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虐待死した公女の代役ですが、皇女の恋人と結婚させられました  作者: Megumi


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08

 大公邸に戻ったのは、夜も更けてからだった。

 セリーヌは人払いをすると、寝室の扉が閉まる音を背に、糸が切れたようにベッドへと倒れ込んだ。

 指先は氷のように冷たく、身体の芯に残る疲労が重くのしかかった。

「怪我の確認をしなければ」と頭では思っていても、もう指一本動かせそうにない。


 ——どれほどの時が過ぎただろうか。

 ほとんど意識を手放していたセリーヌの耳に、微かな物音が届いた。

 ドアが静かに開き、誰かが入ってくる気配。

 セリーヌは慌てて上体を起こそうとしたが、身体は思うように動かない。

 仕方なく視線だけを動かすと、蝋燭の淡い光の向こうにロランが立っていた。


「……っ、閣下?」


 声がかすれていた。

 返事の代わりに、ロランはゆっくりと歩み寄る。


「長居はするなと、言ったはずだが——」


 その声には冷たさの中に、どこか抑えきれぬ焦燥が混じっていた。

 セリーヌが何かを言おうとした瞬間、ロランの視線が彼女のドレスに落ちる。


「……なぜ、ドレスを着替えた?」


 思いもよらぬ問いだった。

 驚いたセリーヌは、一瞬返事に詰まり、それから小さく息を吸った。


「雨で……足元が、ぬかるんでおりまして。泥がはねて……汚してしまったのです」


 自分でも不自然に思えるほど、淡々とした声だった。だが、それを取り繕うだけの元気が、今のセリーヌにはなかった。

 ロランはそんなセリーヌの言葉に短く息を吐くと、瞼を伏せた。

 何かを考えているようだが、その考えは読み取れない。


 長い沈黙が続いたあと、ロランは静かに踵を返した。


「……そうか」


 低く、それだけを言い残して部屋を出ていった。

 扉が閉まる音だけが、やけに遠くに響く。

 セリーヌはしばらく、遠ざかっていくロランの足音を聞いていた。

 胸の奥に、なんとも言えないものが残る。

 ——セリーヌは抱いてはいけない“何か”を、必死に頭から追い出そうとした。


「……どうして、覚えているの……」


 セリーヌがどんなドレスを着ていようと、気にも留めないはずなのに。

 その問いは、唇から零れた瞬間、空気に溶けて消えた。


 いつの間にか瞼が重くなり、再び意識が薄れていく。

 朧げなまま、遠くでノックの音を聞いたような気がした。




「クロエ様!」


 ハッと目を開けると、ミシェルが氷嚢を抱えて駆け寄ってくるのが見えた。

 その後ろから、大公家専属医も入ってくる。

 部屋の空気がやけに冷たく感じ、セリーヌは小さく身震いをした。


「……どうしたの?」


 自分の声が、自分のものではないように感じた。

 セリーヌの顔を見たミシェルの瞳に、涙が浮かんでいる。


「旦那様が……“熱が高いようだから医者を呼べ”と……」

「——え?」


 驚きで、言葉がうまく出てこない。


(閣下が? まさかあの人が、私を気遣うはずが……)


 しかし、その思考もすぐにかすんでいった。

 医者の問いかけも、ミシェルの手のぬくもりも、次第に遠のいていく。

 世界がどんどんぼやけていき、やがて——闇がゆっくりとセリーヌに覆い被さった。




 気づけば、セリーヌは随分懐かしい場所にいた。

 薄暗く掃除の行き届いていない部屋に、雨漏りのする天井。

 ここは、セリーヌが育った孤児院だ。


 幼いセリーヌが、部屋の隅で薄汚れた毛布を握りしめて震えている。

 常に空腹で、寒くて、職員の怒鳴り声と子どもの泣き声で満ちた世界。

 だが、その中に一つだけ、温かい記憶があった。


 ——大丈夫よ、泣かないで。


 大好きなステラ。

 ステラは年上の少女で、いつも職員から他の子ども達を庇ってくれる、とても優しい人だった。

 誰かの代わりに職員に叩かれても、笑って「平気よ」と言っていた。

 その笑顔は、セリーヌの薄暗い世界に光をもたらしてくれた。


 幼いセリーヌは、彼女の手を握りしめて尋ねたことがある。


「ステラは、女神様の使いなの?」


 あの時、ステラは少し困ったように笑って、優しくセリーヌの髪を撫でてくれた。


「そんなことないよ。でも……そう見えたなら、うれしいな」


 その微笑みが眩しくて、胸の奥がじんわりと温かくなった。

 あのぬくもりを、今でもはっきりと覚えている。


 けれど、その記憶はいつも同じところで途切れる。

 ステラが孤児院を出ていった日。「必ず迎えにいくから」と言い残し、去っていったその背中を、セリーヌは泣きながら見送った。


 ——だが、珍しい髪色が災いし、人買いに売られたセリーヌが、ステラと再会することはなかった。




「……ステラ……」


 懐かしい名を呼びながら、セリーヌはゆっくりと目を開けた。

 朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいる。

 喉が渇き、頭と打たれた背中がズキズキと痛んだ。

 けれど、昨夜のような倦怠感はもうない。


 枕元には、ミシェルがいた。

 そばに置かれた椅子に座ったまま、ベッドに身を預け、うたた寝をしている。

 徹夜で看病してくれたのだろう。


「……ありがとうね、ミシェル」


 頬にかかった髪をそっと避けてやると、ミシェルは眠ったまま、子どものような笑みを浮かべた。

 その無防備な表情に、どこか満たされた気持ちになる。


 静かに立ち上がり、カーテンを開けると淡い朝日が差し込み、昨夜の出来事が少しずつ蘇ってきた。

 ロランが訪れたこと。

 ドレスが変わっていることを指摘されたこと。

 そして、医者を呼ぶように命じたこと。


「……どうして」


 誰にも聞こえないように、小さく呟く。

 ロランの心のうちが、まるで掴めない。

 あの冷徹な仮面の奥に——ほんの一瞬だけ、別の何かが見えた気がしたのに。


 ぼんやりと窓の外を眺めながら、ふと思う。

 夢の中で見たステラの笑顔。優しく、温かく、包み込むような微笑み。

 懐かしい記憶が蘇ったのは、きっとラリサの笑みと重なるからだと。


 ラリサが微笑む時のあの穏やかな光。

 人を疑わず、すべてを受け入れ、赦してくれるような優しさ。

 彼女を見るたび、憧憬を抱きつつも、心のどこかがほんの少しだけ痛くなるのは、きっとそのせいだ。


 ステラとは似ても似つかない顔立ちなのに。

 それでも、あの慈悲深い笑みに、人生で最も幸せだったあの頃のぬくもりを思い出してしまう。


 セリーヌは小さく息を吐き、瞼を閉じた。

 窓の外では、朝の訪れを告げるように小鳥がさえずっている。

 今日もまた、一日が始まる。

 それが希望なのか、絶望なのかはまだ分からない。


 ただ、無性に——ステラに会いたいと思った。

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