30.彼女の規範
ロランとの約束の日。
朝から落ち着かず、何度も鏡を見てしまう自分に、セリーヌはひとりで頬を赤らめる。
——プレゼントがある。
三日前、至近距離でそう告げられた時のことを思い出すだけで、胸の奥がじんわりと熱くなる。
あれ以来、ロランは事あるごとに彼女を褒めるのだ。
容姿も、仕草も、言葉遣いも、果ては「存在そのものが愛おしい」などと、到底聞いていられない台詞まで平然と口にするようになってしまった。
(どうして、あんなことを平然と……!)
ロランとの距離感は、以前と確実に変わった。
それが嬉しくないわけではない。
自分だって彼のことが好きなのだ。
だが、恋愛経験のないセリーヌは、一向に慣れることができずにいた。
「あんなこと、言わなければよかったかも……」
セリーヌだって、本当はわかっていた。
ロランとレオンの気持ちが、まったく別のものであることを。
公爵邸で揉み合った際にレオンの瞳に宿っていた、あの粘つくような執着。
あの日、ソファに押し倒された時に向けられたロランの感情とは、まるで違った。
けれど——
あの時、ロランの中に、純粋な愛情以外の何かを感じたことも事実だった。
複雑な心境でため息をつくと、突然、扉をノックする音が響いた。
扉の前に立つ人物に心当たりがあるセリーヌは、びくりと肩を震わせる。
「セリーヌ、入ってもいいか?」
低く穏やかな声。
それだけで、胸の鼓動がうるさくなる。
「は、はい……どうぞ」
扉を開けて現れたロランは、いつも通り整った身なりで、しかしどこか楽しげな表情を浮かべていた。
視線が合った瞬間、彼は柔らかく目を細める。
「おはよう。今日も美しいな」
さらりと告げられ、セリーヌは思わず視線を泳がせた。
「あ、ありがとうございます……」
「その髪飾りもよく似合っている。君の髪の色を引き立てるな」
甘すぎる視線を向けられ、言葉に詰まる。
ロランはもう、隠そうともしない。
先日言っていた通り、思ったことをそのまま口に出しているのが、ありありと伝わってくる。
「そ、それより! 先日おっしゃっていたプレゼントって、一体……」
セリーヌが耐えきれずに話題を変えると、ロランはくすりと笑った。
その笑みの後、ほんの一瞬だけ、彼の表情が引き締まる。
何かを決意するような目。
しかし、その変化にセリーヌが気付く前に、扉の方へ視線を向けた。
「入ってくれ」
その声に応じて、ゆっくりと扉が開かれる。
「……え」
セリーヌは姿を現した人物を認識した瞬間、思考が止まった。
見間違いかと思った。
夢かと思った。
「……ステラ?」
震える声で、ようやく名前を呼ぶ。
そこに現れたのは——大公邸の使用人服を着た、ステラだったのだ。
ステラは、イタズラが成功した子どものような笑顔を浮かべている。
「びっくりした?」
「ステラ!? いったいどうして……?」
混乱するセリーヌに、ステラは嬉しそうに胸を張った。
「調理補助として、この屋敷に置いていただけることになったのよ!」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
セリーヌはただ、瞬きも忘れてステラを見つめる。
数秒遅れて、ようやく事態を飲み込んだ瞬間、瞳に涙がにじんだ。
「この、屋敷に……?」
「うん! 旦那様が、ぜひ私にって声をかけてくださったの」
「そ、そんな……」
セリーヌは、胸の奥が熱くなった。
嬉しさと、申し訳なさ。さまざまな感情が複雑に入り混じる。
「まさか、私が……証明して欲しいなんて言ったから、無理を——」
セリーヌがそう言いかけると、ロランは穏やかに首を振った。
「いや、ちゃんと合理的な理由もある」
「合理的な、理由?」
ロランは真剣な表情で続けた。
「この屋敷にいるスパイが誰かは、大体把握している。だが、それ以外にもいつ新たに使用人があの女に買収され、君に毒を盛らないとも限らない」
その言葉に、セリーヌの背筋に冷たいものが走った。
「だから、君の口に入るものの安全を確保するためにも、信頼できる人物を調理場に置く必要があった。それがたまたま、君の大切な人だっただけだ」
その言葉を聞いたステラは、背筋を伸ばして挙手をした。
「セリーヌ——いえ、奥様のお食事は、私が責任を持ってお守りします!」
“奥様”に向けるには、あまりにも気安いその笑みに、セリーヌもつられて笑みを浮かべる。
「ありがとう、ステラ」
こんなにも心強い存在が、またそばにいてくれる。
その事実に、セリーヌの心が震えた。
「でも奥様はやめ——」
「今日が初日だから、張り切って働いてくるね! “奥様”が毎日美味しいって笑顔になれるように、頑張るから!」
セリーヌの言葉を遮るように宣言すると、ステラはウィンクをして部屋を出ていった。
扉が閉まり、静寂が戻る。
セリーヌはしばらく呆然としていたが、やがてゆっくりとロランを振り返った。
「ロラン様……ありがとうございます、本当に……なんとお礼を言ったらいいのか」
ステラを見つけ出しただけでなく、屋敷での仕事を与えることで、セリーヌの安全を守りながら、同時に喜ばせようとしてくれた。
