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magenta side②:思い出と酒

「君は若いのに、よくそんな酒を知ってるね」

 ある日、私の飲んでいるウィスキーを指差しながらルーカス様はそういいました。私は苦笑を浮かべるしかありません。これを飲むために街中を駆けずり回った事があると言えば、万人が呆れるに違いありません。

「教えてくれた人が古い人でしたから」

 私がそう返事をすると、彼はキュッと眉間に皺を寄せて私から目を逸らしました。その様子に何か癇に障るようなことを言ったかと内心慌てていると、

「すまない」

 ルーカス様は痛みに耐えるように私に向かって頭を下げたのです。私は2つの意味で驚きました。一つは名門伯爵家の当主である彼が私のような得体の知れない人物に頭を下げた事に、もう一つは彼が私の短い言葉から的確に喪失の傷を感じ取った事にです。私はルーカス様の奥様が亡くなっている事を知っています。クランドール伯爵家というのはそういう家なのです。貴族社会だけでなく庶民にも、その家の状況が噂となって知れ渡ります。それくらい有名で注目を集める家なのです。長らく貴族的な社交などしていない、それどころか人との交流を避けている私の耳にさえ、クランドール伯爵夫人の訃報は届いていました。けれど、ルーカス様は私の夫が亡くなっている事を知らないのです。ターコイズ子爵の訃報を知っていてもそれが私と結びつくような情報は、少なくとも私は口にしていません。それなのに私の心の中にある悲しみに、寂しさに、彼は気づいてくれたのです。私は思わず微笑みました。

 許されたような気がして、ポツリポツリと今までしなかったような個人的な話をしてみても、ルーカス様は止める様子がありません。私を男と思っている彼に合わせて「夫」とは名言しませんでした。そのせいで少々辻褄の合わない部分も有ったでしょうが、彼は辛抱強く聞いてくれました。

「私にお酒を教えてくれたのはある貴族の男性でね。頑固で頭の固い所があるけど、日々の楽しみ方も知っている面白い爺さんでした。私は妻に先立たれた彼の最期を看取る為に、共に生活をしていたんだけれど…彼は何も出来ない私に色んな事を教えてくれました。お酒の楽しみ方もその一つで。昼間から飲むなら庭で果実酒。雨の日は良く冷やした白ワイン。長湯をする時はライムを絞ったジン。イライラする時は常温のテキーラ。読書のお供はブラウンラム。ベッドの上ならブランデー。幸せに浸る時間は赤ワイン…って。彼は色んな酒とその酒にぴったりの飲み方を知っていました。その彼が言ってたんです。寂しい時はウィスキーだって。ウィスキーを飲むと亡くした人が現れるんだって。しかも共に飲んだ銘柄なら効果はバッチリだって。だから、私はこんなものばかり飲んでいるんです。飲んでいるうちに、他の酒では物足りなく感じるようになってしまいました」

 私は言葉を切って、ニコリと微笑みかけました。ルーカス様は何も言わず、静かに頷いて見せてくれました。その横顔がほんのりと赤いのはお酒の所為でしょうか。私はいつも冷たい私の手のひらをそこに当てて熱をとってあげたいと思いました。私に頬を撫でられながら、気持ちよさ気にまぶたを伏せるルーカス様を思い浮かべます。そんな情景を思い浮かべてしまう私を夫は許してくれるでしょうか?もう、喪が明けてからずいぶん経ちます。娘ももうすぐ成人を迎えます。心の中でくらい夢をみても許してもらえるような気がします。

 カツンと軽い音がして我に返ると、私の持つ杯にルーカス様がご自分の杯をぶつけている所でした。そのお行儀の悪い、しかし心を許しあった証のような行為に私は今日何度目か目を見開きます。そして彼の気遣いに自然と口元がほころんでしまします。

