21.溺愛と執着の片鱗
冷遇されていると思われていた大公夫人が、実は溺愛されていた——
そんな噂は、まるで羽でも生えたかのように帝都中を駆け巡り、瞬く間に大公邸にまで届いていた。
いつの間にか、ロランの「可愛い妻」発言に尾ひれがつき、「長年の片思いの末の結婚」だの、「一秒たりとも離れたくないらしい」だの、果ては「大公邸では地面に足もつかせないほどの溺愛ぶり」といった噂にまで発展しているらしい。
「……どうして、こんなことに……」
机の上に積み上げられた手紙の束を前に、セリーヌは両手で顔を覆った。
手紙の差出人は、かつてセリーヌの“親友”を名乗っていた、取り巻きの令嬢たちだった。
皇女の恋人と結婚したと知った途端に、ぴたりと音信不通になった者ばかりだ。
それが今では、まるで何もなかったかのように、こぞって親しげな文面を送りつけてくるのだ。
(……ずいぶん簡単に態度を変えるのね)
内容はみんな同じだ。流行りのゴシップとセリーヌへの賞賛、そしてロランとの関係の詮索。
“閣下に帝国一大きなダイヤの首飾りをいただいたというお話は、本当なのかしら?”
“あの理性的な閣下が、貴女にはとろけるような熱い眼差しを向けるそうね”
最低限の礼儀として目を通してはいるが、読み進めるほど、胸の奥がむず痒くなるものばかりだ。
「穴があったら入りたい……」
セリーヌは恥ずかしさと居心地の悪さに、思わず小さく呻く。
(これまでとはやり方を変えるとは、聞いていたけど……まさか、こんなことになるなんて……!)
——そんな噂が生まれる前日のことだった。
セリーヌは人払いがされた部屋で、ロランと初めて朝食をともにした。
長いテーブルの向かい側に座るロランの存在に違和感を覚え、セリーヌはどこか所在なさげに視線を彷徨わせる。
すべてを打ち明けてから、初めての対面だ。
セリーヌは胸の奥が妙にざわつき、速すぎる自身の鼓動に戸惑いを覚えた。
(どうしよう……一体、どんな顔をすれば……)
昨日、ロランが自分の本当の身分を知り、それでも受け入れてくれた。
それだけで世界がガラッと変わって見えるから、不思議だった。
「セリーヌ」
「は、はい!」
セリーヌ。それは確かに、彼女の名前だ。
しかし、まさか書類に記載されていただけの、その名前を呼ばれるとは思っていなかったセリーヌは、名前を呼ばれてびくりと肩が跳ねた。
「エリックによると、あの女は遅くとも二年以内に近隣王国の王子の元へ嫁ぐそうだ」
「二年、ですか」
セリーヌの胸の奥で、二年という言葉が冷たく響いた。
それは命の危険の期限であり、同時に——ロランとの関係の期限でもある。
セリーヌは複雑な心中を悟られぬよう、平静を装ってロランを見つめた。
「ああ。……だから——」
ロランは言葉を切ると、一瞬言葉を探すように視線を伏せ、それから静かに口を開いた。
「最長で二年、外部の人間との接触を絶って欲しい」
そう切り出した瞬間、ロラン自身が息苦しくなるのを感じた。
屋敷内にスパイがいること。
安全のため、信用できる者以外を近づけたくないこと。
屋敷にこもることで、セリーヌが悪く言われることがないように根回しをすること。
すべて説明し終えた頃には、自分でも驚くほど声が重くなっていた。
「……本当に、申し訳ない」
深く頭を下げると、しばしの沈黙が落ちる。
やがて、セリーヌは穏やかに微笑んだ。
「二年くらい、なんでもありません」
それは、あまりにもあっさりとした答えだった。
「公爵家では、ほとんど誰にも会わず、十年近く閉じ込められていましたから」
事実を淡々と語るその声音に、ロランの胸が激しく締め付けられた。
罪悪感で歪みそうになる視界を、拳を握りしめることで耐える。
(……二年など、比べるまでもない地獄だったというのか。俺は、ようやく地獄から抜けだした彼女を、また閉じ込めるのか?)
