9.青空が広がるその下で
直久は、体が怠く、重くなっていくのを感じた。思うように走れない。
心なしか、辺りの景色がぼやけていくように思える。
――待ってくれ。もう少しだけ。彼女の元にたどり着けるまで。
扉が見えた。アヤメのいる部屋の、あの、生け贄にされる少女たちの部屋の扉が。
だが、その時、襲いかかるように白い光が直久を包んだ。
「直久!」
薄く開いた目に真っ先に飛び込んできたものは、青ざめたゆずるの顔だった。続いて数久の顔。
「直ちゃん。よかった、気が付いて」
直久は一言も発さずに、自分を抱きしめていたゆずるの手をどけて、身体を起こした。
――戻ってきたのか、俺は……。
唇を噛み締める。
「直ちゃん、大丈夫?」
心配そうに覗き込んできた数久に、無理矢理に笑顔を返したものの、悔しくって仕方ない。
結局、何もできなかったのだ。
俯いた直久の手に、そっとゆずるが手を重ねる。びっくりしてゆずるを見ると、ゆずるは直久の握り固められた拳を自分の手で包み、そっと胸の高さまで持ち上げる。
その拳の中に異物を感じて、直久はゆっくりと手を開いた。
「ああ」
ため息が漏れた。
こんなに錆び付いていただろうか?
あの部屋の鍵が直久の手に静かに収まっていた。
直久は再び鍵を握り締めると、呼び止める声を無視して駆けだした。
早く、早く。階段を駆け下りて、あの部屋に。
一刻も早く、あの部屋に――彼女の元へ急がないと!
直久は例の扉の前で一旦足を止めた。鍵を持つ手が震える。
カチッ。
鍵が開く。直久は一呼吸付いてから、扉をゆっくりと開いた。
あれから、いったい、どれほどの月日が流れたのだろう?
彼女は、ずっと、ずっと、直久を待ち続けていた。扉の内側には、何度も何度も引っ掻いた痕があり、剥がれた爪が扉に刺さっていた。
至る所にある黒ずんだシミは血だろうか?
扉のすぐ側で、彼女は力尽きていた。
ボロボロの布を纏った一体の人骨の脇に直久は膝を着いた。
「アヤメさん。長く待たせて、ごめん。……ほんと……ごめん」
そう言ったきりで、もはや直久の口から出てくる言葉はなかった。ただ、涙だけが。
▲▽
「本当に、ありがとうございました」
何度も繰り返し頭を下げるオーナーに、優しく首を振る数久。
「もう大丈夫だと思いますが、また何かありましたら、いつでもおっしゃってください」
ペンションを覆っていた影もすっかりと晴れ、紫緒の意識も取り戻されて、万事解決したわけだが、なんだか、すっきりとしない。
旅行鞄を片手で担ぎながら、直久は眉間にしわを寄せ、数久に振り向く。
「数、ちょっと聞きたいんだけどさぁ〜」
「何?」
直久は、自分だけに起きた体験をゆずると数久に話し聞かせていた。すると二人は何やら納得して、オーナーに仕事を終えたことを伝えたのだ。だが、直久はちっとも納得できない。
「確認するけど、ゆずるを襲った少女の霊はツバキだったんだよなぁ? その理由はアヤメさんを連れ戻すこと」
「それと、鍵を手渡すためにね」
「じゃあ、紫緒さんやオーナーの妹とか、長女に生まれた娘が16歳になったら魂が抜かれたようになっちゃうのって、それとどう関係してたわけ?」
「それは……」
数久は口元に手を持っていき、親指で下唇をなぜる。
「ツバキさんもアヤメさんも、あの部屋に誰かを身代わりに入れなければ出られないと思い込んでいた節があるんだ。特にツバキさんは、アヤメさんを自分の身代わりにして時也さんと逃げようとしていたわけで、身代わりがいなければ自分が逃げたのがすぐばれてしまうという生前の思いが深い。強く思っていたことって、死んだ後も残ることがあってね。しかも、不完全な記憶として残ることが多くて、ツバキさんの場合、怨霊となってしまったから、アヤメさんをあの部屋連れ出すためには、他の誰かを身代わりに入れなければならないと、強く思い込んじゃったみたいなんだ」
