04:抜け落ちた
郊外の屋敷の裏庭の奥に小さな森がある。
森としては小さいが、庭の一部と考えると広いといった規模だ。
そこは整えられた庭とは違って華やかな花など無い。
けれどクロエッツアはその森を好んでいる。
木や草が濃淡で複雑な模様を描くこの場所は、世界に在る全ての緑色が集まっているかのようだ。
それを引き立てる様に、木漏れ日の中に野花が木陰に苔やきのこが、こじんまりと色彩を灯している。
どの植物も決して必要以上に大きくはならない。
小さな森を皆で分け合っている様だとクロエッツアは言う。
各々与えられた場所に満足しているのねと微笑む彼女に私はいつもろくな返事が出来ない。
クロエッツアと共に散歩をして長い間森をうろついても、植物の満足度など少しも分からないからだ。
今日は彼女は少しいたずらをしたい気分らしく、森の真ん中で姿をくらました。
時々一方的にかくれんぼをはじめるのは彼女の悪い癖だ。
けれど愛しい彼女の小さないたずらに幾つになっても付き合うのが私の役目だと心得ている。
「クロエッツア、どこにいるんだ?出ておいで~」
時々声をかけると彼女の笑い声がした。
風に運ばれて木々に反響する為、彼女がどこにいるのか全く分からない。
あてずっぽうに歩き続けるが、前方から聞こえた声は次の瞬間には後方から聞こえるのだ。
それにしても、いつもならそろそろ出てきてくれるのに今日は意外と粘っている。
木々の緑にかげりは無く、まだ日は高いようだが、いつまでもうろうろしていると日が暮れる。
気をつけていないと森の日暮れは急なのだ。
私は森の奥に進み、クロエッツアのお気に入りの場所へ向かう。
木々の切れ間に小さな泉が有る。
ぽっかりと空いた泉の周辺はいつも色とりどりの小花で埋め尽くされている。
そこを彼女は楽園と呼んでいる。
確かに小さな動物が水のみ場にしているそこは、皆が争う事もせずにゆったりと寛ぐ楽園の様に見える。
泉に着くと、クロエッツアは水面に立っていた。
「クロエッツア。探したよ」
声をかけると彼女はゆっくり振り返った。
彼女の蜂蜜色の髪は光を吸い込んでキラキラと輝いている。
光の粒が彼女を縁取っているかのように見える。
波紋一つ無い水面を風が撫でて揺らしていった。
「そんなところにいると体が冷えるよ。こちらにおいで」
泉の淵に立って手を伸ばすと、彼女は困ったような顔をして首を横に振った。
残念ながら泉の真ん中に立つ彼女に手は届かない。
「ほら、屋敷にお茶を用意してあるから、今日はべリーのタルトが有るよ。クルミのスコーンも。」
彼女の好物で釣ろうとするが、今日に限って彼女は頑なに首を横に振る。
「どうかしたのか?何か気に障ることをしたなら教えてくれ」
いつにない彼女の態度に伸ばした手を下ろして尋ねるが、彼女は話そうとしないで、首を振るばかりだ。
私は眉間に皺を寄せる。
「クロエッツア」
声色を変えて少し彼女を威圧するが、彼女はやはり何も言ってくれない。
うつむいて、やはり首を横に振っている。
それを見ていると、なんだか心細いような悲しいような寂しいようななんとも言えない気分になってくる。
「もういい、好きにしろ。私は先に帰るからな」
押してだめなら引いてみようと、呆れた振りをしてそう言い放つ。
はっと顔を上げた彼女は私の予想に反して満面の笑みで頷いた。
「は?」
訳が分からずあっけにとられた私にかまわず、彼女は小さく小首を傾げならが手を振った。
どこに行くつもりだと慌てると、クロエッツアは風に乗るかの様に水面を滑って私の方へくる。
反射的に抱きとめようと差し出した手をすり抜けて、彼女は私の身体に吸い込まれてしまった。
いつも彼女が私の頬を撫でるのと全く同じように、風が頬を撫でた。
はっと目が覚めると見慣れない部屋に居た。雨戸がしまっているが外は明るいらしく、隙間から光の筋が入り込んできいて部屋の様子は問題なく見れた。私は素っ裸で、隣に同じ格好の赤毛の女性がいた。その顔には見覚えがある。髪をおろしているので見辛いが、最近良く顔を合わせていたあの青年に間違いない。彼は彼女だったのか、いやそれよりもこの状況は何なのだ…。布団の中身を確認する勇気が出ない。確認しなくとも事後だと身体は教えてくれている。しかし、頭が痛い。気持ち悪い。あぁ、どうしてこうなったんだ…。私はまとまらない思考をぐるぐる回す。それと共に天井もぐるぐる回るような気がした。
しばらく二日酔いと、この状況に目を回していると、隣の赤毛がシーツの上をゆったりと滑った。それを見て既視感を覚える。つい最近、はっきり言うと昨夜、この燃えるような赤毛がためらいがちに揺れるのにひどく煽られた自分を思い出す。自分のしでかした事に頭痛がひどくなるような気がした。まだ、クロエッツアの喪も明けていないのだ。クロエッツアの夢を見ていたような気がするが良く思い出せなかった。思わず大きくため息をつくと、隣の女性がはっきりと身じろぎした。そしてゆっくりとまぶたが持ち上がりぼんやりと目が合う。一瞬見つめあった後、彼女はガバッと飛び起きた。その反動でベッドが揺れて気持ち悪い。彼女も二日酔いらしく顔をゆがめて頭を押さえている。そしてしばらく頭痛に耐えた後、自分が素っ裸なのに気づき慌ててシーツを手繰り寄せている。それがあまりにも勢い良かった所為で私の体にかかっていたシーツまで引っ張られてしまった。私の姿を見て彼女はまた慌てて顔をシーツに埋めた。そして急に動きすぎたらしく再び頭痛に呻いた。私は彼女の行動を目の端で追いかけながら、自分の頭痛と戦っていた。
