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泥の妄執 3話 捕らわれた蝶たち

土田茜――

信濃の旧華御門領に生まれた下級貴族の娘。


母は茜を産んですぐに亡くなった。

だが父の愛情を一身に受け、茜は健やかに育った。


父は今でも再婚を考えていない。

母を忘れられないのだ。


「母さんは体が弱かった。でもな……茜を産んで、本当に幸せそうだったんだぞ」


幼い頃、茜は“母がいない寂しさ”を父にぶつけてしまったことがある。

その時、父は悲しそうに微笑み、古い箱を取り出した。


そこには――

儚げで、とんでもない美しさを持つ女性の写真。


「母さんはな、体は弱かったが……お転婆でな。

よく屋敷を抜け出したっけ。

私は当時、護衛だったんだ

母さんは“やんごとなき身分”のお方で、

本来なら私の妻になるなんてあり得なかった。

……ほとんど駆け落ちみたいなもんだよ」


父は照れくさそうに語った。


茜はその写真を宝物にしている。

母に抱かれた自分――記憶はないのに、なぜか胸が温かくなる。


落ち込んだ時も、嬉しい時も、

茜はその写真をよく眺めた。


(……母親みたいになりたい)


そう思うたび、

ジャックの顔が浮かんでしまう。


深淵幻海老を捌いた時の真剣な横顔。

勝利を喜んで、思わず抱きついてしまったあの瞬間。


「……ああもう、何してんのよ私」


茜は自分が置かれている立場を忘れ、

ひどく浮かれていた。


その時だった。


アパートの電話が鳴る。


「……はい、土田です」


『お父様が……重篤です』


「……うそ……」


受話器を握る手が震える。


「はい……わかりました。すぐ伺います」

茜は荷物を掴み、

走り出した。


胡蝶リカ――

天宮家に古くから仕える胡蝶家の長女。


胡蝶家は代々、

「胡蝶舞い主に尽くし、主を守り、主を導く」

という家訓を掲げてきた。


主の心を乱さず、

主の歩みを支え、

必要とあらば静かに導く――

それが胡蝶家の誇りである。


そのため、当時まだ新人だったにもかかわらず、

リカは久遠優のお世話係に任命された。


三年前、天宮家には人材が不足しており、

苦肉の策だったはずなのだが――


いつの間にか優はリカにひどく懐き、

今ではリカなしでは動かないほどになっていた。


――はずだった。


蒼穹料理闘宴――開始日

リカは、そろそろ許してやるかと思い、会場に向かう

料理大会は客席から応援するだけにしていた。


一回戦が終わると、

リカはすぐに優の厨房へ向かった。

「すみません、優様はいらっしゃいますでしょうか?」


だがそこにいたのは、

マスクを被り、ギラギラした目をした料理人たち。


リカはぎょっと目を見開く。


そのうちの一人が声をかけた。


「ああ、優様のお世話係のメイドさん。

優様? 見てないよ。みんな、優様知らない?」


「いや、見てないぞ」


「まだ会場にいるんじゃないかな」


全員が首を振った。

優は厨房にいないらしい。


リカは丁寧に頭を下げた。

「ありがとうございます。それでは審査室に行ってきます」


だが審査室にも優はいなかった。


そのまま一日が過ぎ――

リカは、ゴミ山と化した優の部屋を片付けながら、

胸の奥に不安が広がっていくのを感じていた。



翌日

リカの耳に、とんでもない話が飛び込んできた。


「優様が……濁木邸に“料理修行”で泊まり込み?」


濁木――

蒼穹殿でも有名な悪徳貴族。


そんな評判の悪い家に、

あの優様が泊まっている?


