26.あと数センチ
張り詰めた緊張感が、あたりに満ちていた。
ロランの赤い瞳は、怒りと焦燥を孕んだまま、セリーヌだけを射抜いている。
その視線に責める色はない。あるのは、理解できない拒絶を前にした苛立ちと——そして、彼女を失うことへの恐怖だった。
セリーヌは、そっと息を整える。
「……誰かに言われたわけではありません」
震えそうになる声を、必死に押さえ込む。
「私が、そう思っただけです」
ロランの眉がわずかに動いた。
「不相応だ、と?」
「はい」
セリーヌは目を伏せた。
「……私には、不相応です」
次の瞬間。
「違う」
低く、しかし即答だった。
ロランは一歩踏み出し、テーブル越しにセリーヌの頬へと手を伸ばした。
指先が、そっと触れる。
「これはノブレスオブリージュなんかじゃない。身分も、過去も、関係ないんだ」
燃えるような熱を宿した瞳が、間近で彼女を捉える。
「俺が君に価値があると感じている。それだけだ」
その視線に込められた熱に、セリーヌの思考は一瞬、真っ白になった。
「……っ」
体温が上がり、呼吸は浅くなっていく。
触れられているだけなのに、今にも火傷してしまいそうなほど熱い。
ロランの視線は真剣で、揺らぎがなく——逃げ場がなかった。
「君が自分を低く見積もる理由が、俺には理解できない。——君はこんなにも、俺の心を掴んで離さないほど魅力的なのに」
そう言い切ると、ロランはさらにセリーヌに顔を近づけていった。
お互いしか目に入らないほどの、距離。
ロランの親指が、そっとセリーヌの唇をなぞる。
「……っ」
それだけで、これからロランが何をしようとしているのか理解してしまい、セリーヌは思わずぎゅっと目を閉じた。
まつげを震わせ、呼吸すら止めてしまいそうになる。
そんなセリーヌの、ほんの数センチ。
あとほんのひと押しで触れてしまう距離で、ロランは動きを止めた。
熱を帯びた吐息だけが、セリーヌの肌をかすめる。
しばしの沈黙ののち、低く押し殺した声が落ちる。
「……今日は、ここまでにしよう」
そう告げると、ロランはゆっくりと身を引いた。
突然遠ざかっていく体温に、セリーヌは遅れて目を開く。
そこには、平静を装ってはいるものの、明らかに感情を押さえ込んでいる赤い瞳があった。
「これ以上は……止められなくなる」
そう呟くように言い残し、ロランは踵を返す。
食堂を出ていく背中を、セリーヌは呆然と見送ることしかできなかった。
——胸が、苦しい。
微かに指の感触が残る唇を押さえながら、セリーヌはおぼつかない足取りで自室へ戻っていった。
◇◇◇
部屋の扉を閉めた途端、足の力が抜けた。
「……っ」
ベッドに腰を下ろし、深く息を吐く。
あまりにも近かった。
あまりにも、真っ直ぐだった。
(……さすがに、気づいた)
ロランは、自分に好意を抱いている。
それは、もう否定できなかった。
だが——
(でも、それが恋なのかというと……)
セリーヌには、判断がつかなかった。
彼の眼差しは甘いだけではない。
守ると決めたものを囲い込むような、静かな執着と緊張を孕んでいる。
純粋な恋心にしては、どこか仄暗い。
理性の奥に、獣のような衝動を隠しているようにも思えた。
けれど、だからといってそれが何なのかと問われれば、答えられない。
恋を知らない自分には、比較する基準すらなかった。
(ミシェルに……相談したいけど)
ふと浮かぶが、すぐに首を振る。
期間限定の契約結婚。
その前提は、誰にも話してはならない秘密だ。
今さら契約を破ったところでロランが自分に害を成すとは思えない。
それでも、一度交わした約束を違えることはできなかった。
(……これは、ただの夫婦ごっこ)
そう思い出した瞬間、胸がちくりと痛んだ。
期限付きの関係。
終わりが決まっているからこそ、深入りするべきではない。
それなのに——
