39.セリーヌ・ド・モンフォール【完】
大聖堂での式を終えた後、祝宴の場は宮殿の広間へと移された。
長テーブルには色とりどりの料理が並べられ、隅では楽師たちが柔らかな調べを奏でていた。帝国中の高位貴族たちが居並ぶ中、笑い声と音楽が混ざり合い、広間は華やかな賑わいに満ちている。
本来参列する予定のなかったヴィクトールにも、皇太子の計らいで席が設けられていた。
祝宴もひとしきり進んだ頃、ヴィクトールがセリーヌの元へとやってきた。
「セリーヌ」
静かに名を呼んだその声は、先ほどまで泣いていたとは思えないほど落ち着いていたが、目はまだ赤かった。
「もし、よければ……一緒にルヴァニアで暮らさないか?」
セリーヌは、ヴィクトールを見上げた。
「これからは、親子として。失った時間を、少しずつ取り戻せたらと思っている」
その言葉は、押しつけがましさのない、穏やかな申し出だった。
それがかえって、セリーヌの胸にじんわりと沁みた。
(お父様……)
まだその呼び方に慣れていない。
それでも、目の前のこの人が自分の父であるという事実は、すでに胸の深いところに根を下ろしていた。
セリーヌはそっと隣を見た。
ロランはヴィクトールとセリーヌのやりとりを、口を挟むことなくただ見守っている。
親子の時間に踏み込むことも、セリーヌの選択を急かすこともしない。
ただ、穏やかに——彼女だけを見つめていた。
その視線が、いつだって背中を押してくれているということに、気付いているのだろうか。
セリーヌはそんなことを考え、ふと笑みを浮かべた。
「……お申し出、心から嬉しく思います」
セリーヌはヴィクトールに向き直ると、穏やかに微笑んだ。
「ですが——私の居場所は、もう夫の隣にあります」
一瞬の沈黙。それを破ったのは、ロランだった。
「セリーヌっ……!」
気づけば、セリーヌの身体がロランの腕の中にあった。
衆人環視であることも、ヴィクトールがすぐそばにいることも、もはや関係なかった。
そのままロランの手がセリーヌの頬を優しく撫で——唇が、重なった。
「ロ、ロラン……っ」
離れた瞬間、セリーヌは真っ赤になって周囲を見回した。
二人のやりとりを見つめていた参列者たちが、好奇心を隠しきれない視線を向けている。
ヴィクトールは一瞬面食らった様子だったが、やがて静かに笑った。
「……なるほど」
その笑みは、紛れもなく父親が浮かべるものだった。
「それでは仕方ない。大公閣下、近いうちに娘に会いにそちらに伺ってもよろしいでしょうか?」
「もちろんです。いつでも、お待ちしています」
ロランが、珍しく少しだけ照れた様子でそう答えた。
その場の空気がようやく和らいだのを感じながら、セリーヌはそっと隣に座るエリックに視線を向けた。
エリックはグラスを片手に、どこかぼんやりとした表情を浮かべていた。
たった一人の妹であるラリサのことが、気に掛かっているのかもしれない。
「……殿下」
セリーヌが声をかけると、エリックはすぐに顔を彼女に向けた。
ふと、柑橘系の香水の香りがして——遠い記憶が蘇る。
公爵邸に居場所はなく、社交界では我儘令嬢と陰口を叩かれ、誰もが自分に悪意を向けていたあの頃。
それでも、エリックのそばにいる時だけは——不思議と、心が安らいだ。
「本当に……ありがとうございました」
セリーヌは万感の思いを込めて、深く頭を下げた。
「殿下がいなければ、今頃どうなっていたか……」
少しの間、沈黙が落ちた。
セリーヌはためらいながらも、続けた。
「それだけではなく……公爵の命令で殿下に近づいていたあの頃、私にはどこにも居場所がなくて。それでも、殿下のそばにいる時だけは、心が安らいでいたんです。あの時のことも、ずっと感謝していました」
