実体のない恐怖
「死ねぇ……!」
エルはスッと手元に手繰り寄せたナイフを右手に構え、セピアめがけて地面を蹴った。
数メートルあったセピアとの距離が一瞬で縮まり、エルはセピアの首元にナイフを突きつける。
「っと。危ない危ない」
しかし、セピアはさして慌てる様子もなしに、むしろ口元を吊り上げながらナイフをギリギリのところで避ける。ほんの数センチ先を通過したナイフは、しかしピタリと止まり、刃先をセピアの方へと向けなおした。
「へぇ」
セピアは思わず感心するように声を漏らした。
一見すると怒り心頭と言った様子のエルだが、持ち前の冷静さは決して欠いてはいないらしい。避けられたとあらば、すぐさま対応するエルの咄嗟の判断力は、セピアからしても称賛に値する。
セピアへと向けられた刃先は恐ろしい速度で再度セピアを襲ってくるが、それをまたも回避。次々に繰り出されていく斬撃を、セピアはその小さな体躯を生かして危なげもなく避けていく。
「はぁ、はぁ……」
「あれぇ? 今さっきまでの威勢はどこへ行ったのかな? もしかしてもうばてちゃった?」
「ほざけ……!」
「そうこなくっちゃね」
肩で大きな息をするエルは、セピアの挑発に対して斬撃で返す。
しかしながら、見た通り体力をかなり消耗しているのだろう。斬撃を放っていくうちに、徐々にその速度とキレが失われていく。
たったこれ程の戦闘で、エルが疲労するとは考えにくい。
恐らくは、未だにセピアから喰らった傷が癒えきっていないのだろう。エルの腕や首元には包帯が見え、一応傷の処置はしたようだ。だが、治癒能力を持たない普通の人間の回復速度では、このたった数日で完治するまでには至らない。もし傷が治ったとしても、激しい戦闘ができるまでには到底及ばないだろうし。
「もう少し楽しめると思ってたんだけどなぁ……まぁいいや。時間もないしとっとと終わらせてようか」
「何……!?」
軽く肩をすくめると、セピアは避けるのを中止し、迫りくるナイフを片手でひょいとつまんだ。
いくらセピアが男でエルが女とはいえ、これほどの対格差では力の差は歴然。いや、エルであればそこいらの屈強な男でも力で圧倒するだろう。しかし、今の負傷した状態のエルでは、セピアでも止められる程の力しか攻撃に加えることができない。
つまんだナイフは、少し力を入れただけでセピアの下へと手繰り寄せられた。
「さぁて、どうしようかねぇ」
「貴様……!」
こともなげにナイフをくるくる回すセピアに、エルは強く歯噛みする。
「それ程の身のこなし、一体何者だ……? いくら《アカノメ》とはいえ所詮はただの子供。そこまでの力はないはずだ」
「そうかなぁ?」
瞳を鋭く細め、睨みを利かせるエルにセピアはとぼけるように返す。何かを誤魔化したいというよりは、セピアの態度に怒りを漏らすエルが見たいという趣旨のとぼけだが。
いくら負傷しているとはいってもエルの実力は相当なものだ。十歳前後の子供が相手にできる人物では当然ないし、腕利きの達人でもエルには後れを取るだろう。しかしながら、セピアはエルの攻撃を軽々とかわして見せた。必要最低限の回避をしているところを見るに、エルの攻撃を完璧に見切ったうえでの回避だったはずだ。つまり、セピアにはエルの動きを見切るほどの目と、避けられる程の身体能力があることになる。
そしてそれは、物心ついて数年程度のセピアには成しえないことだ。天才というレベルの話ではない。戦闘面では吐出した才能を持ったエルですらも、長い訓練の末尋常ならざる戦闘技術と身体能力を得たのだ。そして、現在も発展途上。そんなエルと同等かそれ以上と思わせるセピアの実力は、明らかに異常だ。
「そういばそっかぁ。前回は蛇に相手させてたもんね。僕が直接相手するのはこれが初めてってことか。それなら驚くのも無理はないか」
「……そうだな。私も貴様の実力を見誤っていたようだ」
