25.女神の責務
——早く、彼に知らせなきゃ。
それは、皇女としての義務であり、女神と崇められる者としての責務だ。
あの穢らわしい奴隷女が、どれほど危険な存在であるか。
哀れなロランに、今すぐ伝えなければならない。
だというのに。
(……でも、証拠がなければ)
彼は、きっと信じない。
あの女は、恐ろしいほどに狡猾だ。
正義の断罪にか弱く涙を流し、巧妙な嘘を吐き、同情を誘う——そういう女だ。
(彼は優しすぎるもの……。きっと、あの奴隷女の涙に騙されるわ)
しかもラリサの父である皇帝は、ロランをいたく気に入っている。
いくら自分が訴えたところで、確かな証拠がなければ、きっとロランの意志に反するようなことはしてくれないだろう。
「こ、皇女殿下……」
思考の海に沈んでいたラリサを引き戻したのは、彼女の豹変ぶりに慄いていたトムだった。
「何か?」
「その、あの女を抹殺すれば……奴隷売買の件が露見することはない、ですよね?」
恐る恐る言葉を紡ぐトムを、ラリサは内心で冷めた眼差しを向ける。
ラリサにとって大事なのは、ロランの心を取り戻すこと。
この男の進退など、つゆほどの興味もないのだ。
しかし、抹殺する前に、あの卑しい女が奴隷であることをロランに知らしめる必要がある。
そのためには、この男の協力がまだ必要だ。
ラリサはゆっくりと口角を上げると、いつもの清らかな笑みを浮かべる。
「安心なさい。私が、キレイに処理してあげるわ」
花が咲くような、美しい笑顔。
「だから——証拠を渡しなさい。あの女が奴隷だっていう、確かな証拠を」
「そ、それが……」
トムは唇を噛み、視線を泳がせる。
しかしラリサの圧に負け、ゆっくりと重い口を開いた。
「……盗まれたのです。あの女に、奴隷売買に関する書類を」
トムの告白を聞くなり、ラリサの表情が凍りついた。
「……は?」
次の瞬間、鬼の形相でトムを睨みつける。
「あなた……証明もできない話を、私にしたの?」
「も、申し訳ありません! で、ですが! 奴隷商人が、同じ内容の書類を必ず持っております! 取引の証として……!」
「……その男の名前は?」
「バルドーという男で……み、南区の裏通りに……!」
震える声で告げられた名と場所。
ラリサは一瞬だけ視線を伏せて頭に刻み込むと、すぐに立ち上がった。
「私がなんとかするわ。……貴方は、何もしないで」
宮殿に戻ったラリサの命令は、冷酷なものだった。
——必ず証拠を持って帰ること。男の生死は問わない。
◇◇◇
数日後。
ラリサは自室で、優雅に刺繍をしていた。
白い布地に浮かぶのは、大公家の家紋——大きな翼を力強く広げた、グリフィンだ。
針を進めるたびに、絹糸が光を反射して、美しく煌めく。
その輝きに、近いうちに訪れるはずの未来が重なって見える。
「あともう少し。……ふふふっ」
刺しかけの刺繍を胸に抱いて、ラリサが幸福のため息をついた、その時。
青い顔をした使用人が戻ってきた。
「……ご報告いたします、殿下。バルドーの店は確かに南区にありましたが……先日、何者かに殺害されておりました」
部屋の温度が一気に下がり、ラリサの強い眼差しを受けた使用人は、大袈裟なほど肩を震わせた。
「……殺された?」
「は、はい。店に火が放たれたようで、中には男の焼死体が一体。商売に関わる書類も、すべて焼失しておりました。周囲の証言から、怨恨による犯行の可能性が高いかと……」
——ロラン。
その名が、ラリサの脳裏をよぎる。
「まさか、あの女のために……そこまで?」
受け入れがたい現実に手が震え、刺繍が軽い音を立てて床に落ちる。
「どいつも……こいつも……!」
次の瞬間、ラリサの怒りは、理性を焼き尽くした。
手元にあった裁ちバサミを勢いよく掴むと、使用人に向かって振り下ろす。
突然の出来事に固まる使用人の右目に、ハサミが深々と突き刺さった。
「——あ、ああああっ!!」
