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第1話 異世界でも一緒

「グレン、朝だよ」


 柔らかな声に呼ばれ、グレンはゆっくりと目を開けた。


 窓から差し込む朝日が、寝室の床を淡く照らしている。


「……もう朝か」


「もう朝。今日は依頼を受けるんでしょ?」


「ああ。そうだったな」


 グレンは毛布をめくり、身体を起こした。


 その瞬間、腰から肩にかけて重い感覚が走る。


「うっ……」


「やっぱり腰が痛いんじゃない」


「痛いってほどじゃない。少し固まってるだけだよ」


「本当に?」


「本当だって」


 心配そうに顔をのぞき込む妻へ、グレンは笑ってみせた。


 グレンは四十歳。


 妻のアイリは三十七歳。


 二人とも、まだ老け込むような年齢ではない。


 それでも若い冒険者たちと比べれば、身体の衰えを感じることは増えていた。


 特に前衛として剣を振るうグレンは、依頼の翌日に疲れが残ることも珍しくない。


「朝ご飯、できてるよ」


「いい匂いがすると思った」


「今日は卵を二つ使ったからね」


「二つも?」


「昨日の薬草、少し高く買い取ってもらえたでしょ?」


「それでも、俺は一つでよかったのに」


「私も食べたかったの」


「なら仕方ないな」


 二人で笑いながら、一階へ下りる。


 フォルンの街に建つ、古い二階建ての借家。


 決して広くはない。


 雨漏りこそしていないが、冬になると窓の隙間から冷たい風が入ってくる。


 床も何か所か軋んでいた。


 それでも、二人で暮らすには十分だった。


 食卓には、焼いた卵と黒パン、野菜の入った薄いスープが並んでいる。


「いただきます」


「どうぞ」


 グレンは卵を一口大に切り、口へ運んだ。


 ほどよい塩味と、ほんのりとした香草の香りが広がる。


「うまい」


「よかった」


「やっぱりアイリの料理が一番だな」


「卵を焼いただけだよ?」


「アイリが焼いた卵だからうまいんだよ」


「朝からよくそんなこと言えるね」


 呆れたように言いながらも、アイリの頬は少し緩んでいた。


 その顔を見ているだけで、グレンの胸も温かくなる。


 前世でも、アイリはよく朝食を作ってくれた。


 もっとも、あの頃は黒パンでも薄いスープでもない。


 炊きたての白いご飯に味噌汁。


 卵焼きや焼き魚が並ぶ、ありふれた日本の朝食だった。


「こうしてると、前の世界を思い出すな」


「朝ご飯が?」


「ああ。アイリの卵焼き、好きだったからな」


「こっちには醤油も砂糖もないけどね」


「これはこれでうまいよ」


「いつか似たような調味料、見つけたいね」


「その時は甘い卵焼きを頼む」


「グレン、本当に甘い方が好きだよね」


「アイリが作るなら、なんでも好きだけどな」


「はいはい」


 アイリは慣れた様子で受け流した。


 だが、耳が少し赤くなっている。


 そんな反応まで、前世と変わらない。


 二人が前世で暮らしていたのは、日本という国だった。


 グレンはごく普通の会社員。


 アイリも同じ会社に勤めており、職場で知り合った。


 交際を始めて三年。


 グレンが二十五歳、アイリが二十二歳の時に結婚した。


 盛大とは言えない、小さな結婚式だった。


 それでも親しい友人や家族に祝福され、二人にとって忘れられない一日になった。


 その翌日。


 新婚旅行へ向かう途中で、二人の人生は終わった。


 対向車線から飛び出してきた大型車。


 強い衝撃。


 割れる窓ガラス。


 隣に座っていたアイリへ、必死に手を伸ばしたところまでは覚えている。


 その先の記憶はない。


 次に目を覚ました時、二人は見知らぬ森の中に倒れていた。


 服装も身体も変わっていた。


 二十五歳だったグレンは三十五歳。


 二十二歳だったアイリは三十二歳になっていた。


 剣と魔法の存在する、まったく知らない世界。


 どうして二人とも十歳も年を取っていたのか。


 なぜ離れ離れにならず、同じ場所へ転生できたのか。


 その理由は、今も分からない。


 事故の記憶はある。


 前世の記憶も、ほとんど残っている。


 だが、死んでからこの世界で目覚めるまでのことだけは、二人とも何も覚えていなかった。


「この世界に来て、もう五年か」