胸の奥が焼けるように熱い。
申し訳ない、という言葉だけでは到底足りないほどの後悔が押し寄せた。
その瞬間、彼の中で何かが決定的に変わった。
契約かどうかなど、もはや関係ない。
(セリーヌは、俺が守る)
そうでなければならないと、強く思った。
そう。
一切の社交をしないセリーヌが悪く言われぬよう、根回しをするとは聞いていた。
——だが、その“理由づけ”に、まさか溺愛を持ってくるとは聞いていない。
セリーヌは目の前にある手紙の束をテーブルの隅に追いやると、がっくりと項垂れた。
「わかってるの。私を守るためだって。でも、いくらなんでもこれは……」
「良かったじゃないですか。愛ですよ、愛」
「ちょっとミシェル!」
微笑ましいという気持ちを隠そうともしないミシェルに、セリーヌは思わず声を上げる。
しかし、それ以上セリーヌが文句を言う前に、部屋の扉がノックされた。
外出から戻ったロランが訪ねてきたらしい。
「いけない! やり残した仕事がありますので、私はちょっと失礼しますね」
「……ミシェル?」
ミシェルは意味ありげな表情でわざとらしく声を上げると、そそくさと扉に向かう。
セリーヌは恨みがましい視線を向けるも、ミシェルはロランと入れ替わる形で部屋を出ると、扉を容赦なく閉めた。
二人きりになった室内に、緊張が満ちる。
セリーヌは意を決して口を開こうとした、その時だった。
「これを、貴女に」
そう言って差し出されたのは、小箱だった。
セリーヌは中に収められていたネックレスを見た瞬間、息が止まった。
それは、公爵家で与えられていた、首輪のように重い装飾品とはまるで違う。
繊細で、上品で、華奢なネックレスだった。
そして一際目を引いたのは——まるでロランの瞳のように赤く煌めく、大粒のレッドダイヤモンド。
「……綺麗」
セリーヌは思わず息を漏らしてから、はっとして首を振った。
「い、いけません! 私にはあまりに不相応です」
「そんなことはない。……もう、そんなものをつける必要はない」
そういってロランは、公爵の見栄のために買い与えられたであろう、重苦しいほどに大きな宝石があしらわれた、セリーヌのネックレスに視線を向けた。
「公爵から与えられたものは、すべて使わなくていい。
アクセサリーも、ドレスも……すべて入れ替えさせる」
「え……?」
唖然とするセリーヌの首元に、ロランの大きな手が伸びた。
これまで彼女を縛り付けていた重苦しいネックレスが外され、テーブルの上に無造作に置かれる。
代わりに、彼が選んだ新しいネックレスが首筋に触れた。
その際、ロランの指先が、セリーヌのうなじをかすめる。
(……あつい)
指先から伝わる、ロランの体温。
触れられた場所から火がつくように、セリーヌの体温も跳ね上がった。
ロランの指が、金具を留めるために首筋のすぐ近くで留まる。
耳元に、首元を覗き込むロランの吐息が微かに当たり、セリーヌは心臓が口から飛び出しそうなほど激しく脈打つのを感じた。
緊張で強張るセリーヌに、ロランが至近距離で低く囁く。
「……よく似合っている」
わずかな微笑み。
その愛しむような表情に、セリーヌは呼吸を忘れて見惚れてしまった。
一方、ロランの胸中には、別の感情が渦巻いていた。
(まるで——俺が彼女の首に、新しい枷を嵌めたようだ)
守りたいという想い。
独占したいという衝動。
その狭間で、彼女の首に光る鎖の存在に微かな喜びが芽生えたことに、ロランは強い嫌悪を覚えた。
だが同時に、囁くような誘惑が頭を離れなかった。
(このまま、ここに繋いでしまえば……)
外へ出さなければ。
誰にも、奪われない。
そんな思いが、甘く、重く、心に絡みつく。
ロランはその考えを振り払うことができず、このネックレスが、本当に彼女を繋ぐ鎖であればいいのにと、心のどこかで願ってしまった。