リカの胸は不安でいっぱいになった。


リカにとって優は――

わがままで、ちょっとスケベで、

時々とんでもないことをしでかすけれど、

放っておけない“あほかわいい子”。


そんな優様が濁木家なんて。


リカは真っ直ぐメイド長室へ向かった。


途中、怪我から復帰したばかりの

優の新護衛・犬飼太郎とすれ違ったが、

リカは無視して通り過ぎた。


「オイ……」

太郎が何か言いたげだったが、

リカの耳には入らなかった。




メイド長室。


リカがノックすると、

奥から霧音の声がした。


「入りなさい」


「失礼します」


部屋はいつも通り、

埃ひとつないほど整えられていた。


書類を整理していた霧音が顔を上げる。

「リカさん、何か御用ですか?」


リカはおそるおそる尋ねた。

「優様が……濁木邸に泊まるって、本当なんでしょうか?」


霧音は書類を置き、淡々と答えた。

「ええ、本当です。

優様は一週間、濁木邸で料理の修行を行うそうです」


リカは信じられなかった。

「待ってください……あそこは主家の反対派閥。

そんな敵のような場所に……」


霧音の声が冷たく響く。

「決定です。天宮公も賛成しています。

反論はやめましょう」


リカは涙目になり、

何も言えずに部屋を出た。


背後から霧音の声が追いかけてくる。

「優様なら帰ってきます。

リカさん、あなたは部屋でいつもの仕事をしなさい」


リカは小走りで廊下を進む。


また太郎とすれ違ったが、

やはり無視した。


太郎はぽつりと呟いた。

「なんだよ……」


リカの心は、

“あり得ない”でいっぱいだった。



それから――

ぼんやりしたまま一日が過ぎた。


(……イケない)


リカはようやく覚悟を決めた。


胡蝶家の家訓が頭に浮かぶ。


「胡蝶舞い主に尽くし、主を守り、主を導く」


子供の頃から嫌というほど聞かされてきた言葉。

今こそ、その時だ。


リカは素早く着替えを済ませた。

「濁木邸は……天華の山の手の大きな屋敷。

……よし大丈夫のはず、優様に逢いに行こう」


妙に納得し、

リカは蒼穹殿を飛び出した。


その背中を、ひとつの影が見送っていた。


「……はぁ。しょうがない子」


影――霧音だった。


霧音もまた、優を濁木に預けることには反対だった。

だが、マリアがそれを止めたのだ。




「濁木に優を預ける――

それはね、“濁木家が天宮に組した”と世間に思わせることになるの」

マリアは涼しい顔で言った。


「旧水鏡、華御門の派閥を切り崩すには、

これ以上ない一手よ。

……思ったより、あの家の信頼は厚かったみたいね」


六道院と共に、マリアはすぐ噂を流した。


“濁木家が派閥を抜けるらしい”


濁木の金と借りに依存していた者たちから、

次々とマリアの元へ打診が来る。


その数は想定以上だった。


「近く大規模なパーティを開くわ。

そこで全部、取り込む」


マリアは窓の外を眺めながら微笑んだ。


「バランスなんて関係ない。壊しましょう。

決めたわ――あの子が動く。それだけで十分」


その手には、一枚の写真。

「華御門の生き残り……

なるほど、濁木が妄執するのも分かるわね」

マリアはやれやれと肩をすくめた。


霧音は、その横顔を見つめる。

(……マリア様が、また一歩……大貴族らしくなっていく)


そして霧音は、

リカの背中を追うことなく、

静かに目を閉じた。


(リカさん。

あなたの“導き”が、優様を守ると信じています)


リカが濁木家に到着したのは、

深夜0時――常識的には訪問する時間ではない。


本来、胡蝶家は

「蒼穹殿で育ち、蒼穹殿で人生を終える」

そんな箱入りの家系。


外に出れば迷子になるのは必然だった。


殆ど外を出た事ないリカはひどく疲れた様だ、

ようやく目的地に着き、胸に手を当てて息を整えた。


濁木邸は深夜にもかかわらず明るい。


成金趣味の派手な外壁、

意味の分からない彫像が並び、

やたらと大きな邸宅が光を放っている。


どこからともなく歌声まで聞こえてきた。


「こんな時間でも……大丈夫かしら」

リカは正門に手をかけたが、鍵がかかっていた。


仕方なく裏手へ回ると――

裏門は、なぜか開いていた。


(……入っていいのかな)


罪悪感が胸をよぎったが、

優の顔を見るため、リカはそっと中へ入った。


少し歩いたところで、

倉庫のような建物から騒がしい気配がした。


(……何かしら)


リカはそっと近づく。


そこで目にしたのは――

大きな袋を担いで運ぶ男たち。


袋の中身は分からない。

ただ、状況が“普通ではない”ことだけは理解できた。


リカは思わず後ずさった。


その時――


パキッ。


足元の枯れ枝が折れ、

リカは驚いて尻もちをついてしまった。


「……誰だ?」

男たちがこちらを向く。


リカは息を呑んだ。


次の瞬間、視界が揺れ――

意識が遠のいていく。


最後に聞こえたのは、

男たちの慌ただしい声だった。


「やべーーこの子もカワイイじゃん」


「まじかよ可哀想だけど見られちゃったらしょうがないよね」


「おいおい雁楽様が来るまで手を出すなよ」


その声を最後に、

リカの意識は暗闇に沈んだ。

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