「バルドーがダメなら、仕入れ元の孤児院周辺を調べればいいじゃない! この愚図!」
使用人は悲鳴を上げながら崩れ落ちると、目元を押さえてうずくまった。
しかし、そんなことは気にも留めず、ラリサは親指の爪を噛みながら呟いた。
「あの奴隷がどこから来たのか……必ず痕跡があるはずよ」
床に落ちたグリフィンの翼は、赤黒く汚れていた。
◇◇◇
一方、大公邸では。
あの日——奴隷であると告白して以来。
ロランの態度が日を追うごとに甘くなっていることに、セリーヌは戸惑っていた。
寝室こそ相変わらず別ではあるものの。
忙しい執務の合間を縫い、食事の時間を合わせてくれるようになり。
ことあるごとにセリーヌに触れる指先は、熱く、優しい。
まるで繊細な宝物を扱うようなその視線に、セリーヌは落ちつかなった。
「……どうして、こんな……」
するとそんなセリーヌの元へ、ミシェルがどこか興奮した様子でやってきた。
そしてセリーヌを見るなり、嬉しそうに口を開いた。
「複数の使用人が……先日、コンサバトリーでお二人がキスしているのを見たそうです!」
「えっ!?」
「なんで教えてくれなかったんですか! お祝いを——」
「ご、誤解よ!」
まさかの誤報に、セリーヌは思わずミシェルの声を遮った。
(あの時だわ……イヤリングを贈ると言ってくれた時……)
通りでここ数日、執事長が微笑ましげな視線を向けてきたわけだ。
セリーヌは顔を真っ赤に染め上げると、心の中で悲鳴をあげた。
(どうしよう……この話、ロラン様は知ってるのかしら?)
◇◇◇
その日の夕食でロランは、デザートを口に運ぶセリーヌの姿を、テーブルの向かい側から熱心に見つめていた。
——最近は、いつもそうだ。
セリーヌが以前「好き」だと言ったものを食べている間、ロランは自分の手を止め、ただ静かに彼女を見つめてくる。
その視線には、喜びと、安堵と、それからどこか満たされたような色を感じる。
その時、セリーヌの頭に、ひとつの仮説が浮かんだ。
(……もしかしたら)
ロランのその嬉しそうな表情は、恵まれない出自の自分に、好きなものを食べさせてやりたい——そんな慈悲の心から生まれているのではないだろうか。
そう考えると、これまでの彼の態度も、すべて腑に落ちる。
自分が孤児院に寄付をすることで救われているように、ロランもまた、自分に施しを与えることで、満たされない何かを埋めているのかもしれない。
その優しさが偽りでないことは、痛いほど伝わってくる。
だからこそ——ほろ苦さも感じてしまう。
彼から欲しいものは、同情でも、慈悲でもない。
(……彼から、これ以上何かを与えてもらうなんてできない)
施されるだけの存在で終わりたくないから。
可哀想な奴隷としてではなく、一人の対等な女性として、心から求められたい。
だから、この無条件の“慈悲”に甘えたくはないのだ。
意を決し、セリーヌは口を開いた。
「ロラン様」
声は震えなかった。
胸の奥を締め付ける感情は抑え込み、言葉を選びながら、セリーヌは告げた。
「いくら私が奴隷だったからといって、貴族の義務でここまでお気遣いいただく必要はありません」
その言葉に、ロランの動きがピタリと止まった。
人払いのされた食堂に、沈黙が落ちる。
「……義務?」
低く、抑えた声。
セリーヌへの愛おしさで満ちていたロランの心が、一瞬で暗い猜疑心に塗りつぶされていく。
(まさか、俺が同情で彼女を囲っているなどど、薄汚い言葉を吹き込まれたのか)
赤の瞳が、怒りを帯びてセリーヌを射抜いた。
「……一体、誰が」
ぎり、とロランの拳が握り締められる。
「君に、そんなことを吹き込んだ?」
あえて冷遇していた時とは明らかに違う、これまで見たことのない、ロランの本物の怒り。
その威圧感に、セリーヌは思わず息を呑む。
そんな小さな音が、静まり返った空間で不自然なほど大きく聞こえた。