セリーヌの思いがけない言葉に、エリックは目を微かに見開いた。
あの時のエリックは、誰であろうと公平に接していただけだった。
誰も冷遇しないことで、誰も特別扱いをしない。それだけのことだった。
まさかそんなことで、セリーヌが救われていただなんて。
「……俺からも礼を言わせてくれ、エリック」
ロランが、静かに一言添えた。
エリックはロランを一瞥すると、肩をすくめた。
「水臭いことを言うな。何年の付き合いだと思ってるんだ」
そして、グラスを持ち上げると、どこか楽しげに口元を緩めた。
「……それにしても、嬉しいな。セリーヌ、君が俺のそばにいると心が安らぎ、ずっと一緒にいたいと思っていてくれていたとは」
「あ、いえ、そこまでは——」
「恥ずかしがらなくても大丈夫だ」
「——エリック」
低い声が割り込んだ。
ロランだった。その目が、明らかに据わっている。
「今すぐその話をやめろ」
「怖い怖い。冗談だよ」
エリックは肩をすくめながら、しかし口元の笑みを隠しもしなかった。
セリーヌは思わず笑みをこぼした。
(本当に、この人は……)
きっと、この人がいなければ、今の自分はなかっただろう。
そう思うと、胸の奥がじんわりと温かくなった。
◇◇◇
それから、事態は速やかに動いた。
トムの余罪は、芋づる式に明らかになっていった。
人身売買はもちろんのこと、公爵家の莫大な資産の出処もまた、長年にわたる違法な取引によって築かれたものであることが次々と露見した。
爵位の剥奪と、人身売買の罪による投獄。
長年セリーヌを虐げ、支配してきた男の末路としては、あまりにも呆気ないものだった。
レオンもまた、すべてを失った。
しかし、高いプライドが邪魔をして、労働を選ぶことはできなかったらしい。
すべてを拒絶し、食事もとらずに緩やかな自死を選んだという。
セリーヌはその知らせを聞いた時、怒りも、喜びも、特に何も感じなかった。
ただ——もう自分を苦しめたあの場所はなくなったのだと、静かに思っただけだった。
ラリサの末路もまた、残酷なものだった。
結婚式での醜態は瞬く間に帝国内外に広まり、「女神」と崇められていた皇女の仮面は完全に砕け散った。
かつては帝国中から慕われた彼女の名に、今や人々が向けるのは恐れと軽蔑だった。
皇帝が決定した輿入れの相手は、他国の年老いた第三王子だった。
政治的利益は大きいものの、その男は度重なる近親婚により、二目と見れぬ容貌であるという。
それはかつて、セリーヌが覚悟していた未来だった。
そんな未来が巡り巡って、ラリサのもとへと訪れたのだ。
だから二度とラリサと顔を合わせることはない、とロランから聞かされ、セリーヌはふと気になっていたことを尋ねてみることにした。
「バルドーという奴隷商人のことですが……あの人は、どうなったんですか」
ラリサが大聖堂で“ロランがすべて始末した”と叫んでいたことが、ずっと心の片隅に引っかかっていた。
「安心してくれ。殺してはいない」
どこか強張った表情のセリーヌを安心させるように、ロランはいつものように甘く微笑んでから言った。
「秘密裏に幽閉していたが、大聖堂での騒動の後、奴隷売渡証書とともに衛兵に引き渡した。今頃はしかるべき裁きを受けているだろう」
じっとその言葉を聞いていたセリーヌは、ロランの真意を確かめるように疑問を口にした。
「……殺そうと、思いませんでしたか」
ロランは短く息を吐いた。
「思った」
その一言は、あっさりとしていた。
しかしその奥に、消えない怒りが潜んでいるのをセリーヌは感じた。
「でも、やめた」
「それは、なぜですか?」
ロランはセリーヌを見ると、どこか決まり悪そうに視線を逸らした。
「君が……嫌がると思ったから」