「良き日々の思い出に。」

「…乾杯。」

私はこの時ようやく、セルリアン様を思い出という場所に移すことを自分に許したのでした。


 翌朝、目が覚めて私が始めて見たのは顔色の悪いルーカス様の顔でした。一瞬呆けた後に、飛び起きて見たのは見知らぬ部屋に散らばる服と全裸でルーカス様と同じベッドに座る自分でした。痛む頭とムカムカと気持ちの悪い胸を宥めながら、昨晩の事を思い浮かべて愕然とします。私は彼と2人で安宿に入り込んで、あろう事か一夜を共にしてしまったのでした。早く帰らないと娘達が心配して居る事でしょう。しかし、どうしても体を動かせそうにはありません。戸惑い慌てながらも、動くにも、話すにも時間が必要だと口を開きかけた私に、ルーカス様は水を飲ませてもう一眠りするように言いました。私に異存はなかったので、言われた通りにします。なんせ、何を考えようとしても頭痛がするのです。恥も外聞も、娘達の心配も強烈な頭痛を前に何の効果も発揮できなかったのです。私は彼の言葉に甘えて、休養という名の惰眠を貪る事にしました。

 次に起きた時、ルーカス様の顔色は幾分正常に戻っていました。湯浴みをしたらしく、さっぱりとした彼と顔を合わせると昨晩の痕跡を残したままの自分が、なんだかとんでもなく、だらしない女のように感じられ、慌てて湯浴みに向かいました。水場から部屋に戻ると、飲み物と軽食が用意されています。いつの間に手配したのか……と思いますが、もしかしたらルーカス様はこのような事に慣れていらっしゃるのかもしれません。彼が求めれば、一夜の情事だと分かっていても応じる女は掃いて捨てるほど居るでしょう。私だけが特別だなどと勘違いできる年齢はとうに超えています。ぼんやりとテーブルを眺める私にルーカス様は飲み物を注ぎながら食事を勧めてくださいました。さきほど頂いた水といい、伯爵様に給仕めいたことをしていただくなど恐縮しすぎて胃が痛くなりそうです。食欲はありませんが、せっかくの好意を無碍には出来ません。いくつか果物をつまむと、その酸味に食欲が沸いたのか、野菜を挟んだパンにまで口をつけてしまいました。

「君は女だったのだな……」

「はい。気付いておられると思ってました」

「気付いていたら、いくらなんでも同じ部屋には泊まらないさ。昨晩の記憶が所々無いのだが……」

「大丈夫です。私も記憶がありません」

「……そうか」

ルーカス様は困ったように頭をかきました。記憶が無いというのは嘘です。途切れ途切れではありますが私には昨晩の記憶があります。酔いに任せて大胆な事をしでかしたものだと思います。あまりの事に、思い出して赤面したらいいのか血の気を失ったらいいのかわかりません。ルーカス様に説明を求められては困ってしまいますので、覚えていないという彼に便乗する事にしました。ただ「互いに同意の上、致してしまった……」ということだけ事実として確認しておけば特に問題は無いでしょう。きっと私は一夜限りの女でしかないのでしょうから。

 そんな私の心中を知ってか知らずか、昨晩の事実確認が終わると、ルーカス様は家名を明かされました。

「家名はクランドールだ。王都の外れに屋敷をかまえている。」

 なんということでしょう。家名を行きずりの女に教えるなど……それが、彼の女性に対する誠意の見せ方なのでしょうか?それでもこんな事をしていてはいずれ悪女に引っかかってしまいます。初めは一夜の恋と割り切っていたとしても、家名を聞いて欲が出てしまう者もいるでしょう。

「クランドール伯爵様ですか。……私も貴族の端くれで、今はターコイズを名乗っております。夫とはすでに死別しています。」

「ターコイズ……前子爵の後添いの?」

「……はい。」

私も彼に合わせて家名を名乗りました。きちんと自己紹介を返すのは、害意がないと示すためです。ルーカス様はターコイズ家について心当たりがあったようで頷いておられます。その顔が幾分ほっとしたものを浮かべているような気がするのは、被害妄想が過ぎますでしょうか?ひとしきり普通の貴族同士で出会った場合にするような他愛ない会話をして、それが終わると私は決意を固めました。