「でも、どうしてここまで——」
セリーヌは言いかけて、すぐにそれが愚問だと気付く。
(私を愛しているから……)
その事実が胸に染み渡り、セリーヌの頬が一気に熱を帯びた。
そっとロランを見上げると、彼もまたセリーヌを見つめていた。
「君は、自分がどれほど尊い人間なのか、分かっていない」
「え……?」
「過酷な生い立ちにも関わらず、穏やかで、誰にでも優しく……だが、いざとなれば、自分の身の危険も顧みず行動できる強さもある」
ロランの視線は、真っ直ぐにセリーヌだけをとらえている。
セリーヌの顔が赤く染まっていく様子を見て、ロランは柔らかく微笑んだ。
「……まるで、女神のようだと思った」
セリーヌの瞳が、驚きに見開かれる。
「先ほど、ステラを見ていた君の目を見て、ようやく分かった」
「……私の、目?」
「君は、あの人を“女神様のようだ”と言ったそうだな」
たしかに、以前ミシェルにそう話したことがある。
しかし、まさかそれがロランにまで伝わっているとは、思ってもみなかった。
「ええ。ステラは幼い私にとって、まさに女神様でした」
「そうだな。あの時の君の目は、まるで子どものように輝いていた。——きっと君は無意識のうちに、彼女を自分の人生の規範にして生きてきたんだ」
セリーヌは、自分自身ですら気付かなかった胸の内を、見透かされたような気がした。
「俺は今日、君という人間がどうやって形作られたのかを知ることができて、たまらなく嬉しい」
今はただ、セリーヌが愛おしくてたまらない。
触れたい。抱きしめたい。
ロランはそんな感情に突き動かされて伸ばした手を、セリーヌに触れる寸前で止めた。
「……君に触れても、いいだろうか」
ロランが静かに問うと、セリーヌは顔を真っ赤にしたまま、俯いた。
「あの……その」
消え入りそうな声。
「あなたは、私の夫なので——許可を取らなくても……大丈夫、です」
言葉の途中で声が小さくなり、最後は聞き取れないほどになった。
だが、ロランには十分に伝わった。
(……そうか)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
彼女は、羞恥で震えながらも、自分を受け入れようとしてくれている。
その事実にどうしようもないほどの喜びを感じ、ロランはセリーヌをそっと抱きしめた。
「愛してる、セリーヌ」
「っ! そ、それはダメです……! 私の心臓が持ちません!」
白いうなじを真っ赤に染めるセリーヌの姿に、どうしようもないほどの愛おしさを感じる。
先ほど、ステラが現れた時。
ロランは喜びに顔を輝かせるセリーヌを見て、黒い嫉妬が湧くかと思っていた。
だが——
(……大丈夫だった)
確かに羨ましさはある。
だが、それは彼女を縛りたいという歪んだ執着ではなく、自分も彼女にとってそういう存在になりたいという、健全な願いだった。
奪うだけの独占欲ではなく、何かを与えたいという愛。
ロランは、自分の中で何かが確かに変わったことを実感した。
◇◇◇
執務室。
ロランが書類に目を通していると、控えめなノックの音が響いた。
「入れ」
「失礼いたします」
執事が、一冊の資料を手に入室してきた。
「頼まれていた資料をお持ちいたしました」
差し出された資料に、ロランは視線を落とす。
ページをめくるたび、その表情が変わっていった。
「……やはり」
低く呟くロランに、執事が静かに告げた。
「ええ。間違いありません」
執事は一拍置いてから、断言した。
「セリーヌ様はルヴァニア王国の前公爵、ヴィクトール・ド・モンフォール様のご息女でございます」
資料には、時系列に沿った記録が整理されていた。
モンフォール公爵家の嫡男が、帝国の寄宿学校に留学していた時期。
その近くの娼館で、アッシュブロンドの娼婦が出産し、死亡した記録。
そして——孤児院に預けられた、髪色の特徴が一致する女児の存在。
すべてが、一本の線で繋がっていた。
「公爵家は、娘の存在を知っているのか」
ロランの問いに、ジョージは首を振った。
「恐らく、ご存じないかと。ヴィクトール様は、セリーヌ様の母上との関係を秘密にしていたようです」
「……そうか」
ロランは資料を閉じると、深く息を吐いた。
セリーヌには、帝国人の血も流れている。
だが同時に、隣国の名門公爵家の血も流れているのだ。
「この情報は、厳重に管理しろ」
「承知いたしました」
執事が一礼して退室すると、ロランは窓の外に視線を向けた。
(……彼女に、伝えるべきか)
自分に本当の家族がいるのだと知れば、セリーヌは喜ぶだろうか。
それとも——
ロランの脳裏に、ルヴァニア語の書籍を読むセリーヌの姿が浮かんだ。
(もし、彼女が本当の家族を求めて、俺の元を離れたいと願ったら……)
その可能性を考えた瞬間、胸が激しく締め付けられた。
息が詰まり、無意識のうちに拳を握りしめる。
隣国の公爵家令嬢として、ルヴァニアへ渡る彼女。
自分の知らない場所で、自分の知らない人々に囲まれて笑う彼女。
二度と、この手には戻らない。
「……っ」
ロランは机に肘をつくと、両手で顔を覆った。
——その指先は、わずかに震えていた。