「あ、あのっ!」
一応身体を隠して体勢を整えた彼女は私に声をかけるが、その声は酒に焼けて枯れている。そして、そんな小さな声でさえ今の私たちにはきつかった。
「とりあえず、水でも飲むか」
私は出来る限り小さな声で静かにそう言って部屋を見回し、ベッドサイドの水差しを見つけた。極力ベッドを動かさないように静かに端により、コップに水を汲んで一つを彼女に渡す。彼女は驚きに目を見開きながらも水を受け取り、2人で静かにそれを飲んだ。ゆっくりと2杯ずつ水を飲むとコップを元に戻し、私はベッドの中程に戻る。彼女は特に動きもせずに私を見ていた。喉の渇きは潤ったが、頭痛と気持ち悪さは無くならない。私はベッドに寝転ぶと彼女にももう一度寝るように促す。
「すまない、もう少し休もう。話はそれからだ」
そういう私に頷いて彼女は素直に寝転んだ。先ほど寝ていたところよりもずいぶん端に寄っているが、気にしている余裕は無かった。落ちなければいいだろう。私は目をつぶり回る世界を手放した。
しばらくして起きると、頭痛は幾分良くなっていた。宿の従業員に水と果実水と軽い食事を2人分頼んで延長料金を払う。口封じの意味も込めて迷惑料を多めに支払ったので、詮索も嫌な顔もされなかった。こういう時、自分の身分は便利だとも面倒だとも思う。貴族であれば大概の事で文句は言われないし、貴族でなければ一夜の情事を隠す必要も無いだろう。食事の手配をした後、部屋についている小さな水場で身体を清め部屋に戻ると彼女も起きていた。入れ違いに水場に行く足取りからは彼女も幾分マシになったのだろうと伺えた。水浴びを終えて出てきた彼女と共に、食事をする。あまり食欲は沸かないが、無理にでも食べておかないと今度は空腹で気持ち悪くなってしまうと経験から知っている。
「できるだけ食べるといい」
「……ありがとうございます」
「私はルーカス。差し支えなければ名を……」
「マゼンダです」
マゼンダはゆっくりと頭を下げた。その仕草で彼女も貴族なのだろうと予想する。少なくとも一通りの淑女教育は受けているはずだ。しかし、社交界などですれ違った事は無いと思う。今はすっぴんの彼女だが、目鼻立ちのはっきりした美人で切れ長の目の下に泣き黒子がある。人妻でもこれだけ美人であれば人目を引くに違いない。
「君は女だったのだな……」
「はい。気付いておられると思ってました」
「気付いていたら、いくらなんでも同じ部屋には泊まらないさ。昨晩の記憶が所々無いのだが……」
「大丈夫です。私も記憶がありません」
「……そうか」
食事を終えた頃には、昨夜の出来事をおぼろげながら思い返すことが出来ていた。昨夜、私達は互いの思い出話に花を咲かせて、いつに無く深酒をした。『逆さ月の花陰』のぶっきらぼうな店主が閉店だと言っても居座り続け、しまいには小さな酒樽を手土産に追い出されてしまった。仕方ないから近くの安宿で部屋をとり、飲みなおすことにした。その後の事は断片的にしか思い出せない。機嫌よく飲んでいただけだったはずなのに、なぜか裸の付き合いまで事が及んでしまっていた。その過程は彼女も良く思い出せないらしい。それでも「無理やりでは無かった」と彼女が言ってくれた為、最悪は免れた。記憶が飛ぶまで飲んだのは初めてだ。青年だと思っていた彼女が女だった事に、安心していいのか驚いていいのか、未だにわからない。
昨日の出来事について確認が終わると、互いにポツポツと素性を明かした。家名を出すのには慎重であるべきだが、彼女の様子から特に問題ないと判断した。私の家名を聞いても彼女はあまり反応を示さなかった。私は彼女を知らないが、彼女は私を知っているのかもしれない。クロエッツアと結婚した時に社交界でかなり名が売れてしまったし、私の名前から家名を連想するのはそう難しくない。彼女が若い未亡人だということを私はこの時はじめて知った。彼女の告げた家名は私の記憶の端にとなんとか確認できた。今までこれと言って付き合いの無かった家だった。彼女の夫だった…先代の子爵はかなり年上のはずだ。昨日聞いた話とも一致するように思った。
「もう、あの酒場には行かないわ」
最低限の情報交換が終わった後に、マゼンダはそう言った。けれど、それでは私が未亡人を騙して一夜の関係を迫った悪い男のようではないだろうか。そんなつもりはまるで無かったのに。
「いや…。できることなら、昨夜の事は忘れて…あの店で、友人として時には飲もう。深酒しなければいいじゃないか」
私は彼女を取り成すように笑った。しかし彼女は首を横に振った。それを見ていると、なんだか心細いような悲しいような寂しいようななんとも言えない気分になる。
「きっと、もう会わない方がいいと思うの」
そう言って弱々しく微笑みを作った。まだ、私には彼女がと話してみたい事がたくさんあったが、こうなってしまった後では無理な相談なのかもしれない。それはなんとなく理解できた。そして、クロエッツアを裏切っている様な感覚がどこかにあって、彼女の言葉を否定する事はできなかった。
「さようなら」
そういって先に宿を出た彼女は昨日と同じ男装をしていたのだけれど、その後ろ姿は女性にしか見えなかった。