思い返せば前回のエルとの戦闘ではセピアは直接戦ってはいなかった。丁度蛇を出していたし、自分自身が動くのが面倒くさかったのだ。故に、エルからすればセピアは蛇を操っていただけの子供であり、容姿も相まって直接戦闘で脅威となりえる相手とは思えなかったわけだ。
セピアは、自身の考えを悔いるように唇を噛むエルに、ニヤリと口元を歪ませる。
「――でもさ、僕が子供だなんて誰が言ったのかなぁ?」
「なっ!?」
セピアの、心底愉しそうな物言いにエルは驚嘆の声を漏らす。
セピアの言葉が、精神的な話や戯言の類でないことは明白だった。れっきとした事実。孕んでいるのがどうしようもない事実だからこそ、セピアの笑みはより邪悪なものになっている。
「人間がありとあらゆる『力』を持つ世界。外見の年齢なんてあてにならないんじゃないかなぁ?」
言われてエルは、自身の愚かさに一層強く唇を噛んだ。
確かに、セピアの言う通りだ。人の数だけ異能がある。そこには、当然若返りや不老の力があってもおかしくはない。外見に騙されてはならない。それは、エルが昔戦闘を教わった師が言っていた言葉だ。初歩の初歩。それ故、エルはそんな大事なことも忘れ、セピアを外見だけで判断し、少し強いだけの子供と思い込んでいてしまった。
完全に自分の失態。エルは、一度目をつむると、これまでの概念を振り払うように頭を振った。
今相手にしているのは、十歳前後の子供などではなく、子供の皮をかぶった悪魔だ。年齢に踊らされてはならない。
「ふぅー……」
エルは、細く息を吐き、バッ開いた目でセピアを――悪魔を見据えた。
それと同時、今まで怒りが支配していた頭が、嘘のようにクリアになっていくのを感じた。とはいえ、怒りがなくなったわけではない。怒りは灯ったまま、あくまでクールに。
そんな、エルの変わりようにセピアは一瞬、感心するように声を漏らした。
思考が冷静になったおかげで、一つ純粋な疑問が湧き出てきた。それは、セピアの異能についてだ。
セピアの言うことが正しければ、セピアは異能により若返りもしくは不老になったということだ。しかしながら、それがすべてではない。エルが初めてセピアと戦闘を行ったあの日、セピアは一匹の魔獣を従えていた。魔獣が人間の言うことを聞くなどあり得ないし、まず知能がない。故に、魔獣を操るとなると、異能を使用するしかないわけだ。
それともう一つ。エルは崩壊した周囲を視線で見回す。
建物を破壊できるほどの爆発。それを起こしたのも、セピア本人だ。周囲にセピア以外の怪しい人物はいないし、爆発物を使ったとも思えない。となれば、この爆発はセピアの異能によるものになるわけだが……。
若返りもしくは不老、魔獣を従える、大規模な爆発。
あまりに共通点のない三つの効果に、エルは思考を巡らせる。
ある程度似通った現象を起こしていたのならば、まだ説明はついた。
例えば、物を燃やす現象と爆発を起こす現象、周囲の温度を上げる現象。これらは、一見かかわりのないように見えるが、炎を操ることのできる力であれば、事実上可能なことだ。物は炎で燃やし、火が付けば必然的に気温は上がる。爆発に関しては、ガスなどに引火させるなどして、工夫すればいくらでも可能だ。要は、その異能の使い方によって思いもよらぬ事柄を成すことも可能ということだ。
しかし、セピアの起こした現象はあまりにも共通点がなさすぎる。
ならば、三つ異能を持っている?
それはありえない。人間が一人、持つことのできる異能は一つまでだ。稀に、ごく稀に因子を取り込みすぎて二つ異能を持つ人間も現れるが、それはうん千万分の一という確率。エルが知る中でも、異能を二つ持っている人物は二人だけだ。しかも、セピアの場合は三つだ。そんな例は確認されていないし、それほどまでに因子を取り込むことなどない。
であれば、やはり三つの事象をなせる異能ということか?