「もう、あの酒場には行かないわ」

そうわざわざ言葉に出すのは、そうしないとまたあの店を訪れてしまいそうだからです。

「いや…。できることなら、昨夜の事は忘れて…あの店で、友人として時には飲もう。深酒しなければいいじゃないか」

 彼は取り成すように微笑んでそう言ってくれましたが、私は小さく首を横に振って答えました。

「きっと、もう会わない方がいいと思うの」

 そうなのです。もう会わない方がいいのです。私はこれ以上夫を裏切りたくありません。昨晩の事は酒に酔った勢いにあがらえず事故を起こしたようなものと言い訳する事もできます。けれど、同じ事を2回繰り返してしまってはその言い訳も通用しなくなるのです。昨晩の事を無かった事にして、今までの様にルーカス様と時折酒場で飲む事も考えました。おこがましいかもしれませんが、いい友人になれる可能性もありました。けれど、それも昨晩の事が無ければです。一夜を共にした事実が私達を男と女にしてしまうのです。もう後戻りはできません。

「そうか。わかった。私は時々あの酒場に通うだろうから、何か困った事があれば頼ってくれ。」

彼の優しさに私は胸が詰まりました。涙が滲みそうになるのを必死で抑えます。返事をしようと思いましたが、頷くのが精一杯でした。

 家に帰ると、娘達に泣かれ詰られ散々でした。けれども、これが私の日常だとほっとする思いもありました。今朝見た床に無造作に散らばる私服や夫以外の男性の肌などを日常とするには私には少し気が思いのです。 私はその日からパタリと夜遊びを止めました。夫の思い出に浸るためのお酒も今はなぜかルーカス様を思い出させるのです。ですから、お酒を飲むことを止めたのでした。

 私が酒場通いを止めて数週間、毎月一度の現子爵様の来訪日になりました。子爵様は月に一度この住まいを訪れては盛大に嫌味を言いながら一月分の生活費を渡してくださいます。使用人にでも命ずれば何もこのような場所に自らいらっしゃらなくてもいいでしょうに、彼は「義母のご機嫌伺い」と称して私達親子に日ごろの鬱憤をぶつけにやってくるのです。この日は私にとって憂鬱な一日なのです。女性の憂鬱といえば、月のものと相場は決まっていますが、1週間続くそれよりも子爵様の訪問日の方が何倍も私の体力と気力を奪うのです。しかし、嫌だ嫌だといっても施しを受けている身ですから、この日を拒絶すれば1か月分の生活費がもらえなくなってしまいます。親子総出でできるだけ何事も無く、できるだけ早く帰って下さるように祈りを込めながら準備をします。昼食後の訪問に向けて、午前中は朝早く起きて家の掃除をします。いつもは遅くまで寝ているルビーでさえもこの日ばかりは日の出と共に飛び起きて自分の仕事をします。小さな家ですが、それぞれの寝室と居間、食堂、水場、物置と3人で掃除しようとするとなかなか手間どります。寝室や物置など適当で良さそうなものですが、子爵様は時々気が向くと「生活水準の確認」と称してそれらの部屋を覗かれるのです。一度急にルビーの部屋を覗かれて、その様子がおきに召さなかったらしく、ルビーは延々と嫌味を言われておりました。なんでも、服がクローゼットに仕舞われてなかったとか……細かい男は嫌われますよと言いたいのを我慢するのが、どれほど大変だった事か。それ以来、ルビーは部屋の掃除を欠かしませんから、子ども心によほど堪えたのでしょう。さて、話がそれましたが、家を磨き上げると簡単に朝食兼昼食を食べて、その後皆体を清めてから比較的きれいな服を着ます。掃除で被った埃を払う意味もありますが、普段着でお会いすると露骨に嫌な顔をされるからです。なんでも子爵家の面子をうんぬんかんぬん……そう思うならもう少し先立つものを下さったら良いのです。女3人なので皆おしゃれには興味があります。ただ、お金が無いので買える物を買い、着れる物を着ているだけなのですから。また、話がそれましたが、心が勝手に現実逃避を試みるほど、この日が負担だという事です。

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