「要するに、ツバキはアヤメさんをあの部屋から自由にしてやりたくて、身代わりに紫緒さんたちの魂を部屋に引き込んだってわけだな」
「そう。だから、直ちゃんが扉を開けたとたん、いくつもの魂が部屋から解放されて、飛び出て行ったのが見えたよ。紫緒さんも同じ頃、意識を取り戻したしネ」
直久は、ふーんと頷くと、一息付いて、
「あとさぁー、火傷の傷がアヤメさんにもあったのって?」
と、尋ねた。すると数久は眉を歪ませた。
「それは、双子の神秘としか言いようがないね。やっぱりね。一人一人別々の人間と言っても、元は一人の人間として生まれてくるはずだったのだから、どこかで繋がっているんだよね。――よくあるでしょ。僕が気分が悪い時、直ちゃんまで気分が悪くなったりするのって。直ちゃんが怪我したところと同じところに、僕自身は覚えがないのに傷が付いてるとか……」
「あるある、あれ不思議だよなぁ〜」
「同じことが、ツバキさんとアヤメさんに起こったんじゃないかなぁ?」
数久は少し俯く。
「そんなことがあるから、自分たちが同じものだなんて思ってしまうんだよ。だから、ツバキさんはどうしてもアヤメさんをあの部屋から出したかったんだね。アヤメさんがあの部屋に閉じ込められているうちは、自分までも閉じ込められてしまっているから」
ツバキのそんな想いが何人もの少女を犠牲にしたのだ。
直久は黙って、数久の肩に優しく手を置いた。
オーナーと話を済ませたゆずるが、怠そうに、鞄を担ぎながら双子の方に歩み寄って来た。
無造作に突っ込まれた茶封筒がコートのポケットから覗いている。
「行くぞ」
擦れ違いざまに短く言って、ゆずるは先に玄関をくぐった。追って直久と数久も外に出る。
直久が銀世界の眩しさに目を細めた時、妃緒が三人を呼び止めた。
振り返ると、妃緒の後ろに日本人形のように綺麗な少女が静かに立っているのが見えた。
ドキッとして、直久はその少女を見つめる。すると、しっかりとした瞳で見つめ返される。
「お姉ちゃんが直久さんにお礼が言いたいんだって」
「お礼? 俺に?」
人差し指で自分を指すと、紫緒さんはコクリと頷き、すーっとあの鍵を直久に差し出した。
「これを。どうか、直久さんがお持ちください」
「だけど」
「忘れないで欲しいのです」
直久がまごまごしているうちに、紫緒は無理矢理、直久の手に押しつけた。そして、微笑んだ。
眩しいほどに綺麗で、可愛らしい。
「あれ? お姉ちゃんって、直久さんと数久さんが見分けられるの? ちゃんと二人を見分けられるのって、ゆずるさんくらいかと思ったわ」
――そう言えば、紫緒さん、今、まっすぐ俺のとこ来たよなぁ。
普通、初対面の人は俺と数って、絶対どっちがどっちなのか分からないんだけど。
紫緒はクスクス笑う。
「やあね、妃緒ったら。全然違うじゃない。見分けるも何も、直久さんと数久さんは別の人ですもの。ねっ、ゆずるさん」
急に話を振られたゆずるは、紫緒を一瞥しただけで、無言で眉を顰めた。
それから、二人は何だかんだ言ってバス停まで見送ってくれた。
一時間に一本、しかも午後2時が最終便だという、末恐ろしい田舎のバスがちんたら走ってくる。
それを横目にしながら別れを言い交わした。
バスが止まり、ゆずるが乗り込み、続いて数久が乗ろうとした時、直久はふと思い出した。
