29.娼婦の娘
その日、ラリサは上機嫌だった。
なぜなら、ロランが呼び出しに応じてくれたからだ。
(これでついに、あの女を抹殺できる!)
乱れてもいない髪を何度も整えながら、ラリサの頭にあるのはロランのことばかりだった。
あの冷たく整った美貌を持つ男が、自分だけに柔和な態度をとってくれる特権。
それをようやく取り返すことができるのだ。
ラリサは机の上に裏返しで置かれた、一枚の肖像画に視線を向けると、抑え切れない笑みを浮かべた。
程なくして、扉の外から控えめな声が響いた。
「大公閣下をお連れいたしました」
「通して」
ラリサは急いで立ち上がると、入室したロランの前まで弾むような足取りでかけていく。
「ロラン! 急に呼び出しちゃって、ごめんなさい」
「構わない。それで、至急伝えたいこととは?」
耳障りのいい、低く落ち着いたロランの声音。
いつもと変わらない態度。
その様子に、ラリサの胸はいっそう弾んだ。
「ロラン、聞いて……あなたにどうしても見せたいものがあるの」
内心の高揚を上手に隠し、神妙な表情を作ると、ラリサは机の上で肖像画を表に返して見せた。
そして、そこに現れた美しい女の肖像画を、どこか誇らしげに指でなぞって問う。
「この女性、誰だか分かる?」
ロランは視線を落とすと、無言で肖像画を見つめている。
その表情から思考を読み取ることはできなかったが、ラリサは勝利を確信していた。
「これは、クロエ・フォークナーと名乗っている女の母親よ」
ラリサはこぼれそうになる笑みを、息を止めることでなんとかこらえる。
そして、身を乗り出すとやや早口でまくし立てた。
「彼女は娼婦の娘だったの。本当は公爵令嬢でも何でもない、ただの詐欺師。あなたは騙されていたのよ」
「……」
「可哀想なロラン……」
甘やかな声音で、同情するように続ける。
「死んだ公女の代わりに、孤児を拾ってすり替えたって、公爵が言っていたわ。彼女はロランだけじゃなくて、帝国中を欺いた偽物だったのよ」
ロランはしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと視線を上げる。
ラリサの予想を裏切り、その目には、怒りも動揺もなかった。
ただ、冷たい理性だけがある。
「……たかが顔が似ている程度で決めつけるのは、いくら皇女といえど許されないぞ」
ロランの肩に触れようと伸ばされていたラリサの手が、ぴたりと止まる。
「えっ……?」
「だいたい、彼女が偽物だというのなら、本物の公女はどこにいる?」
「だからっ……死んだから替え玉を据えたって言っているでしょう!?」
苛立ちを滲ませた声。
しかしロランは、淡々としている。
「話にならないな」
ラリサの苛立ちを無視して、ロランはきっぱりと断じた。
「なぜ死んだ公女の代わりをわざわざ据えるなど、リスクの高いことをする必要が?」
「そ、それは……」
ラリサは言葉に詰まってしまった。
公爵がなにを思って娘の代用品を受け入れたのかなんて、そんなどうでも良いこと、考えてもみなかったからだ。
「相手はこの国の高位貴族だ。敬意を払うべき相手だろう。確証のないことを、無闇に吹聴すべきではない」
ラリサは目を見開いた。
まるで予想もしていなかったロランの態度に、言葉を失う。
「……ロラン?」
「この話は、ここだけにしておけ」
ロランはため息まじりに、静かに告げる。
「お前にとって不利益にならないよう、この肖像画は俺が処分しておく。だから、もうこのことは忘れろ」
その声には、微かな苛立ちが含まれている。
ラリサはしばらく立ち尽くしていたが、やがて唇を噛みしめ、肖像画を持って部屋を出ていくロランの背中を睨みつけた。
◇◇◇
大公邸、執務室。
ロランはゆっくりと椅子にもたれた。
そして、机の上に置いた肖像画に視線を落とす。
「……よくここまで辿り着いたな」
小さく、呟いた。
この肖像画を見せられた時、内心、ひどく驚いた。
孤児院に関する記録は、ほぼすべて処分していたはずだった。
あれほど痕跡を消したというのに、母親にまで辿り着くとは。
(おぞましいほどの執念だな……)
肖像画を手に取り、じっと見つめる。
確かに、セリーヌによく似ていた。
輪郭、目元、微笑み方。
違うのは髪色だけ。
(……娼婦、か)
