magenta side①:思い出の酒
マゼンダ視点です。
閑話として投稿していたものですが、話が長くなりそうなので別視点としてまとめます。新しい話と楽しみにしてくださった方がいたら、ごめんなさい。
ルーカス様はきっと知らない……でも私にとって彼は初恋でした。
新興男爵家の二女として生まれた私は子どもの頃から兄弟姉妹に比べて劣っている所が多かったように記憶しています。勉強もダンスも楽器も刺繍も乗馬も何一つ一番にはなれませんでした。何かしら秀でた所のある兄弟の影で、実らぬ努力を嘆いておりました。そんな私には両親からの期待も小さかったようです。器量良しの妹にくらべて縁談の数も少ないようでしたし、仕方ない事なのでしょう。
私が15歳になって社交界デビューした時、ルーカス様は独身の男性貴族の中でも注目株の一人でした。伝統ある伯爵家の嫡男で、姿形は中の上、誠実で温厚な人柄と言われていて、仕事も卒無くこなし将来出世間違いなしとあっては注目するなと言うほうが無理でしょう。時折社交界に出てきては、未婚の女性から熱い視線を注がれていました。彼の他にも同じく優良物件と言われる男性はいましたが、私の目には彼しか映りませんでした。淡い淡い恋心を持って、けれども誰にも気付かれない様に見つめていました。自分の分は弁えていましたから、声をかけたりなんてしません。遠くから見つめるだけで十分満足しておりました。
社交界デビューの翌年、私は父の命令でターコイズ子爵に嫁ぐ事が決まりました。出来の悪い娘でしたのでせめて両親の言いつけは守るのが努めです。元より貴族の娘は父が嫁げと言った場所に嫁ぐ以外にありません。ターコイズ子爵は父より年上で、どちらかというと祖父と年齢が近い程年上の方でした。最近、体を患って、介護をしてくれる後添いを探していたと言う事です。
縁談が決まってからはトントン拍子に事が進みました。私は一度もターコイズ子爵に会うことなく、ほとんど身一つで嫁ぎました。老齢の子爵が結婚披露を必要とする訳も無く、もちろん花嫁衣裳も有りませんでしたので、家の馬車に送られてひっそりと静かな嫁入りでした。老い先短い子爵に嫁ぐ代わりに持参金は免除されました。その頃、我が家は妹の社交界デビューを控えていて、私にまで手も目も金も回らなかったようですし、これが私の出来た唯一親孝行として満足しています。
私はほとんど使用人になるようなつもりで嫁ぎましたし、そんな私に子爵家の人達は大半冷たく接しました。それは予想の範疇の事でありましたので、特にショックを受けるような事はありません。子爵の息子夫婦は私を介護要因としてしか見ておらず、食事を共にするのも嫌がっておいででした。けれど、例外も居ました。ターコイズ子爵その人です。彼は私に対しても礼をもって接してくれました。夫のセルリアン様と執事のコバルト、侍女のマリンとスカイ、庭師のサファイアの5人は私を子爵夫人として扱ってくれました。息子夫婦は別邸にお住まいでしたし、この5人が味方であれば私は十分快適な生活を送れました。 セルリアン様は私を妻として扱いながらも、娘のように可愛がってくれました。足が悪く杖をつかないと歩けませんが、それ以外はしっかりした立派な方でした。介護要員として……嫁いだつもりの私は、彼の健康で闊達な様子に拍子抜けしたものです。それと同時に勝手によぼよぼなくせに頑固で偏屈なお年寄りを想像していた事に気づき、自分を恥じました。
私達が夜を共にしたのは数える程しかありませんでした。使用人達に「子爵夫人」として認めさせる為に必要な事だとコバルトが言い出した事がきっかけです。セルリアン様ははじめ渋っておられたそうですが、結婚して3ヶ月程経った夜、私の手を握って「君はそれでいいのか?」と尋ねられました。元より私に異論はありません。セルリアン様に恋をしていたかと聞かれれば首を横に振らざるを得ませんが、夫を尊敬していましたし、愛情のようなものを交換しあっていました。セルリアン様が与えてくれる物を受け入れる事は十分にできました。時々お酒を飲みすぎると、夫は「愛人を囲っても良いんだよ」と言いましたが、私はその必要性を感じませんでした。彼は既に熱を発することをあまり必要としていかったし、そのことに負い目を感じていたようですが、私は彼が与えてくれるものに十分満足していました。子爵家での穏やかな生活が私の求める全てでしたので。誰かと比べられる事のない、誰かと競い合う事のない日々は安らぎでした。驚くべきことに子どもを授かる事さえ出来ました。いつもは静かなセルリアン様がはしゃいで居たのが記憶に残っています。
今更弟妹が出来ると思って居なかったのでしょう子爵の長男は私の膨れたお腹を忌々し気に見つめていました。生まれたのが女の子で良かったと思います。男の子なら、要らぬ諍いが生まれていたかもしれません。貴族の娘としては男子を求めるべきなのかもしれませんが、私には全く必要ありませんでした。
