24.露見した真実
応接室の空気は、張りつめていた。
「——ラリサは、もはや“女神”を装いきれない段階に入っている」
淡々と告げるエリックの声が、静かな部屋に落ちる。
セリーヌと並んでソファに座っているロランは、表情を変えることなく頷いた。
「予想通りだな」
短く返された声は、あまりにも冷静だった。
その隣にいるセリーヌは、物事が大きく動く予感に、思わず背筋を伸ばす。
「近頃は使用人への当たりも強く、感情の起伏も隠しきれていない。……社交界ではまだかろうじて取り繕ってはいるが、そろそろ限界だろうな」
「他国への輿入れが目前に迫っている上に、俺とセリーヌの関係も、帝国中に広まりつつある。……己の思い通りにいかないことが多すぎて、耐えきれなくなったんだろう」
ロランの冷静な分析に、セリーヌは息を呑んだ。
それに引き換え自分は、己の名がこうして感情の引き金として語られていることにすら、まだ慣れない。
「流石に——」
エリックが低く吐き捨てる。
「隠しきれないほどの失態を犯せば、いくら腰の重い父上でも、動かざるを得なくなるだろうな」
その瞬間だった。
エリックの冷えきった憎悪と、長年積もった諦念が混じる瞳。
それを初めて目の当たりにし、セリーヌの心はざわめいた。
(この人は私とどこか似ているようで……まったく違う)
胸の奥が、ちくりと痛む。
きっとエリックは、求めていた愛情を家族から得ることができなかったのだろう。
そして、その寂しさを押し殺し、偽りの自分を演じ続けてきた。
それでも、彼にはロランがいた。
この二人は、同じ時間をずっと共有してきたのだ。
高貴な血を継ぎ、その責任と重圧の中で、互いの弱さも醜さも知り尽くした関係。
そこには、誰も踏み込むことができない絆がある。
それを、ほんの少しだけ、羨ましいと思ってしまった。
後ろめたさを感じたセリーヌは、そっと自分の手を握りしめて気持ちを誤魔化そうとした。
ロランはそんなセリーヌのわずかな動きを見逃さなかったが、セリーヌの揺らぎを恐怖ゆえのものだと考えた。
「ここにいれば、君は安全だ」
ロランの真っ直ぐな眼差しが、セリーヌに向けられる。
「あの女は感情的になり、より強引な手に出るだろうが——君は、安心してここにいればいい」
力強く励ましの言葉をくれるロランに、セリーヌは罪悪感からいたたまれなくなり、小さく頷くことしかできなかった。
「では、引き続き監視を」
「ああ。……クロエ嬢、困ったことがあったら、いつでも相談に乗りますよ」
セリーヌに柔和な笑みを向けるエリックをロランが追い払うと、セリーヌはロランと二人きりになった。
しんと静まり返った空間で、ロランはセリーヌの様子を注意深く見つめた。
「……少し気分転換をしないか。コンサバトリーにお茶を用意させる」
「はい……」
そう答えながらも、セリーヌの心はまだ落ち着かずにいた。
◇◇◇
温室に満ちる柔らかな午後の光と、花の香り。
ガラス越しの日差しに包まれながら向かい合って座っても、セリーヌはどこか上の空だった。
そんなセリーヌの様子に、ロランは人払いを済ませると眉を下げた。
「……すまなかった」
「え……?」
「不安を減らすために同席してもらったが、結果的に怖い思いをさせてしまった」
それはロランにしては珍しく、弱々しい声だった。
「君に関わる話だから、知る権利があると思った。だが……やはり負担だったな」
まるで叱られた子どものように、少ししょんぼりとしたロランの様子に、セリーヌは慌てて首を振った。
「ち、違うんです! 怖かったわけではなくて……ただ……」