 グレンが呟くと、アイリも小さく頷いた。


「早かったね」


「最初は、どうなることかと思ったけどな」


「目を覚ましたら森の中で、グレンはおじさんになってるし」


「それはお互い様だろ」


「私はまだ三十二歳だったもん」


「俺だって三十五だ。おじさんってほどじゃない」


「今は四十歳だけどね」


「アイリだって三十七だろ」


「私はまだ若いよ?」


「俺から見れば、今でも十分若くて可愛いよ」


「そういう話じゃないでしょ」


 アイリは頬を膨らませる。


 グレンは思わず笑った。


 この世界で目を覚ました時、何より安心したのは、アイリが隣にいたことだった。


 一度死んだ。


 それも結婚した直後に。


 本来なら、二人で過ごすはずだった時間を奪われた。


 それでも、こうしてもう一度一緒に生きられている。


 十歳も年を取ったことなど、それに比べれば大した問題ではなかった。


「グレン」


「なんだ?」


「また難しい顔してる」


「そうか?」


「うん。事故のことを思い出してた?」


「少しな」


 グレンは正直に答えた。


「悪い」


「謝らなくていいよ。私も思い出すことあるから」


 アイリは穏やかに微笑んだ。


「でも、今はこうして一緒にいられる」


「ああ」


「それで十分だよ」


「そうだな」


 本当に、その通りだった。


 前世では始めることすらできなかった夫婦生活を、この世界では五年間続けられている。


 二人で働き。


 二人で食卓を囲み。


 二人で同じ寝床に入り。


 朝になれば、また互いの顔を見ることができる。


 それだけで十分幸せだった。


 ただ、グレンには一つだけ不安がある。


 いつまでも冒険者を続けられるわけではない。


 二人がこの世界へ来た時、頼れる者は誰もいなかった。


 身分を証明するものも、住む場所も、働き口もない。


 身体一つで始められる仕事として選んだのが、冒険者だった。


 最初の一年は本当に苦労した。


 剣の握り方すら知らなかったグレンは、訓練場へ通い詰めた。


 アイリも魔法の使い方を一から学んだ。


 幸い、二人ともスキルブックとの相性は悪くなかった。


 グレンは剣技や身体強化。


 アイリは回復魔法と支援魔法を中心に習得した。


 それでも、才能に恵まれていたわけではない。


 五年間、危険な依頼を避け、安全を最優先にしてきた結果、二人は今もDランク冒険者だった。


 生活には困っていない。


 家賃を払い、毎日の食事を用意し、わずかではあるが蓄えもできている。


 しかし、それは二人とも働ける間だけだ。


「今日の依頼、何にする?」


 アイリの声で、グレンは考えを中断した。


「ギルドで見てからだな。討伐でも採取でも、危険が少ないやつでいい」


「昨日も採取だったよ?」


「なら今日は討伐にするか」


「腰は?」


「気にしてない」


「嘘」


「……少しだけ重い」


「ほら」


 グレンは観念してスープを口へ運んだ。


「危ない依頼は受けないよ。アイリも一緒なんだからな」


「私がいるから安心なんじゃないの?」


「安心はしてる。でも、心配もする」


「矛盾してるよ」


「夫ってのは、そういうもんなんだ」


「前の世界でも、そんなこと言ってた?」


「言う前に死んだからな」


「それはそうだけど……」


 二人は顔を見合わせた。


 少しの沈黙のあと、どちらからともなく笑い出す。


 今では事故のことも、こうして冗談にできるようになった。


 グレンは笑顔を浮かべるアイリを見つめる。


 前世では、新婚旅行へ向かう途中で守れなかった。


 あの衝撃の中で、何もできなかった。


 だからこそ、今度は絶対に失いたくない。


 少し慎重すぎるくらいでいい。


 高い報酬よりも、生きて帰ることが大切だ。


 ランクを上げるために、危険な魔物へ挑むつもりもない。


 だが、安全を重視すればするほど、稼げる金額には限界がある。


「もう少し稼げたらな」


「急にどうしたの?」


「いや。今より少しだけ、アイリに楽をさせてやりたいと思ってさ」


「私は今でも十分楽してるよ?」


「どこがだよ。毎日飯を作って、掃除して、俺と一緒にダンジョンまで来てるだろ」


「グレンだって働いてるじゃない」


「俺はいいんだよ」


「よくないよ」


 アイリは黒パンをちぎりながら、困ったように笑った。