生まれた女の子2人を彼はとても可愛がってくれました。娘達が成長すると共に、私達はセルリアン様を取り合うようになりました。彼の注意を引きたくて、彼の微笑を向けられたくて。初めて楽しい競い合いが有る事を知りました。一日に何度彼を笑わせられるかを競うだなんて……っ!しかも、唯一「妻」という立場に居る私をセルリアン様は特別扱いしてくれます。この娘達との競争ではじめて「一番」になれました。こんなに満ちたりた生活があったでしょうか。彼の庇護の元、私はこれまでに無く毎日笑って過ごしました。
私達の穏やかな夫婦生活はやはり、夫の死をもって終わりを迎えました。夫が亡くなると、爵位は息子様に受け継がれました。新しい子爵はセルリアン様が残した遺言を悉く無視して、私達に遺された物を取り上げると、家と生活費だけを与え子爵家から遠ざけました。貴族として生きようとすると全く足りないけれど、庶民のような暮らしをするのには十分すぎる額。私は娘達と息を潜めるように暮らしました。それまで夫が娘達に施してくれていた教育を継続することが出来なかった事だけが心残りです。しかし、穏やかな生活になれた私は新子爵相手に諍いを起こすような力や思考はありませんでした。食べるのに困らないけれど質素な生活……それでも夫が遺してくれた思い出が有れば、心にほんのり温かさを灯すことができました。
夫の死から数年がたち、市井に混じる暮らしにも慣れた頃。週に数度、娘達が寝静まった後に飲み歩くのが習慣になりました。さすがに女の一人歩きは危険だろうと、男装をして出掛けます。服は夫の遺品を少し修繕して使いました。彼が若い頃にお忍びで街へ出かける際に着ていた服らしく、現子爵様がボロ布扱いして捨て置いたそれをこっそり持ち出していたのが役に立ちました。この服を着ると夫が近くに居るような気になり、気持ちが大きくなります。勇気が出るというと良く言いすぎでしょうか?大胆になるといえば正しいかもしれません。男性の様に振舞う事も、夜の街を歩く事も、この服を着ていれば楽しくさえありました。なぜそこまでしてお酒を飲みたかったのかというと、夫の遺品のお酒が無くなってしまったからです。彼が生前楽しんでいたお酒の中で、封の空いてしまっている現子爵様の好みに合わないものは私が譲り受けました。夫に教わったのを思い出しながら少しずつ少しずつ飲んでいたのですが、ついに先日最後の一杯を飲み干してしまったのです。近所の酒屋を回っても同じ物は置いてありませんでした。
「そんな古臭い酒は問屋に頼むか、物好きで拘りの強い飲み屋を探すかしないと無いんじゃないかい」
3件目の酒屋の女将がそのように言いました。問屋に下ろしてもらうほどまとまった数を買えるお金はありません。その後回った酒屋でも同じような事を言われ、私は夫との思い出のお酒を探す小さな旅をはじめたのでした。夜のほんの数時間、王都を出ない、このお出かけを旅と呼ぶのは間違いかもしれません、でも、うずくまって息を潜めて暮らしていた私にとっては小さな緊張感と大きな開放感を持てるこの時間は旅と呼ぶに相応しい高揚を感じられるものでした。
意気揚々と小さな旅に出た私ですが、しかしすぐに問題を抱えてしまいました。貴族向けの店は敷居が高く近付けませんでした。服装も夫のお忍び用のものですから、入ろうとしたとしても門前払いでしょう。私が入れるような庶民向けの店には夫の好んだ銘柄は見当たりませんでした。何件回っても目当てのものが見つからず、私は自分の世間知らずと無謀を思い知らされました。
ですから、気力とお金が続かずに諦めかけた頃、そのお酒を見つけることが出来たのは、運が良かったとしか言いようがありません。それは昼間、食材の買出しに出かけた時の事でした。もちろん私は庶民の女性の様な簡素なドレスを着ていました。街中でたくさんのお酒を箱につめて運んでいる商人の荷物に探していた酒を見つけたのです。慌てて追いかけた商人の入った家屋には看板は有りません。それでももしかしたら在庫があるかもしれないと商人が出てくるのを待つことにしました。商人の拠点を確かめて、男装してからそこを訪ねるつもりでした。女性の格好のままでで見知らぬ家を訪ねる勇気は私にはありませんでした。世の中皆がいい人では無いということも、私には良い人の仮面を被った悪い人を見極める才が無い事も良く分かっていましたので。商人と交渉するのも男であるほうが有利に運べるでしょう。女の身では軽んじられて、足元を見られてしまうかもしれません。
