私たち
前話より約1年後、田中聡子視点です。
それは、5年生ももうすぐ終わろうかという2月のことだった。
自宅のトイレで、私は1人フリーズしていた。
「…………え?」
手に持っているのは、妊娠検査薬。
そしてそこには、妊娠を示す線がくっきりと浮かんでいた。
「…………………………」
え?え??え???
え?しか出てこない。
ーー今月は中々生理が来ず。『もしかして妊娠!?』というよりは『ま、妊娠はしてないだろうけど』と確認のつもりで、軽い気持ちで検査してみたのだが……。
「…………………………」
じーっと検査薬を眺めるも、見間違いではないようだ。念の為説明書を読み直してみるが、陽性ということで間違いはなさそうだ。
「……どうしよう……」
私の口から出てきたのは、喜びの言葉ではなく、戸惑いだった。そのことに、ひどく嫌悪を感じる。自分がろくでなしになったような気分だった。
(と、とにかく、悠介さんにも伝えないと……)
研修医として日々研鑽を積む恋人を想う。そして、急に不安に襲われた。
どういう反応をするだろうか?
喜ぶ?それとも……
社会人一年生は皆そうであるように、彼も激務に追われていた。ベッドまで行く体力が残っておらず、玄関で寝ていたこともあるくらいだ。
そんな中、『こどもができた』なんて言ったら?
「…………………………」
検査薬をペーパーに包み、三角コーナーへ入れた。
(ちょうど今日会うし。言えそうだったら言ってみよう)
決意するも、じわじわと広がる不安は心をどんどん侵食していく。
彼がどういう反応をしようと、しっかりしないと。ていうか、私はどうしたいの?はっきりしとかないと。
ぐるぐる、ぐるぐる、脳内で様々な考えが渦巻いていく。天井を仰ぎ、悪い考えを振り払うように頭をふった。
・・・
「なぁ、なんか今日静かじゃね?」
橘の声でハッと我にかえる。いけない、ぼーっとしていた。
見ると、彼がその綺麗な瞳で私をじっと見ていた。探るようなその目線に、微笑みで返した。
「すみません、ぼーっとしてしまって」
「はは、しっかりしろよ。あ、この肉食っていい?」
「どうぞ」
2人であたたかい鍋をつつく。そんな日常の何気ないことに、心までじんわりとあたたかくなっていく。
緊張が、ほどけていくようだった。
湯気越しに眺める橘は少し疲れがみえるが、ご機嫌で肉を頬張っていた。その様子がかわいらしくて、くすっと笑ってしまう。
「?なに??」
「いえ、何も。……好きですよ」
自分で言ったことなのに、なんだか涙が出そうになった。そんな私に橘は「やっぱなんか今日変だわ」と言って苦笑いしていた。
「ごちそうさま〜」
「ごちそうさま」
食事を終え、私は後片付けを、橘は今日の業務の復習と来週の予定の確認をし始める。
テーブルをふき、お皿を洗う。鍋の日は洗うお皿の数も少ないので楽でいい。
橘が「ちょっとトイレ」と言ってお手洗いへ向かった。
ばしゃばしゃとお皿を洗いながら、ふぅ、とため息をついた。
(……結局、ご飯中には言えなかったな。切り出し方が……難しい……)
世の女性達は一体どのようにパートナーに伝えているのだろうか。
せっかくだから、びっくり箱でも作ってみようか。
そんなことを考えながら鍋を綺麗にし、シンクを洗っていたときに橘が部屋に戻ってきた。そっと私の背中にくっついてくる。
いつものことなので、特にかまわずシンクを洗い上げ、片付けを終えた。
エプロンをはずしたかったので、橘へ「あの……」と声をかけた。
「……聡子……」
「エプロンはずしたいので、ちょっと離れてくれません?」
「……やだ……」
そう言って、橘が甘えるようにすりすりっとしてきた。……昂っているのだろうか。
だとしたら、今日はなんとしても阻止せねば。
少し焦っていると、そっとお腹をなでられた。びくっとしてしまい、思わず彼の腕を強く掴んだ。
「あ、あの、すみません、びっくりしてしまって……」
橘が目をパチパチさせ、そして ーーーー今にも泣き出しそうな顔で、微笑んだ。両頬を、彼の大きな手で包み込まれた。
「聡子、もしかしてお前……」
優しく頬をなでられる。
そのとき、検査薬の箱をトイレに置きっぱなしにしていたことに気づいた。
橘がききたいことは、わかった。
なんだかまともに顔を見られず、横を向いて、伝えた。舌がもつれてうまく発音できなかった。
「……はい……えと……その……こ、こどもが……できたみたい……です……」
緊張のせいか、涙が出そうになる。
「……マジで?……」
「……マジです。結果はまだトイレの三角コーナーにあるので、持ってきましょうか?」
「…………………………」
橘がいよいよ泣き出しそうに顔を歪め、そして、感極まったように私を抱きしめた。
伝えられたことにひどくほっとして、私も彼の背に手を回した。温もりを分かち合うように、そのまましばらく、そうしていた。
「……最高の気分。ありがと」
静かにそう言われ、目頭が熱くなり、涙がこぼれてきた。
「……はは、俺も泣きそー。あーーマジかーーーー」
そう言いながら目元をぬぐい、私を優しく包み込んでくれる。
「だから今日静かだったのかー」
「……言うタイミングをはかっていまして……」
「そっか。……1人で不安だったろ。電話くれたらよかったのに」
あたたかい言葉をかけられ、涙がさらに流れてきた。こんなに優しく思いやりのある人だったなんて、出会った頃には想像もつかなかった。
ティッシュで涙をふいてくれながら、橘がうきうきしたような口調で言った。
「明日の予定、全部キャンセル。病院行くぞ。俺んちだけど。親父に診せるのはしゃくだから、俺がやる。あと、お前には悪いけど学校は1〜2年休学。いいな」
「えっ……」
「えっじゃねーよ。お腹の子に何かあったらどうすんだよ。産後だって楽じゃねーぞ」
「や、でもお腹大きいまま試験受けた先輩も
橘の学年で、大きなお腹を抱えて試験を受けた女性がいたことを思い出す。最後まで言わせてもらえず、橘の苛立ったような声にかき消された。
「馬鹿野郎、あれは特例。隣の部屋に医師が待機してたんだぞ。あいつ自身も頑丈だし。お前はひ弱だから真似すんな」
「……!!」
バカにされたと思い、生来の負けず嫌いの虫が騒ぐ。言い返そうとしたとき、ふわっと抱きしめられた。
「……頼むから。俺の言うこときいてくれ」
「……」
「な」
優しく見つめられ、そっとキスされる。
「……検討します」
「お前……張り合うなって……」
「経過を見て決めればいいじゃないですか」
「……そうなんだけど……」
橘が呆れたように笑った。
「ま、とりあえず風呂でも入るか。湯船であったまろうぜ。で、明日病院な。ヒール履くなよ」
なんだかいつもより饒舌だ。彼なりに興奮してるのだろうか。
「……過保護……」
「あ?なんか言ったか?」
「いえ別に何も」
最初の不同意性交のことを考えると、こんなに穏やかな時間がくるなんて、思いもよらなかった。
「あ、風呂で滑らないように気をつけろよ」
「はいはい」
「はいは1回」
「……いちいちうるさい……」
「舌打ちすんな」
甲斐甲斐しくお風呂の準備やら布団の準備やらをしてくれる橘を見て、くすっと笑いが漏れた。
幸せというものを、おそるおそる、感じていた。