「私はグレンと一緒に冒険するの、嫌いじゃないよ」


「知ってる」


「家で待ってるだけの方が、きっと心配になる」


「それも知ってる」


「だったらいいでしょ?」


「でも、いつかは引退しないとな」


「その時は二人で考えればいいよ」


「そうだな」


 グレンは頷いた。


 アイリはいつもそう言ってくれる。


 無理をしなくていい。


 今のままで幸せだ。


 だが、だからこそ、もう少し良い暮らしをさせてやりたかった。


 高級な屋敷が欲しいわけではない。


 せめて冬に隙間風の入らない家。


 毎日でなくても、好きな時に肉や卵を食べられる生活。


 冒険者を辞めたあとも、金の心配をせずに二人で笑っていられる未来。


 それだけでいい。


「アイリ」


「なに?」


「俺は今度こそ、アイリと爺さん婆さんになるまで一緒に生きたい」


 アイリの手が止まった。


 数秒遅れて、その頬が赤く染まっていく。


「朝から急に何を言ってるの?」


「本当のことだよ」


「そういうこと、さらっと言うよね」


「嫌だったか?」


「嫌じゃないけど……」


 アイリは視線を逸らし、小さな声で続けた。


「私も、グレンとお婆ちゃんになるまで一緒にいたいよ」


「ああ」


「だから、無理しないでね」


「分かってる」


「本当に?」


「今度こそ本当だ」


「それ、さっきも聞いた」


 食事を終えた二人は、手分けして後片付けを済ませた。


 グレンは使い込んだ革鎧を身につけ、腰に剣を下げる。


 アイリも淡い茶色のローブをまとい、杖を手に取った。


 高価な装備ではない。


 だが、五年間使い続けてきた大切な装備だ。


「忘れ物は?」


「ない」


「回復薬は?」


「三本ある」


「水は?」


「持ったよ」


「保存食は?」


「ちゃんと入れた」


「よし」


 確認を終えたグレンへ、アイリが呆れたような視線を向ける。


「毎回確認するよね」


「何かあってからじゃ遅いからな」


「慎重すぎるくらいが、グレンらしいけど」


「一度死んでるからな。二度目は御免だ」


「私もだよ」


 グレンが玄関の扉を開ける。


 朝の光と共に、フォルンの街の賑やかな音が家の中へ入ってきた。


「じゃあ行くか」


「うん」


 アイリが隣へ並ぶ。


 グレンはその姿を確認してから、扉に鍵を掛けた。


「今日も安全第一でいこう」


「もちろん」


 二人は肩を並べ、冒険者ギルドへ向かって歩き始めた。


 朝の陽射しを浴びながら、グレンとアイリはフォルンの大通りを歩く。


 ダンジョンによって栄えたこの街は、朝から活気に満ちていた。


 武器屋では鍛冶職人が金槌を振るい、防具屋の前には装備を選ぶ冒険者たちが集まっている。


 露店では焼きたてのパンや串焼きが並び、香ばしい匂いが風に乗って漂ってきた。


「いい匂い」


 アイリが小さく呟く。


「帰りに買って帰るか?」


「依頼が終わってからね」


「今日は報酬が少し多ければ、肉も買えるかもな」


「ふふっ。期待しちゃう」


 そんな他愛もない会話をしながら歩く。


 前世では当たり前だった日常が、この世界では何よりも大切な時間だった。


 やがて、大きな石造りの建物が見えてくる。


 フォルン冒険者ギルド。


 毎日多くの冒険者が集まる、街の中心ともいえる場所だ。


 扉を開けると、賑やかな声が耳へ飛び込んできた。


 掲示板の前では依頼を選ぶ冒険者たち。


 酒場では朝から酒を飲みながら武勇伝を語る男たち。


 受付前には長い列ができていた。


「相変わらず賑やかだね」


「ああ」


 その時だった。


「グレンさん! アイリさん! おはようございます!」


 明るい声が二人を呼ぶ。


 受付の奥から笑顔を向けてきたのは、ミーナだった。


 二十二歳の受付嬢で、グレンたちが冒険者登録をした頃から世話になっている。


「おはよう、ミーナ」


「おはようございます」


「今日もお二人一緒ですね」


「夫婦だからな」


「知ってますよ」


 ミーナはくすっと笑った。


「でも、お二人を見ていると、本当に仲がいいなぁって思うんです」


「そうか?」


「はい。喧嘩してるところ、一度も見たことありません」


 グレンはアイリを見る。


 アイリも同じようにこちらを見ていた。


「喧嘩、したことあったか?」


