい顔をしている。20代といわれても50代といわれても、なんとか納得することが出来そうだった。
「入ってもいいか?」
「金を持っているのなら」
私の質問に表情を一切変えずに頷くと、店主は店の中に戻った。その背中を追って入ると店主は既にカウンターに戻っているので、私はドアを閉めて一番奥の席に座った。店の中には店主と客が一人いるだけで、他に店員は居ない。店主からいらっしゃいませという声もなければ、何を飲むかと尋ねる気も無いらしい。この愛想のなさでよく営業を続けていられると感心しながら店主の背後の棚に目を走らせる。好みの酒を見つけて注文すると、驚くべき手早さで杯が渡されれた。
「何かつまみはあるか?」
「干し肉かナッツ」
「じゃあ、ナッツを」
店主は注文に頷く事もしない。しかし、すばやく用意されるそれで注文が通じている事を知る。酒とつまみが整うと店主との会話は一切無くなった。話し相手など必要としていない私には好都合だったと言える。元より、カウンターの中からあれやこれやと話しかけられ、賑やかに酒を飲むような気分ではないのだ。静かな店で店主と2人きりだけれども不思議と気まずさは無かった。カウンターの中で杯や酒のボトルを拭く彼は不思議に希薄な存在感をしていた。目の前に居るのにも関わらず、酒の味と酔いに集中すると途端に気配を感じなくなる。きっと普通の神経をしていたなら、陰気だとでもケチをつけて2度と来ない種類の場所なのだろう。けれど、今の私には他の場所よりも数倍居心地良く感じられた。夜更けまで様々な種類の酒を試したが、味も値段も納得できるものだった。私はこの店に通うようになった。
仕事が終わってからのんびり通りを歩いて店に赴くと、多くの場合客など居ない。いても1人か2人。気配を隠すようにひっそりと数杯飲んで、気付いたら居なくなっている。誰もが必要最低限の音しかたてず、酒の注文でさえ一言も発せない強者もいた。私もそれに倣って最初の日の会話以外は「いつもの」と「おかわりを」という言葉しか発していない。私は連日夜更けまでゆっくりと酒を飲みながら、カウンターの一番奥の席を占領した。
その日も店には入れ替わり立ち替わり数人の客が訪れて帰って行った。私は人の出入りを眺めながらいつもの席に座っていた。夜も更け、そろそろ店を出ようかと思い始めた頃、カランと扉が開く音がした。入ってきたのは若い男で、それまですれ違った客と違いどこか場違いな華やかさを感じた。年の分かりづらい容貌をしているが、若いだろう彼は貴族か金持ちの子弟だろうと伺えた。貴族の坊っちゃんが身分を偽って庶民の格好をしようとした様な何ともちぐはぐな印象の服をきていたのだ。長い赤毛と男にしておくには勿体ない程、妖艶な作りの顔をしている。背がすらりと高く、さほど肉付きはないように見えた。体型の隠れる服を着ていたので確実では無いが、あまり運動などはしないのだろう。すらりと背の高い彼は店に入って私をみて一瞬だけ驚きに身体を揺らした。しかしすぐ私から視線を外すと入り口近くの席に着く。きっとこの店に人が居る事に驚いたのだろう。今までにも時々そういう客は居たのだ。私はこれで最後にしようと決めておかわりを注文する。そう決めて気持ちの準備をしないといつもなかなか店を出ることが出来ないでいた。私は黄昏色に染まった麦畑のような色の酒を少しでも帰宅時間を遅らせようとするかのようにゆっくりと傾けた。
時間をかけて酒を飲み干し席を立つ。店主は相変わらず「ありがとうございました」とも「またのお越しを」とも言わない。私も何も言わずに外に出る。先ほど入ってきたっ青年は既に姿を消していた。思いのほか最後の一杯に時間をかけたらしい。
『逆さ月の花陰』には常連客があまり居ないらしく、同じ顔と居合わせるのはごく稀だ。私は最近ほぼ毎日通っているが連日顔をあわせたり顔なじみに成るような客は居なかった。他の客と同じようにこの青年も何のかかわりも無く通り過ぎていくのだと思っていた。しかし、次の日、その青年は同じような時間に店にやってきた。互いに互いの存在に少し驚き、目が合った。自分の他に客が居る事にすら驚くような店なのだ。そこで連日同じ顔を見るとは思っていない。その3日後に会った時にはお互い黙礼した。その次は「良く会いますね」と挨拶をした。その次は「また会いましたね」と挨拶をした。そうやってすれ違うことが続いて、いつしか時々言葉を交わしながら飲む間柄になった。短い挨拶を重ねるごとにドアに近かった彼の座る位置はだんだん店の奥に移動していき、今は私と一つ席を空けて座るのが彼の定位置になっている。