「そう言えば、舜さんは?」
その言葉に驚いて、数久が振り向く。
「直ちゃん!」
はっ、として妃緒の顔を見る。 すると、妃緒は今にも泣き出しそうな顔をして直久を睨み返す。
「やっぱり、お兄ちゃんは死んでいたのね」
どうやら山の神は妃緒に本当のことを話したらしい。しばしの間、舜の身体を借りているだけだということを。
紫緒の意識が戻り、舜の望みが叶えられた今、山の神は舜の躰を返さなければならない。
もっとも、死体にずっと憑依するというのは無理な話だった。死体は時と共に朽ち果ててしまうものだから。
そう思って、思い返してみれば、少し腐ったような臭いがしていた気がする。
「でもね、本当は知ってたの。ちゃんと分かっていたのよ。ただ認めたくなかっただけ」
妃緒は目を細めて、いたずらっぽく笑った。
「それにね、けっこう好きだったの」
「へ?」
「山の神様」
ふふっと笑って、妃緒は続けて、
「この辺りが栄えていたのって、山の神様がいたからだよね。山の神様を山に閉じ込めていたから、この辺りが栄えていたんでしょ。自分たちの都合で閉じ込めた神様を慰めようとして生け贄を考えたわけで、生け贄を出さなくなった今、神様はさびしいのよ!」
と、言い切った。
「確かに、いくら舜さんに命を捧げられたからって、そうそう気軽に住処を離れたりしないね、普通は。霊とかもそうだけど、思い入れが深い場所――神様の場合は社だけど、そういった場所から離れることを嫌うものなんだよ。寂しかったのかもね」
数久がそう言うと、そうでしょ! と妃緒は、瞳をきらきらと輝かせた。
「だから、私が慰めてあげることにしたの!」
「ええ? まさか、妃緒ちゃん生け贄になるんじゃ……」
「べつに生け贄だけが慰める方法じゃないでしょ?」
妃緒は驚きの声を上げた直久の目先に人差し指を突き立てた。
「約束したの。あと二年したら、お嫁さんになってあげる、って」
ズルッ。
直久の肩から鞄がずり落ちた。
「ま、まじでぃ?!」
「本気よ。だって約束したもの。そしたら、もう生け贄の必要なく、村も栄えるじゃない?」
「いや、そうかもしれないけど……。だって……マジ?」
直久が腑に落ちない顔をしていると、バスの窓を大きく開けて、顔を出したゆずるが、
「良い考えですね」
と、にっこり。
「っでしょ! さすが、ゆずるさん!」
絶句。
そうか、ゆずるにしろ、うちの家系の奴に、異種間結婚に偏見があるような常識的な奴はいない。
つーか、違和感すら感じないような奴ばっかなんだな。
「ほら、直ちゃん。早く乗って」
いつの間に乗り込んでいた数久が、バスの中から呼んでいる。
妃緒のことがまだ引っかかるが、仕方ない。じゃあ、と短い別れを告げて二人に背を向けると、あわてて紫緒が直久の袖を掴んだ。
「また来ていただけますか?」
振り返ると、必死な瞳と会う。
「もちろんですよ。お困りでしたら、いつでもどうぞ。お呼び立てください」
おちゃらけて答えると、紫緒は直久の袖から手を離し、ゆるやかに首を振った。
「仕事ではなく、思い出した時に、会いに来て欲しいのです」
直久がバスに乗ったのを確かめて、バスの扉が閉まる。ガタガタと重そうに走り出した。
「ずっと、待っていますから。今度はちゃんと待っていますから……」
遠く、小さくなっていく紫緒の姿を直久は、それが消えて見えなくなってしまうまで、目で追い続けた。
青空が広がるその下で、真っ白い雪が静かに横たわり、赤い椿の花が直に咲き乱れようと蕾を大きくさせている。
【完】
『春眠』(http://ncode.syosetu.com/n6626d/)へ続く。