19.仮面を脱いだ日
込み上げる感情を必死に抑えようと震えるセリーヌの姿に、ロランはひどく胸を痛めた。
(しまった……もっと柔らかい言葉を使うべきだった)
理不尽な暴力にさらされ続けてきた、このか細い女性を、自分の配慮のない言葉で怖がらせてしまった。
そう思うと、傷つけることしかできない己が、どうしようもなく情けなかった。
「勝手な事情で、貴女を巻き込んだ。冷たく突き放し、恐怖を与え、その上……命の危険にまでさらしてしまい……」
いくら言葉を重ねたところで、一度ついた傷はそう簡単には癒えない。
そうは理解していても、ロランは言わずにはいられなかった。
「本当に……申し訳なかった」
ロランは、深く頭を下げたまま動かなかった。
常に大公としての威厳を崩さぬ彼が、今はただ一人で罪を抱え込み、頭を上げることすらできずにいる。
後悔に震えるロランの声に、セリーヌの胸はぎゅっと締め付けられた。
(やめて……)
彼は、すべて自分一人の責任だと思っている。
彼だって、被害者だというのに。
「……ロラン様」
初めて呼んだ彼の名前に、セリーヌの心臓は場違いなほどに脈打つ。
セリーヌは一歩前に出ると、震えそうになる声を抑えて言った。
「どうか、顔を上げてください」
ロランは一瞬、身体をびくりとこわばらせ、それからゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、後悔と、そして——自らを犠牲にしてでも、セリーヌを皇女から守るという覚悟が浮かんでいた。
「私に謝罪していただく必要はありません」
あまりにも深く頭を垂れたままのロランを前に、セリーヌは胸が痛くなった。
彼をこれ以上追い詰めぬよう、できるだけ自然に見えるように笑いかける。
思い返せば、その時は気にしすぎだと自分に言い聞かせていたが、ラリサに対して微かな違和感を覚えた場面は、いくつもあった。
例えば——
初めて彼女がセリーヌの元を訪れた時のこと。
ロランの勢いに驚き、転びかけた自分に、彼女は一度も視線を向けなかった。
ただ、ロランだけを見つめていたのだ。
また、宮殿でのお茶会の日。
彼女は、エリックを同席させた理由を、「セリーヌが親しくしていたから」だと、無邪気に告げた。
その時、胸の奥に小さな引っかかりを感じたことを、今でも覚えている。
そして同席した結果、不義の噂が流れても、彼女はそれを否定することも、弁解することもしなかった。
もし彼女が、本当に人々の言う“慈悲深い女神”であったなら——
これらの出来事は、起こらなかったのではないだろうか。
それでも当時の自分は、かつて姉のように慕ったステラの面影を重ね、あえて疑うことを選ばなかった。
「むしろ、私は感謝をしています。これまで何も知らない私に敵意が向かないよう、守ってくださっていたことに。それを知って、私は……」
感情が怒涛の勢いで溢れ出てきて、言葉が詰まってしまう。
必死に押さえ込んでいた行き場のない感情を、もう止めることはできなかった。
セリーヌは自分が傷つかないために見ないふりをし、それでも自覚してしまった恋心を殺すことばかり考えていた。
その間にも、この人はずっと、自分を守ることだけを考えてくれていたのだ。
(……もう、嘘はつけない)
セリーヌはゆっくりと机に向かうと、引き出しを開けた。
そこには、本の間に隠された、一枚の古びた羊皮紙があった。
「……貴方に、お伝えしなければならないことがあります」
そう言ってセリーヌは羊皮紙を取り出すと、ロランに差し出した。
ロランは受け取ったそれに視線を落とした瞬間、息を呑んだ。
「これは……」
「私が公爵に買われた際に作成された、奴隷売渡証書です」
淡々とした声で、セリーヌは告げた。
「……私は、公爵令嬢ではありません。孤児院で育ち、8歳の時に奴隷商人に売られ、その後……虐待死した公女クロエ・フォークナーの“代用品”として買われた、奴隷なんです」
セリーヌの言葉に、ロランの瞳が大きく見開かれた。
人身売買が違法となって久しい現在、その告白はあまりにも非現実的だ。
それでも、彼の理性は、すぐに彼女の話を否定することを拒んだ。
思い当たる節が、あまりにも多すぎたのだ。
公爵令嬢として、非の打ちどころのない所作。
それとは裏腹に、彼女の振る舞いは、高位貴族としては明らかに異質だった。
使用人に対して、敬意を持って接すること。
孤児院への寄付を、わざわざ匿名で行っていたこと。
そして何より——溺愛されているはずの公爵令嬢が、家の中で暴力に晒されていたという事実。
それらを一つひとつ思い返した時、ロランの中で、バラバラだった点が一気に線で繋がった。
これらすべてが、彼女の生い立ち故のものであると考えたら、恐ろしいほど自然に腑に落ちる。
「この証書を使えば、公爵を人身売買と詐欺の罪で告発できます」
セリーヌはいったん言葉を切り、視線を伏せた。
そしてほんの一瞬、迷いを滲ませるように瞬きをしてから、口を開いた。
「そうすれば……この結婚は無効になり、離婚という形をとる必要もなくなります」
一呼吸おいてから、セリーヌは再び顔を上げる。
その瞳には、もう一切の揺らぎはなかった。
「婚姻が無効になった奴隷ごとき、皇女殿下がわざわざ殺しにくる理由もないでしょう」
それはまるで、自分には関係のない、他人の物語を読み上げているかのように、あまりにも淡々とした口調だった。
「——何を、言ってるんだ!」
それまで言葉を失っていたロランが、血の気の引いた顔で叫んだ。
「そんなことをすれば……貴女は……! 平民が貴族を欺いたと知られれば……死罪に……」
言いながら、ロランは理解してしまっていた。
彼女の提案が、どれほどの覚悟を持って行われたものなのかを。
自分に向けられるセリーヌの迷いのない強い眼差しが、それを肯定しているように見えた。
「承知の上です」
セリーヌは、そう言って静かに微笑んだ。
そのあまりに静謐な声に、ロランは言葉を飲み込んでしまった。
「貴方を騙した罪は……命をもって償います」
すべてが明るみになることに、恐怖がないわけではない。
死が怖くないわけでもない。
それでも——
(この人は……すべての不利益を被ってまで、私を守ろうとしてくれた)
その事実が、胸の奥で確かな熱を灯していた。
すべてを失う未来への恐れよりも、自分の意思で未来を選べる喜びの方が、ずっと大きい。
(貴方が苦しまなくて済むのなら、そばにいられなくたって構わない……この気持ちは、恋じゃない)
セリーヌは今、はっきりと理解した。
——これは、愛だと。