言葉を探すため、視線を落とす。
本音を言うのは、少し怖い。
しかし、ここまで自分を思いやってくれる人に嘘はつけないと、セリーヌは意を決して口を開いた。
「ロラン様と殿下の間に、その……特別な絆を感じて……少し、圧倒されてしまっただけです」
あまりにも場違いな感情だという自覚があったセリーヌは、言い終わると同時に、俯いてしまう。
静寂が、あまりにも耳に痛かった。
ロランはセリーヌの思いがけない告白に、目を見開いた。
やがて、耳元をわずかに赤く染めると、誤魔化すように低く咳払いをした。
「……そうか」
またしても失敗してしまったと、後悔でいっぱいになっていたロランの心に、一転して喜びが広がる。
セリーヌが、親しげな自分とエリックの関係に、何かを感じたこと。
それが、嫉妬に近い感情であったこと。
こんなにも清らかな人が、自分のことで心を乱してくれた。
それが、たまらなく愛おしい。
「あいつとは、親の代からの腐れ縁に過ぎない。だが……配慮が足りなかった。すまない」
ロランは緩みそうになる顔を引き締めてそう言ったが、その表情は喜びを隠しきれていない。
セリーヌにはなぜロランが喜んでいるのか分からなかった。
しかし、自分が隠したいと思っていた感情を伝えても、ロランは受け止めてくれる。
その事実に、セリーヌの心が温かくなった。
「そんな……ロラン様が謝ることなど一つもありません」
日に日に縮まっていくように感じるロランとの距離を測りかね、セリーヌの指は無意識のうちに、首元のネックレスに触れていた。
「そのネックレス……つけてくれているのだな」
「は、はい。とても綺麗で……大切にしています」
物欲がないセリーヌだが、ロランから初めて贈られたそれは特別な宝物だった。
セリーヌの動きに合わせて、陽光を浴びたレッドダイヤモンドが静かに煌めく。
「なら——次は、同じ石のイヤリングを贈らせてほしい」
そう言って、ロランはそっとセリーヌの髪を耳にかけた。
ロランの指先が微かに首筋に触れ、セリーヌの心臓が跳ね上がる。
「……あ」
「きっと君によく似合うだろう」
吐息が触れるほどの距離で微笑まれ、セリーヌの頬は一気に熱を帯びた。
◇◇◇
ラリサは激しく苛立っていた。
調査は進展なし。
いまだにセリーヌの過去も、弱点も、何一つ掴めない。
入ってくる報告といえば——
「……ドレスを一度に数十着? 宝石職人まで集めた?」
報告を聞いた瞬間、ラリサの手から紅茶のカップが滑り落ちた。
こぼれた紅茶がドレスを汚してしまったことを気にする余裕もなく、呆然と呟く。
「それに……人払いした温室でキスしてたですって……?」
これ以上近づかれれば、本当に奪われる。
本当にロランは、自分の元へ戻らなくなる。
その恐怖が、ラリサを突き動かした。
「……ちょっと出かけてくるわね」
◇◇◇
「ごきげんよう。少しよろしいかしら?」
かつてと同じ、有無を言わせぬ声音。
通される許可も待たず、慌てる執事を無視したラリサは、優雅に公爵邸の応接室へ足を踏み入れた。
「こ、皇女殿下……護衛も連れずに一体……?」
トムは、ラリサの突然の来訪に動揺を隠しきれなかった。
(まさか……あの女、奴隷売買の件を皇族に!?)
後ろめたさからしどろもどろになるトムに、ラリサはにこやかな微笑みを向けた。
「ぜひ、もっとクロエと仲良くなりたいと思いまして」
扇子を口元に添え、柔らかく首を傾げた。
「とっておきの贈り物を考えているの。サプライズで選びたいから、ご家族しか知らないようなことを、少し教えていただける?