彼の甘く男にしては少し高いような声は耳に心地よかった。互いに当たり障りの無い事を時々口にした。多くの場合沈黙して酒を飲んでいるのだが、沈黙に息苦しさを感じる事はない。むしろこの店自体が沈黙を愛しているので、私たちはそれを壊さぬようにごく小さい声で短く会話した。それならば会話などしなくても良いのではないかというとそういう物でもないのだ。彼が与えてくれるなんともいえない一体感を私は酒と共に味わっていたのだ。私達はお互いの素性に関して、一切触れなかった。名さえ名乗らずに、必要があれば彼は私を「貴方」と呼び、私は彼を「君」と呼んだ。
「君は若いのに、よくそんな酒を知ってるね」
ある日、私はそう言いながら彼の飲んでいるウィスキーを指差した。彼はいつも渋い銘柄の酒を注文した。昔流行り過ぎて、今では誰からも注目されないのではないかというような、美味いが古臭く癖のある酒を。
「教えてくれた人が古い人でしたから」
彼は苦笑しながらそう言ったが、私は彼の瞳に寂寥を見つけた。弱っている時は同種の傷に敏感になるらしい。普段なら気付かなかったかもしれない微かな気配を私は感じたのだ。
「すまない」
私がそう言うと青年は驚いたように一瞬目を見開き、それから微笑みを深めて首を振った。それから、ポツリポツリと彼が語りはじめたから、私は黙って聞くことにした。今までタブーとしてきた個人的な内容になるだろう予感に私の理性はある種の警鐘を鳴らしていたが、それよりも彼の話すことに対する興味が勝ってしまった。聞いてしまった後でこの心地よい関係が変わってしまうだろうという危機感は悪い事にはならないだろうという期待に塗り替えられてしまう。
「私にお酒を教えてくれたのはある貴族の男性でね。頑固で頭の固い所があるけど、日々の楽しみ方も知っている面白い爺さんでした。私は妻に先立たれた彼の最期を看取る為に、共に生活をしていたんだけれど…彼は何も出来ない私に色んな事を教えてくれました。お酒の楽しみ方もその一つで。昼間から飲むなら庭で果実酒。雨の日は良く冷やした白ワイン。長湯をする時はライムを絞ったジン。イライラする時は常温のテキーラ。読書のお供はブラウンラム。ベッドの上ならブランデー。幸せに浸る時間は赤ワイン…って。彼は色んな酒とその酒にぴったりの飲み方を知っていました。その彼が言ってたんです。寂しい時はウィスキーだって。ウィスキーを飲むと亡くした人が現れるんだって。しかも共に飲んだ銘柄なら効果はバッチリだって。だから、私はこんなものばかり飲んでいるんです。飲んでいるうちに、他の酒では物足りなく感じるようになってしまいました」
彼は言葉を切るとニッコリと微笑んだ。私は何も言えなかった。彼が酒を教えた男へ主に対する以上の愛情を抱いていることを感じ取って、少し狼狽えていた。男同士の恋愛というものが存在する事は知ってはいても今まで身近には無かったのだ。彼の妖艶さや時々見える女っぽい仕草が妙に納得できた。この青年のなんとも不思議な雰囲気が、男に可愛がられることに慣れている為に生まれたものだ…という考えに至って、そこに嫌悪感が無い自分に少々面食らっても居た。自分はもっとその手の話を禁忌として扱う種類の考え方をしているつもりだったのだ。きっと、この話をしたのが彼で無ければ私は自分の予想通りの反応をしただろう。彼に対しては思っていた以上に親近感を感じているらしい。愛するものを亡くした悲しみという共通項が強力に作用しているのだろうか。年齢とか性別とか関係なく残されるのは辛いものだ。男同士の恋愛だからと言ってその気持ちを否定する事は出来ない。私は彼と同じ酒を注文し、彼にもおかわりを奢った。寂れた酒場の木のコップを合わせてカツンと鳴らすと青年は一瞬驚き、次の瞬間には花が咲いたようにニッコリと微笑んだ。
「良き日々の思い出に。」
「…乾杯。」
クロエッツアに対して思い出という言葉を使ったのはこれが初めてだった。