建物の影に隠れてドアを見つめていると、程なくして商人が出てきました。私は商人越しにカウンターのある酒瓶がたくさん並んだ風景を見て、それに釘付けになってしまいました。予想に反した内装に頭が混乱して、ふと気づいた時には既に商人を見失ってしまっていました。私は悩んだ末に、夜もう一度確認することにしました。いくら昼間といえども、人通りの少ない裏通りに女一人で長居は危険です。
「逆さ月の花陰」というドアに書かれた店名に気づいたのはそれから1週間後のことでした。それから店に入る決断をするのにもう1週間。そうしてやっと私は思い出の酒に出会うことができたのでした。他にはないすばらしい品揃えのこの店に、私は週に数度訪れます。いつでもひっそりとしたこの場所は静かな生活に慣れた私には、丁度居心地良く感じられました。何度訪れても店主が話しかけてくることも無く、他の客と顔見知りになることも無く、ゆっくりとお酒を味わえる。高くも無く、安くも無い値段はいつでも変わることがありません。他の店では常連や上客には安く、そのほかには高く売るのが普通です。隣の客と全く同じ物を飲んでいたのに、請求される額が倍ほど違うことも多々あります。けれど、ここの店主はそういった事をしません。なぜ酒場を営んでいるか不思議なほど、客と関わらないのです。その為、この店では誰もが新規客であり、誰もが常連なのです。
ある日、いつもと変わらず夫の服を着て「逆さ月の花陰」の扉を開けた私は、いつもと違う風景に思わず立ち止まりました。ルーカス様です。あの、若かりし頃の多くの女性を虜にした輝きはなりを鳴りを潜めていますが、間違いようも無くルーカス・クランドールその人です。私は動揺を悟られぬようにややうつむき加減で店に入ると、ルーカス様と一番遠い席に着いて、いつもの酒を頼みました。見た目に似合わず手早い店主はあっという間に酒を出してくれます。私はそれを受け取ると、一気に半分飲み干しました。ちらりとルーカス様を確認すると、難しい顔をしてちびちびと酒を舐めています。こちらを気にしている様子も、私の視線に気づく様子も全くありません。私は彼の憂いに満ちた横顔に、細かい皺を見つけて嬉しくなります。若い頃はどうしても埋まらないと思われた私達の差がこの15年程で埋まっているように感じたのです。あの力強く、光り輝く青年はそこには居ません。くたびれて落ち込んでいる中年男性がいるだけです。私もくたびれた中年女性になりました。きっと今なら彼の隣に並んでもちぐはぐな印象にはならないでしょう。私はそこまで考えると、目の前の杯をぐいっと煽って、静かに席を立ちました。ルーカス様の邪魔をしないように、足音さえ潜めて店を出ます。もう、この店には来ない方がいいでしょう。私は夫の為に酒を飲むのですから。
もう行かない…そう決めたはずなのに、翌晩には私はまた「逆さ月の花陰」と小さく彫られた木製の扉を押し開けていました。「ルーカス様があの陰気な店に通うはずは無い」と言い訳しながら。しかし、私の予想に反して――というよりも、期待通りにと言ったほうが良いでしょうか?――彼は昨日とそっくり同じ位置に座っていました。一瞬目が合い、ルーカス様は小さく驚いています。私は昨日と同じ席に座るとルーカス様を視界に入れないように注意しながら昨日と同じ酒を注文しました。一番飲み慣れたはずのウィスキーが、どういうことか昨日までとは違った味わいを持って迫ってきます。強烈なまでに濃厚なアルコルの香りに目の置くが痛いような気がしました。この琥珀色の液体に私の浅ましい心が移りこんでしまったのでしょうか。
もう、会うのは止そうと心に決めるはずなのに、数日とおかず私はその決意を裏切ってしまいます。「逆さ月の花陰」を訪れると、決まってルーカス様が一番奥の席から小さく、でも親しげに笑いかけてくれるのです。その一瞬の喜びと後から感じる罪悪感……私の中の天秤は迷うことなく喜びに傾いてしまうのでした。言葉を交わす間柄になり、彼が私を男性と信じて疑っていない事に気づきました。私の男装など大したものではありません。胸にサラシを巻いて、男性物の洋服を着ただけです。長い髪も三つ編みにしているだけで隠すことはしていません。一度や二度会っただけでは分からないかもしれませんが、話し方や仕草など、会う機会が増えれば、隠しきれて居ない綻びを誰でも見つけることができるでしょう。たぶん、店主には女だとばれています。全く気づかないルーカス様には苦笑を送るしかありません。気づいていて知らん振りをしているという訳でもなさそうです。それは彼の私に対する興味の無さをあらわしているのだと思います。きっと、こうやってポツリポツリと言葉を交わす相手は私でなくても良かったのです。偶々、彼の話し相手に選らばれた幸運を喜べばいいのか、名前すら聞かれないどうにも近づけない距離を嘆けばいいのか、私にはそのどちらも選べそうにありません。




