09.第二皇子の誘惑
悪夢の帰省から数日の静養を経て、セリーヌの身体はようやくいつもの調子を取り戻していた。
ただ、杖で何度も殴打された背中の痛みは、まだ消えていない。
誰にも言わず、治療も受けていないため、動くたびに鈍痛が走った。
その日もセリーヌは、いつものように人払いをして、一人で着替えを済ませた。
これだけは、いくら使用人たちに怪しまれようとも、変えることのできない習慣だった。
奴隷の焼印に加え、今は青紫に変色したアザまで広がっている背中など、誰に見せることができようか。
セリーヌはアザがドレスから見えていないことを慎重に確認してから、そっとため息をついた。
——この背中を、誰にも見られなかった。
そのことに、何よりも安堵していた。
ミシェルも、医者も、誰一人として気付いていない。
セリーヌの正体にも、公爵からの虐待にも。
このまま、何事もなかったかのように時間が過ぎていけばいい。
そう願いながら、ドレスに合わせた華奢なネックレスをつけていると、控えめなノックの音が響いた。
「クロエ様……」
扉の隙間から、ミシェルが困ったように顔を覗かせた。
その表情だけで、何か厄介な知らせを抱えていると気づくには十分だった。
「どうしたの?」
セリーヌが穏やかに問いかけると、ミシェルは一瞬だけ目を伏せてから、ためらいがちに口を開いた。
「第二王子殿下が……お見舞いに起こしです」
「……エリック殿下が?」
その名を聞いた瞬間、背中の痛みが強くなる。
(なぜこんな時に?)
当然、不義の噂は宮廷にも届いているはずなのに。
公務の合間を縫って、親友であるロランも通さずにわざわざ訪ねてくるなんて。
嫌な予感がセリーヌの背筋を走った。
「応接室にお通しして。閣下にも同席を——」
言い終える前に、扉が大きく開いた。
まるでそれが当然であると言わんばかりに、堂々とした足取りで入ってきたのは、他でもないエリックだった。
「やあ。思ったより元気そうで安心しましたよ」
いつもと変わらぬ柔らかな笑み。
けれど、その瞳の奥には、どこか探るような光が潜んでいるように見えてしまう。
セリーヌはこの男を以前と同じように、人格者として信頼をおくことができなくなっていた。
「殿下……ご配慮、恐れ入ります」
セリーヌはそんな疑いを悟られぬよう、瞬時に表情を整えると、完璧なカーテシーをした。
ミシェルが不安そうに視線を彷徨わせている。
セリーヌのためにエリックを追い出したいが、第二皇子相手ではそれもできずに困っているのだろう。
主人として、可愛い侍女を板挟みにするわけにはいかないと、セリーヌはミシェルに声をかけることにした。
「大丈夫よ、ミシェル。お茶の準備をお願い」
言葉にわずかな抑揚を込めて、目で合図する。
通じるかは自信がなかったが、ミシェルは一瞬ためらったものの、その意味を察したのか、小さく頭を下げて部屋を出ていった。
彼女の足音が遠ざかるのを確認してから、セリーヌはさりげなくエリックから距離をとったまま、口を開いた。
「このような格好で失礼いたします。まさか殿下にお越しいただけるとは思わず……」
「いや、そんなにかしこまらないでください。ただ貴女が心配で、顔を見たかっただけなんです」
エリックは気さくな笑みを浮かべているが、その人当たりの良さが、かえって不穏に感じられる。
先日のラリサとのお茶会での軽率な言動——まるで恋人同士の戯れのようなあれが、不義の火種となったことは、間違い無いだろう。
にも関わらず、目の前の男はまるで何事もなかったかのように笑っている。
「ご覧の通り、すっかり回復いたしました」
努めて淡々と答えるセリーヌに、エリックは唇の端を上げ、意味深に微笑んだ。
「ロランが医者を手配したそうですね」
「……それが、なにか?」
「この前の貴女に対する態度からは、とても信じられない気遣いです。——あれから夫婦としての絆でも芽生えたんですか?」
部屋の隅に飾られたロランの肖像画にチラリと視線を向け、エリックはセリーヌの顔を覗き込んだ。