とはいえ、セピアの異能と思われる三つの事柄はどれも共通点が皆無と言っていい程異なるものだ。これらをすべて成すことのできる異能となど、考えつかない。しかし、そのことに関してはたった今セピアが言った通りだ。この世にはありとあらゆる異能が存在している。その中には、歳を誤魔化し、魔獣を従え、爆発を起こすということを成せる異能があってもおかしくはない。
しかし、そうなってくるとセピアの異能は成せることの範囲がとてつもなく広いということになる。まだ、エルが思いもよらぬことを成しえることも……。
「ははは、分かったぁ?」
顔を渋くして思案するエルが愉快だったのか、セピアは心底おかしそうに笑って見せる。
「いくら考えても無駄だと思うけどなぁ。僕の力はちょっとやそっとじゃ考えつくようなものじゃないし。そんな無駄なことするよりも、手っ取り早く力でねじふせた方がいんじゃない? 君もまだ力を使っていないみたいだしさ」
言われて、エルは小さく唸る。
確かに、セピアの言う通りだ。現段階で分かりえる材料だけでは、とてもじゃないがセピアの異能にはいきつかない。これ以上、いくら考えても無駄だ。ならば、セピアの異能に最大限警戒しつつ、本気で倒しにかかる方が早いかもしれない。
「そうだな……なら、死ね!」
「!?」
エルが叫ぶと同時、セピアの頬を一つの弾丸のようなものが素早く掠める。
「なっ……まさかナイフに?」
「まだだ!」
唐突な攻撃に、唖然とナイフを見やるセピアだったが、エルは間髪入れず、次の攻撃に入る。
エルが意識を向けると同時、地面に付着した深紅の液体がゆらゆらと動きだし、突如弾丸が如くセピアへと発射される。しかも、それは一つではない。幸い、とはとても言えないが、地面にはセピアが殺したまたは負傷させたであろうものの血液が相当な数付着している。それらすべてがセピアを捉え、全方位からセピアを取り囲むようにして飛んでいく。
エルの異能。それは、血液を自在に操作できるものだ。
しかも、それは自身の血液に限らず、他人の物までも自由に操ることができる。弾丸のように標的に飛ばすことも、伸ばして盾や剣にすることも、相手を拘束すること可能だ。一見自由度の高い異能のように思えるが、欠点もしっかり存在している。それは、自分以外の体内にある血液までは操作できないのだ。もしもそんなことができてしまえば、相手の体内にある血液を全て噴射させ、相手を一瞬で殺すことも可能になってしまう。唯一自分以外の体内でも操作できるとすれば、それは自身の血液のみだ。
「ちっ、始末を忘れてたな……」
自身の失態に軽く舌打ちし、セピアは自身へと飛んでくる血の弾丸を見やる。前後左右、セピアに逃げ道はない。地面を掘って進む程の時間などあるわけもないし、さすがに上空からは降ってこないようで、唯一の逃げ道は上空だけだが……。いくらセピアとはいえ弾丸が如く速度で向かってくる血を全て回避しながら跳躍する力はない。とはいえ、このままでは無数の血液に貫かれるだけで……。
「仕方がない。少しは喰らっちゃうだろうけど、上空に――」
腹をくくり、できるだけ高く跳躍すべく足を鎮めるセピア。
だが、セピアの動きが一瞬止まった。そして、
「――ぐ、うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああ!?!?!?」
今までの余裕な態度が嘘のように、悲痛な絶叫を上げる。
全身が震え、最早立ってもいられないのか地面に勢いよく倒れ込む。しかし、力尽きる様子はなく、痛みを少しでも誤魔化すかのようにジタバタともがいている。
「あ、あぁぁぁあああ――」
小刻みに震える両手は先程かすり傷を負った頬に添えられている。何かを取り出すかのように、高い呻き声を上げながらガリガリと肌に爪を立てる。
「はぁ、はぁ……」
エルは、そんなセピアを見ながら内心やってやったと口元を吊り上げた。
セピアが尋常ではない程の痛みに襲われているのは、もちろんエルによるものだ。
先程、セピアの頬を掠めたのは無論エルの血液だ。自らナイフに付着させておき、油断させたところでゼロ距離から発射する。ナイフを取られたのも、作戦の内である。
そこで、頬を流れる血液を操作し、傷口からセピアの体内へと侵入させた。体の内側で寄生虫の如く動き回る血液は、肉を抉り、臓器を貫き、骨を削る。その痛みと絶望は、味合わせた張本人であるエルににも想像できるものではない。
しかしながら、前述で述べた通り、エルに他人の体内で他人の血液を操作することはできない。故に、エルは血液弾でセピアの頬を掠める際、エル自身の血液をセピアの頬に付着させていたのだ。現在セピアの体内で暴れまわっているのは、エルの血液なのである。
しかし、そんなセピアの様子など関係ない。無慈悲にも、無数の血液弾がセピアに降り注ぎ、体の内側のみならず外側からも想像を絶する程の痛みが襲う。
「ぐあ、がぁあああああああああああああああああああああ!!!!!」
