20.新たな始まり
あまりにも平然と、死罪という言葉を受け入れているセリーヌの顔を、ロランは呆然と見つめていた。
怯えることも、取り乱すこともしない。ただ静かに、確固たる意志を持って未来を選択している彼女の在り方に、胸を締め付けられる。
(なぜ……こんなにも堂々としていられるんだ。そもそも、なぜこんなものが彼女の手に……)
ふと頭に浮かんだ疑問だったが、セリーヌの意志の強い眼差しが、ロランをある結論へと導いた。
なぜ、彼女はあれほどの暴力を受けながらも、何度も公爵家へ戻っていたのか。逃げるという選択もとらずに。
(まさか、これを公爵から奪うために……!)
彼女は、奴隷売渡証書を手に入れるため——自由を得るために戻っていたのだ。そして、どれほどの仕打ちを受けようとも決して折れず、人知れずそれを成し遂げた。
ロランが今手にしているのは、公爵家の命運を左右する不正の証だ。
そして同時に、彼女が離婚後に公爵家という地獄から完全に解き放たれるために、死に物狂いで手に入れた、唯一の切符でもある。
そのあまりの重さに、ロランは証書を手にしたまま言葉を失ってしまった。
彼女はまさに命にも等しいその切符を、自分に差し出そうとしている。
罪悪感で押しつぶされそうな、この愚かな男の心を救うためだけに。
それが、今、目の前にいるセリーヌという女性なのだと、否応なく理解させられた。
「……貴女の決断は、尊重したい。
——だが、それだけは受け入れられない」
セリーヌの目を見て、ロランはキッパリと告げた。
彼女の望みは全て叶えたいという思いと、
彼女を失うことだけは受け入れられないという感情が、
胸のうちで激しく衝突していた。
それでも、やはり彼女が消えてしまうという未来を受け入れることは、どうしてもできなかった。
「一切の非がない、被害者の貴女が死罪になるなど……決して認められないっ」
セリーヌは、ロランの拒絶に目を見開いた。
それは、これまで誰からも向けられたことのない種類の拒絶だった。
自分の意思を慮りながらも、その先にある犠牲を、断固として拒む視線。
自分を尊重してくれているからこその返答だということが、痛いほど伝わってきた。
「……承知いたしました」
決して、納得したわけではない。
しかし、これ以上ここで問答をしたところで、彼の気持ちはすぐには変わらないだろう。
そう判断したセリーヌは、まずは彼の意志を尊重し、証書を返してもらおうと手を伸ばした。
しかし、ロランはその手を避けると、一瞬だけ指先を止め、次の瞬間、証書を懐へと押し込んだ。
「これは……俺が預かっておく」
「ロラン様……?」
「申し訳ないが、貴女の手元にあれば、いずれ貴女自身が公爵を告発しかねない」
そう説明しながらも、ロランの胸の奥には、言葉にできない違和感が渦巻いていた。
今この場で証書を返さないのは、本当に彼女の安全を守るためなのか。
こんなことをしても、自由を求める彼女を、自分の元に縛り付けてしまうだけなのではないか。
そんな疑問がロランの頭をよぎったが、あえてそれに気付かないふりをする。
思いがけず頑ななロランの態度に、セリーヌは困惑した。
「私に情けなど不要です。貴方を欺いた、私なんかに——」
「俺は、騙されたとは思っていない」
静かに告げられた言葉に、セリーヌは困ったように眉を寄せる。
ロランの態度の変化に、理解が追いつかないのだ。
そんなセリーヌに、ロランは心底申し訳なさを感じながらも、これだけは譲れないと、キッパリと告げた。
「勝手なことを言っているのは分かっている。それでも……貴女を死なせるという選択だけは、どうしてもできない」
低く、しかし揺るぎのない声だった。
セリーヌはその言葉を受け止めきれず、しばし沈黙した。
ロランがなぜここまで頑ななのかは、分からない。
しかし、今この場で、公爵を告発して婚姻を無効にすることについて、彼の同意は得られない。
それだけは、はっきりと分かった。
「……ロラン様のお気持ちは、よく分かりました」
セリーヌがそう告げると、ロランは再び謝罪の言葉を口にしてから、そっとその場を立ち去った。
執務室に戻ったロランは、机に両肘をつくと深く息を吐いた。
机の上に置かれた証書が、重い存在感をはなっている。
「……セリーヌ、か」
彼女の本当の名を、誰もいない部屋で呟く。
セリーヌを守るためには、別の道を探さなければならない。
自分が巻き込んでしまった彼女を、殺さずに済む方法を。
無意識に、袖口へと視線が落ちた。
そこには、彼女から贈られたカフリンクスが、淡く光を反射している。
それが、まるで彼女自身のように思えて、ロランは無意識のうちに指先でそっとなぞった。
すると、執務室の扉が、軽くノックされた。
「……入れ」
そう返すよりも早く、扉が開く。
「俺もそんなに暇じゃないんだけどな」
軽口と共に姿を現したのは、エリックだった。
相変わらず余裕のある笑みを浮かべているが、その視線が一瞬ロランの袖口を捉える。
「それで? ついに腹をくくったのか」
「……ああ。予定変更だ」
エリックは一瞬、意外そうに目を見開き、それから何かを悟ったように小さく息を吐いた。
「例の件、あの場で触れて欲しい」
「……ラリサは荒れるだろうな」
からかうような声色とは裏腹に、エリックの眼差しは真剣だった。
ロランの覚悟が伝わったことが、その視線だけで十分に伝わってくる。
「すまない。お前まで巻き込んでしまって……」
「水臭いこと言うなよ。何年の付き合いだと思ってるんだ?」
エリックの言葉が社交辞令ではないと分かっているからこそ、ロランは肩の力を抜いた。
「分かった。誰もが聞きたくて、聞けなかったことを——俺が聞けばいいんだな」
ロランは視線を上げ、わずかに頷く。
「頼む」
「はいはい。他ならぬクロエ嬢と添い遂げるためだもんな」
その言葉を、ロランは否定することができなかった。
数日後。
華やかなパーティーに、ロランは相変わらず一人で出席していた。
その隣には、いつも通りラリサが当然のように寄り添っている。
そこへ、人格者の仮面を被ったエリックが、どこか意味ありげな笑みを浮かべて声をかけてきた。
「相変わらず一人なのか。いい加減、夫人を同伴させてはどうだ?」
誰もが内心で気にしていながら、誰も口にできなかった問いを、エリックはあまりにもさらりと投げかけた。
周囲の貴族たちは、その興味深い話題に、さりげなく耳をそばだてた。
そんな周囲の反応に気付きつつも、ロランは涼しい顔でグラスを傾ける。
「自分から求婚するほど好いた相手じゃないか」
「可愛い妻を独り占めしたいと思うのは、当然のことだろう」
さらりと告げられた言葉に、エリックは思わず吹き出しそうになるのを必死で堪える。
ロランの口から“可愛い妻”という言葉が出る違和感に、肩が震えた。
そんなエリックをじろりと睨むと、ロランは苛立ちを滲ませて言った。
「外に出した途端、お前みたいな男と、根の葉もない噂を立てられるしな」
「そんなに怒るなよ。確かに、いくら親友の妻とはいえ、気軽に話しかけた俺が軽率だったよ」
エリックが笑いを堪える影で、ラリサは扇子で口元を隠しながらも、憤怒に塗れた形相を浮かべていた。
——しかし、周囲の視線はロランとエリックに集中しており、そのことに気付くものは、誰もいない。