言葉の端には、あえてセリーヌを不快にさせようとする意図が見える。そのことにセリーヌはわずかに眉をひそめたが、冷静に答えた。
「恐れながら、閣下のご心中については、私の口から申し上げることはできません」
「そう堅くならないでください」
エリックはにこやかに笑うと、セリーヌが保っていた距離をぐっと詰めた。
長い足は、数歩歩くだけで容易にセリーヌに近づいてしまう。そうして瞬く間に、エリックの長い影がセリーヌを覆い隠した。
咄嗟に身を引こうとしたセリーヌの肩を優しく掴むと、エリックは彼女の耳元で低く囁いた。
「結婚前は、あんなに愛らしく笑いかけてくれたのに。今の貴女は、まるで氷でできた彫像のようだ」
「……殿下、」
「あの笑顔をもう一度、僕に向けてはくれませんか?」
その言葉とともに、エリックの手がそっとセリーヌの頬に伸ばされる。
しかしセリーヌは、その手が触れる前に、躊躇いなく払いのけた。
「困ります」
静かに、しかしはっきりと断言する。
セリーヌの声は、それまでエリックが支配していた空気を裂くように響いた。
「閣下との結婚は、私が選んだ道です。どのような事情があろうと、私は夫婦の誓いを違えるつもりはありません」
それは、皇族を前にしているとは思えぬほど、明確な拒絶だった。
まるで、予想外の反応を受けたかのように、エリックの笑みがわずかに揺らいだ。
「……夫から愛されなくても、ですか?」
「ええ」
セリーヌは臆することなく、真っ直ぐにエリックを見つめる。
その瞳の奥には、静かな炎が宿っていた。
「誰になんと言われようと、私は——絶対に、夫を裏切りません」
セリーヌの宣言に、部屋の空気がピンと張り詰めた。
エリックは何かを言いかけたが、口を閉じ、抑えきれないといった様子で唇の端を上げた。
「……なるほど。よくわかりました」
エリックはセリーヌから離れると、それまでの雰囲気を一変させ、再び人格者の笑みを浮かべた。
「まだ病み上がりですから、これ以上の長居は控えますね」
どうぞご自愛してくださいと言って、エリックはセリーヌから離れると扉の方へと歩き出した。
そして扉に手をかけたところで、ふとセリーヌを振り返る。
「……クロエのそういう強さ、嫌いじゃないよ」
意味深な言葉を残して、今度こそエリックは部屋を出ていった。
扉が閉まる音がして、ようやく緊張から解放されたセリーヌは肩の力を抜いた。大きくため息をつきながら、思わずベッドに座り込んでしまう。
(緊張した……)
あの男は、明らかにセリーヌを試していた。
挑発して感情的にさせることで、ロランへの忠誠、そして妻としての心を観察したかったのだろう。
あの様子からすると、なんとか及第点はもらえたということだろうか。
最後に余計な一言を言われなければ、もっと安心できたというのに。
セリーヌが再び深いため息をつくと、扉の方から微かな物音が聞こえた。
ミシェルが戻ってきたのかと視線を向けると、そこにはなんとロランが立っていた。
ロランは部屋に入るでもなく、ドアノブにかけた手も動かさずに、その場に立ち尽くしている。
冷静な仮面の下に隠された何かが、わずかに揺らいでいた。
(まさか、殿下との会話を聞かれた? おかしなことは言ってないと思うけど……)
セリーヌは思わず、息を止めてロランを観察した。
ロランの表情は硬い。
それでも、ほんのわずかに眉が動き、視線が柔らいだ気がした。
結局、ロランは部屋に入ることなく、何も言わずに扉を閉めて立ち去っていった。
まるでセリーヌの存在を無視しているようなその態度とは裏腹に、ロランの立てた物音は驚くほど静かで穏やかだった。
少しずつ遠ざかっていくロランの足音を聞きながら、セリーヌはそっと目を閉じる。
胸の鼓動が早い。
(……どうして、こんなにも心が乱れるのだろう?)
外では、風が木々を優しく揺らしている。
その音に、自分の心臓の音が紛れてしまえばいいと、セリーヌは馬鹿げたことを考えた。
突然の来訪は終わった。
けれど、エリックが残した言葉も、ロランの沈黙も。
どちらも、セリーヌの心に消えない波紋を残した。