「前の世界で一回だけ」


「ああ、カレーにソースをかけた時か」


「そう!」


「あれは俺が悪かった」


「今でも許してない」


「まだか?」


「冗談」


 二人が笑うと、ミーナもつられて笑った。


「本当に仲良しですね」


「まあな」


 グレンは少し照れくさそうに頭をかいた。


 すると、近くにいた若い男性冒険者たちが話しかけてきた。


「グレンさん、おはようございます!」


「おう」


「今日も依頼ですか?」


「ああ」


「俺たち、今日は六階層まで行くんですよ!」


 まだ二十歳前後だろう。


 新しい装備に身を包み、目を輝かせている。


「気を付けろよ」


「大丈夫ですよ!」


「その”大丈夫”が一番危ない」


 グレンは真面目な顔で言った。


「少しでも危ないと思ったら帰れ。依頼はまた受けられる。でも命は一つしかない」


 若い冒険者たちは顔を見合わせる。


「はい!」


 元気よく返事をすると、仲間たちと受付へ向かっていった。


 その背中を見送りながら、アイリが小さく笑う。


「すっかり先輩だね」


「言うことだけは一人前だからな」


「でも、あの子たちちゃんと聞いてたよ」


「ならいいけどな」


 グレンは五年間で何人もの冒険者が帰ってこなくなるのを見てきた。


 焦って強い魔物へ挑み、命を落とした者。


 仲間を庇って帰らなかった者。


 無理をして取り返しのつかない怪我を負った者。


 だからこそ、生きて帰ることの大切さを誰よりも知っている。


「では、今日はどの依頼にしますか?」


 ミーナが依頼書を並べる。


「Dランクで危険の少ないものをお願いします」


 アイリが答えると、ミーナはすぐに数枚の依頼書を取り出した。


「薬草採取、ホーンラビット討伐、オーク五体討伐ですね」


 グレンは依頼書を見比べる。


「オークにするか」


「いいの?」


「五階層なら問題ない」


「無理はしないでね」


「もちろん」


 ミーナも安心したように頷いた。


「グレンさんたちは本当に慎重ですからね」


「慎重なくらいでちょうどいいんだ」


「そうですね」


 依頼を受注すると、二人はギルドをあとにした。


 街を抜け、ダンジョンへ続く街道を歩く。


 途中ですれ違う冒険者たちが手を振ってくる。


「おはようございます!」


「気を付けてな」


 フォルンでは、グレンたちは有名人だった。


 強いわけではない。


 ランクが高いわけでもない。


 だが――。


「あの夫婦は絶対に無茶をしない。」


 そんな信頼を得ていた。


「グレン」


「なんだ?」


「私たち、この世界で友達増えたね」


「ああ」


「最初は知り合い一人もいなかったのに」


「ミーナにもずいぶん助けられたしな」


「うん」


 異世界へ来たばかりの頃は、本当に何もなかった。


 言葉は通じても、身分証はない。


 仕事もない。


 家もない。


 それでも少しずつ信用を積み重ね、ようやく今の生活を手に入れた。


 だからグレンは思う。


 この穏やかな毎日を失いたくない。


 アイリとの生活を守りたい。


 そのためなら、ランクが上がらなくても構わない。


 派手な武勇伝なんていらない。


 二人で笑って家へ帰れることが、一番の報酬だった。


 街道を歩き続けると、巨大な岩山の中腹にぽっかりと開いた大穴が見えてくる。


 フォルン東部ダンジョン。


 この街の冒険者たちが生活を支える場所だ。


「行こうか」


「うん」


 グレンは腰の剣へ手を添えた。


 アイリも杖を握り直す。


 互いに目を合わせ、小さく頷く。


「今日も、生きて帰ろう」


「もちろん」


 二人は並んでダンジョンの中へ足を踏み入れた。


 この時の二人はまだ知らない。


 今日という一日が、自分たちの運命を大きく変える始まりになることを。


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― 新着の感想 ―
仕上がっている夫婦の姿が、転生物語として珍しく感じました。日本とは違う形ながら、しっかり生ききっているところに、たくましさも感じました。どういった転機が訪れたのか、続きも楽しみになる冒頭でした。
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