十、二十、三十……セピアの体には無数の穴が開き、ドボドボと大量の血が流れ落ちる。どこからどう見ても、生きられる状態ではない。
「う、うぅ……がぁ……」
もはや叫ぶ気力も体力も残っていないようで、小さく掠れた声を漏らすのみとなった。
「はぁ、はぁ、はぁ。くっ……」
エルは両肩を大きく揺らし、ガクリとその場に膝をつく。
血液を自身から離れた場所で操作するというのは想像以上に体力と気力を使うもので、ましてや他人の血を大量に操作するとなっては、ただでさえ負傷しているエルにとっては相当に厳しいものであった。現に、地面につくエルの手はぶるぶると震えており、以前セピアから負った怪我が開きかけている。
「だが……セピアは倒した……」
エルは、きしむ全身に目を細めつつ、ジッとセピアを見やる。
未だに小さな呻き声を漏らし、小刻みに震えているが、その命が風前の灯火なのは明らかだ。心臓をはじめ重要な臓器は破壊し、血は大量に流れ、もはや体の四分の一は穴と化している。この状態で生きられるとするならば、ゾンビ位なものだ。
「想像以上にてこずらせてくれたな……」
思えば、セピアを王女から離そうとしていたはずが、今や異世界にまで来てしまった。幼少期以来の大怪我にも見舞われたし、メイドになって以来久しく使ってなかった異能も使用するはめになった。まぁ、そのおかげで久しぶりにリィにも会えたし、嫌なことばかりではなかったわけだが。
「……そういえば」
エルは、ふと思い出し周囲を見回す。
しかし、見える範囲では人影はなく、先程の絶叫からは考えられない程の静寂に包まれている。どうやら、あの幼女は逃げたらしい。目の間でこんな戦闘が行われていれば当然かもしれないが、それでも足がすくんで動けないという者も世の中にはたくさんいる。思った以上に肝の据わった幼女だったのかもしれない。
「さて……」
エルは、再び視線をセピアへと戻す。
すでに生きられないことも明白だが、それでも念には念を。エル自らの手で命を絶たなくてはならない。
エルは、震える全身に鞭を打ち、どうにか立ち上がると、のそりのそりとふらつきながらもセピアのすぐそばまで寄る。
「く、くそぉ……」
「まだ、喋る元気があるようだな……」
セピアの姿は、近くで見ると遠目で見るよりはるかに無残な姿になっていた。
常人ならば見た瞬間悲鳴を上げて卒倒するだろう。しかし、エルは至って冷静に、冷ややかに見下ろす。自分自身嫌になってしまうことだが……この程度無残は姿、見慣れている。
「せめて最期は、痛みを感じさせないようにしてやる。と言っても、もはや痛みを感じることすらないだろうがな……」
「……」
エルは、セピアのそばに落ちていたナイフを手に取ると、慣れた手つきで構える。
人の死に立ち会うのは……この手で命を絶つのは、果たして何度目だろうか。少なくとも、もはや何も感じなくなる程度には場数を踏んできた。エルの手には、拭いきれない程の血と絶望がこびりついている。
経験から、一瞬で命を絶つ方法と技術は心得ている。人の命を絶つ程度の事、本来はナイフ一本で事足りるのだ。
エルは、ナイフをギラリと輝かせると、一思いに振り切った。が、
「死ね――」
「――ねぇ……」
絞り出すような声を前に、セピアに触れる寸前のナイフはピタリと止まった。
情けをかけようとか、遺言を聞いてやろうとか、そんなことを思ったわけではない。殺しでは一瞬の躊躇が命取りになる。それは、幼いころから言い聞かせられてきたことだ。
では、なぜにエルはナイフを止めたのか。
その理由に対し、エルは背筋が凍る程の寒気を感じた。
「……貴様、なぜ笑っている……!?」
ニヤリ、と。
ゼピアは、いや悪魔は、血だらけの口元を異常な程歪めた。
異様だ。異常だ。
エルは、セピアの笑みを前にして狂気を感じた。
――なぜ、笑っている?
――なぜ、絶望しない?
――なぜ、死んでいない?
得体のしれない、不気味な狂気の前に、エルは自身の心臓がバクバク鳴っていることに気が付いた。見れば、額には玉のような汗がいくつも浮かび、歯はカチカチとなっている。震える手から、ナイフが滑り落ち、キンと甲高い音を鳴らす。
恐怖だ。エルは今、死ぬ寸前の相手を前にして、恐怖を感じていた。
「な、なぜ……」
「ねぇ……」
震えるエルに、セピアはより一層笑みを濃くし、ゆっくりと口を動かした。
「や、やめろ……」
「僕は」
「やめてくれ……」
「僕はさ」
理由もわからず、エルはただただ一杯の恐怖に満たされていた。セピアは死にかけであり、何ができるわけもない。そんなこと分かっているはずなのに、どうしても恐怖心を抑えることができないのだ。
セピアが言葉を紡ぐたび、エルの心を黒い悪意が支配していき、無意識のうちにじりじりと後退していく。
そして、言った。
セピアは、はっきりと、エルの記憶に恐怖を刻み込むように。ゆっくりと。
「――死んでないよ」