ロランの言葉と視線、そして体温が、セリーヌの心を強く揺さぶった。
◇◇◇
それから数日後。
セリーヌは、契約終了後の生き方について考え始めていた。
離婚後、自分はどう生きるのか。
以前は、離婚の慰謝料で田舎に家を買い、ひっそりと暮らすつもりだった。
だが今は、どうしてもその選択を取る気にはなれなかった。
(これ以上、一方的に与えられるだけの存在にはなりたくない)
慰謝料は、受け取らないと決めた。
そうなると、先立つものがない自分を支えるのは、知識しかない。
幸い、公爵令嬢として求められる以上の教育を叩き込まれてきた。
礼法、語学、歴史、算術——学だけはある。
そして、鏡に映るアッシュブロンドの髪。
(……隣国のルヴァニア王国なら、目立たない)
そう考えたとき、ひとつの道が浮かんだ。
ルヴァニア王国で、貴族の家庭教師になる。
決して楽ではないだろう。
だが、自分の力で生きる選択肢だった。
セリーヌはミシェルに頼み、ルヴァニア語の書籍を集めてもらった。
「随分本格的に勉強なさるのですね」
「ええ。軽く学んだ程度だから……もっと、きちんと使えるようになりたいの」
机に向かい、発音をなぞり、文法を書き写す。
未来のために勉強する時間は、不思議と心を落ち着かせた。
◇◇◇
「……最近、奥様は領地の歴史のほかに、ルヴァニア語も学びはじめたようです」
執事からの報告に、ロランは眉をひそめた。
「旅行にでも行きたいと?」
「いえ、相変わらず屋敷の中にいることに不満はないようです」
気分転換だろう、と最初は思った。
だが、どこか引っ掛かる。
ルヴァニア語の書籍。
学習の頻度。
そして——彼女の容姿。
ルヴァニアの貴族によく見られる、アッシュブロンドの髪。
(……隣国の血、か)
セリーヌは明らかに、帝国の人間とは異なる特徴を持っている。
彼女のルーツを探るべきか。
一瞬、その考えが頭をよぎった。
だが、すぐに打ち消す。
(たとえ実の親が生きていようと——渡す気などない)
彼女の親が誰であろうと関係ない。
彼女は、自分の妻だ。
——例え、本人がそれを望まなくとも。
◇◇◇
ほどなくして、かねてより噂されていた、皇太子の結婚式の日取りが正式に決まった。
流石にこの規模の国家行事で、大公妃であるセリーヌの欠席は許されない。
重厚な招待状を手に、セリーヌは応接室で一人ため息をついた。
これからエリックも交えて、当日ラリサとセリーヌが直接対面しないよう、対策を話し合うらしい。
(いくら激しい気性の方とはいえ、まさか実の兄の結婚式で何かするとは思えないけど……)
しかも結婚のお相手は、ルヴァニア王国の王女様だ。
何か問題が起これば、国際問題にまで発展しかねない。
この過保護にも思える徹底的な対策も、ロランの自分に対する愛情なのかもしれないと思うと、先日のロランの眼差しを思い出し、一人赤面してしまった。
その時。
帰還が遅れているロランから応接室で待つように言われていると、セリーヌが待つ応接室に現れたのは、エリックだった。
慣れた調子でセリーヌの向いに腰掛けると、エリックはすっかり仮面をかぶることをやめたのか、軽薄な調子で言った。
「先日は驚いたよ。君たち、本当に良い夫婦になったようだ」
その言葉に、セリーヌは曖昧に微笑む。
今は、夫婦という言葉が重い。
「……どうした。浮かない顔をしているぞ」
冗談めかした声が、次第に真剣さを帯びる。
「何かあったのか?」
その問いに、セリーヌはしばらく黙り込んだ。
先日、エリックに感じた不思議なシンパシーが胸をよぎる。
この人は、自分を偽り続ける苦しみを知っている。
そして——決意した。
「……殿下」
「ん?」
「私は、本当は公爵令嬢ではありません」
エリックの表情が、静かに固まった。
「私は……クロエ様の代わりとして育てられた、ただの奴隷のセリーヌです」
その告白は、静かな応接室に、重く落ちた。