「え……?」
戸惑うトムを無視して、ラリサは捲し立てた。
「クロエの趣味とか、好きなもの。幼い頃はどこで遊んでいたとか、些細なことでもいいから、彼女のことならなんでも知りたいわ」
それらは、子どもの親であれば苦もなく答えられるような質問だ。
だがトムは言葉につまり、額には冷や汗が浮かんでくる。
「そ、そうですね。あの子はとにかく新しいドレスや宝石に目がなくて、私も散々買わされましたよ。ははは……」
トムの言葉に、ラリサの手の中の扇子がみしりと悲鳴を上げた。
この男に対するおねだりが、そのままロランに向けられているのだと考えると、虫唾が走る。
しかし、知りたいのはそんな表面的な情報ではない。
もっとクロエという人間の内面に踏み込んだものだ。
「クロエはいつも最新のドレスを着ていたものね。では逆に、苦手なものは何かしら? 嫌われたくないから、事前に知っておきたいわ」
「そ、それは……虫、ですかね」
なんとか答えを絞り出したが、それ以上は言葉が続かなかった。
セリーヌどころか、実の娘であるクロエのことですら、まともに見ようともしなかったのだ。
そんなトムが、もっともらしいエピソードなどを語れるわけもなかった。
ラリサはトムの答えに、片眉を上げた。
(……あら?)
溺愛している娘の話だ。どうでもいいことを、長々と話されるであろうことは覚悟していた。
しかし実際には、トムはぼんやりとしたことを最低限語るだけで、具体的なクロエの人物像が見えてこない。
ラリサは、トムの態度に見覚えがあった。
自分の父親と同じなのだ。
娘への無関心ゆえに、好きなものを尋ねられても答えられず、しどろもどろになって取り繕おうとする。
トムの隠された一面を見抜き、ラリサの瞳が獲物を狙うヘビのように光った。
「……クロエと仲良くなりたいと思っていたけど、こうしてお話ししているうちに——貴方の方に興味が湧いてきましたわ」
微笑みは依然柔らかいままなのに、空気だけがなぜか冷たく感じる。
ラリサの底知れぬ恐ろしさに、トムの喉が鳴った。
「何か、人には言えない事情があるのでしょう? 何か困っていることがあるのなら、教えてちょうだい」
その一言に、トムの心臓が跳ねた。
みすみす致命的な書類を盗まれたこと。
長男が奴隷に心を奪われていること。
そして——大公家の不自然なほどの沈黙。
致命的な場面を見られてしまったにも関わらず、沈黙を貫くロランがかえって不気味で、トムの神経を限界まですり減らしていた。
自分の甘言にトムの心が傾いたことを確信し、ラリサは囁く。
「私が力になるわ。皇女の私にできないことなど、ありませんもの」
優雅に扇子を広げ、口元を隠したラリサは、意味深にトムの瞳を覗き込む。
「そう。私は何をしたって許されるのよ。——たとえ、大公夫人を殺したとしても」
扇子で隠しきれないほど、悪意に満ちた笑み。
その笑みを見た瞬間、トムの理性は完全に崩れた。
「ほ、本当に……あの女を殺していただけますか……?」
「ええ、もちろんよ」
まるで神を見たかのようなトムの反応に、ラリサは満足げな笑みを浮かべて肯定した。
すると、トムは途端に吐き出すように叫んだ。
「あの女は……私の娘ではない! 本物のクロエは、幼い頃に死んだ!! ……あれは、買ってきただけの、ただの奴隷なんです……」
「……奴隷?」
ラリサは理解できないと言ったように聞き返すと、瞬きを忘れたようにトムを見つめた。
そして、次の瞬間——
「ふふ……ふ、あははははは!!」
狂気じみた笑い声が、応接室に響き渡った。
「最高だわ! 傑作よ!! 市井の家畜風情が――大公夫人のふりをしていたなんて!」
ラリサはそう叫ぶと、腹を抱えて笑いながら、涙を浮かべた。
歪んだ瞳が、歓喜に染まっている。
身体の奥底から湧き上がる愉悦を噛み締め、勝利を確信する。
「ついに……ついに見つけたわ」
女神の仮面は、完全に砕け散っていた。