もしそうなら、父親を特定するのは難しい。
ラリサといえど、そこまでは辿り着けまい。
だが、その時。
ロランの脳裏に、ふとある記述がよぎった。
以前、何かの資料で目にした一文。
隣国の、あのアッシュブロンドの髪を持つ排他的な名家。
その嫡男が、一時期、公爵領の隣にある帝国貴族の寄宿学校へ留学していたという記録があったはずだ。
その前例のない行動に、驚いたのをよく覚えている。
たしか年代は——
セリーヌの推定年齢から割り出せる出生時期と、ほぼ一致する。
「……まさか」
ロランは目を細めた。
偶然にしては、出来すぎている。
「……調べさせるか」
ロランは低く呟くと、再び肖像画の女性に視線を落とした。
◇◇◇
その日の夜。
セリーヌは寝室のベッドに腰掛け、本を開いていたが、ページは一向に進まなかった。
——愛している。
数日前のロランの言葉が、何度も胸の中で反芻される。
思い出すたびに、顔が熱くなってしまうのだ。
おかげでここ数日、ロランの顔がまともに見れずにいた。
本を置いて両手で顔を覆っていると、突然ノックの音が部屋に響き、びくりと肩が跳ねた。
「セリーヌ、入ってもいいか」
ロランの声だ。
「は、はい」
扉が開くと、そこには就寝前で、少しラフな格好をしたロランがいた。
姿を見ただけで、心臓がうるさくなる。
ロランはどこか機嫌がよさそうで、柔らかな微笑みを浮かべていた。
「どうかされましたか?」
「いや。君の顔が見たくなった」
あまりにも自然に言われ、セリーヌは言葉を失う。
「そ、そんな理由で……?」
「俺にとっては十分すぎる理由だ」
迷いのない即答。
ロランはゆっくりと近づき、セリーヌの隣に腰を下ろした。
距離が、近い。
無意識に身体を強張らせたセリーヌを見て、ロランは小さく笑った。
「まだ緊張するのか」
「だ、だって……」
あの日のことを思い出してしまう。
あの真剣な眼差しと、真っ直ぐな告白。
視線を逸らすと、ロランの手がそっと伸びてきて、セリーヌの指先に触れる寸前で止まる。
「触れてもいいだろうか?」
「っ……ロラン様」
「嫌か?」
静かな問いかけ。
セリーヌは、ふるふると首を振った。
するとロランは満足そうに微笑み、そっと絡め取るように、指を重ねる。
「俺は、君の優しさに甘えてばかりだな」
「え……?」
「君に証明すると言ったばかりなのに……どうしても君に触れたくてたまらなくなるんだ」
真面目な顔で言われ、セリーヌは頬が熱を持っていくのを感じた。
「そ、そんな……このくらいなら、別に……」
「そうか。では、遠慮なく」
するりと、セリーヌの身体を引き寄せる。
気づいたときには、ロランの肩に頬が触れるほどの距離になっていた。
鼓動が早すぎて、息が浅くなる。
「セリーヌ」
低く呼ばれる。
「はい……」
「君は本当に可愛いな」
さらりと告げられ、セリーヌは顔を真っ赤にした。
「な、なにを急に……!」
「事実を言っただけだ」
ロランは愉快そうに目を細める。
「君を愛していると自覚してから、どうも思ったことがそのまま口に出てしまうようになったな」
「そこは自重してください……!」
抗議するセリーヌの頭に、優しくロランの手が触れる。
そのまま優しく撫でられ、セリーヌは完全に思考が止まってしまった。
「……君にプレゼントがある。三日後の午前中に、少し時間をくれないか?」
「それは大丈夫ですけど……プ、プレゼント……?」
至近距離から見つめられ、セリーヌは羞恥心から潤んだ瞳でロランを見上げる。
そんな彼女に優しく微笑みかけると、ロランは目を細めて言った。
「君にとって、きっと悪いものではないはずだ」
ロランの視線が一瞬、どこか遠くに向かう。
しかし、すぐにセリーヌに戻すと、彼女の赤く染まった頬に顔を寄せた。
「でも今は」
耳元で囁く。
「やたらと君に触れたくて仕方がない」
セリーヌの全身が一気に熱を持った。
ロランは拒絶されなかったことに安堵しながら、ゆっくりと離れていく。
「……おやすみ、セリーヌ。いい夢を」
「は、はい……おやすみなさい」
ロランは羞恥に頬を染めるセリーヌを名残惜しげに見つめてから、ゆっくりと部屋を出て行った。
——三日後、独占欲に焼かれ、彼女を閉じ込めたいと願った醜い自分を乗り越え、己の愛を証明する決意を固めながら。