その言葉に拍子抜けしたセリーヌは、思わず小さく笑った。
ロランがどこか子供っぽく拗ねたような顔で、セリーヌを見つめる。
「笑いたければ笑うといいさ」
「ごめんなさい。でも……ありがとうございます」
セリーヌは穏やかに微笑んだ。
「私の気持ちを、考えてくれたんですね」
ロランは答えず、黙ってセリーヌを抱き寄せた。
その耳がわずかに赤くなっているのを見つけ、セリーヌは音もなく笑った。
◇◇◇
皇太子の結婚式から、いくらかの時間が流れたある日。
春の光が、大公邸の庭園を柔らかく照らしていた。
今日、セリーヌとロランは改めて結婚式を挙げる。
小さな式だった。
招待したのは、本当に大切な人たちだけ。
鏡の前に立ったセリーヌは、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「……本当に綺麗です、セリーヌ様」
ミシェルが、瞳を潤ませながら言った。
その手は丁寧に、セリーヌのベールを整えている。
「泣かないでちょうだい、ミシェル。あなたが泣いたら、私まで——」
「だって……だって……!」
ミシェルは堪えきれず、ハンカチで目元を押さえた。
「本当に良かったです、セリーヌ様……!」
セリーヌは微笑むと、ミシェルの手をそっと握った。
「ありがとう。あなたがいてくれたから、ここまで来られたのよ」
扉の向こうから、ステラの声が聞こえてきた。
「セリーヌ、そろそろ時間よ!」
その気安い呼びかけに、セリーヌは思わず笑みをこぼした。
「……行きましょう」
◇◇◇
バージンロードの先に、ロランが立っていた。
あの結婚式の日と同じように、セリーヌは背筋を伸ばして歩いた。
しかしあの日とは決定的に違い——幸せになるために歩いていた。
愛しくてたまらないという眼差しを向けてくる、新郎の元へ。
参列席には、ミシェルとステラが並んで座っていた。
二人ともすでに泣いている。
エリックは、最前列に座っていた。
その表情には、どこか寂しげな色も確かに混じっていたが——それ以上に、温かかった。
そして、ヴィクトールが、エリックの隣に座っている。
娘の晴れ姿を目に焼き付けようとするように、真剣な眼差しでセリーヌを見つめている。
その目がじわりと潤んだのを、セリーヌは見逃さなかった。
(泣かないで、お父様)
そう思ったら、自分の目も熱くなった。
ロランの元へたどり着くと、彼はセリーヌをまっすぐに見つめた。
その赤い瞳は、あの結婚式の日とはまるで違う色をしていた。
「……本当に、綺麗だ」
小さく、噛み締めるようにロランが言った。
司祭が、厳かに言葉を紡ぎ始める。
誓いの言葉が、春の光の中に溶けていく。
セリーヌは誓った。
クロエ・フォークナーとしてではなく。セリーヌ・ド・モンフォールとして。
ロランもまた、真剣な顔で誓った。
そして、誓いのキスをした瞬間。
ミシェルとステラの泣き声が、盛大に響いた。
「おめでとうございます……!」
「セリーヌ……!」
エリックは苦笑しながら、静かに拍手をした。
ヴィクトールは立ち上がり、涙を拭うことも忘れて二人を見つめていた。
セリーヌはロランの胸に額を預けながら、そっと目を閉じた。
孤児院の薄暗い部屋で、誰にも届かない問いを繰り返していた夜のことを思う。
公爵家の冷たい石畳の上で、ただ嵐が過ぎるのを待っていた日々のことを思う。
あのすべてがあったから、今ここにいる。
「セリーヌ」
ロランが、耳元で囁いた。
「愛してる」
セリーヌは顔を上げると、泣き笑いのような表情でロランを見つめた。
「私も、愛しています」
春の光が、二人を優しく包み込んでいた。
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