第七十一話:駿府への凱旋と大歓喜
第七十一話:駿府への凱旋と大歓喜
元亀元年、文月の末――。
尾張・清須城の本丸大広間に、両家の重臣たちが居並んでいた。
中央の黒漆の文机には、今川家と織田家が取り交わす『永久不可侵・通商和睦定書』が置かれている。清須での交渉を経て、今川家からも正式な承諾が届き、いま、その誓いを文書に定める儀が執り行われようとしていた。
定書には、両家が互いの領国へ軍事侵攻を行わぬこと、境川や伊勢湾を含む水陸の交易を妨げぬこと、そして織田信照の妹・市姫と、今川家の軍師・鍋蓋翔次との婚姻を、不戦の縁として両家が認めることが記されていた。
ただし、信照の旗を掲げる諸国の保護圏は、織田家の直轄領と同じものではない。土地ごとの領主がそれぞれの地を治めながら、その旗のもとで自治と安寧を守る仕組みである。
今回の和睦は、そうした織田家の勢力圏と今川家の領国が、互いの支配のあり方を認めた上で、境を越えて争わぬと定めるものでもあった。
上段の御簾の奥には、織田十郎信照が静かに座していた。その傍らには、市姫の姿がある。
左右には前田利家、木下藤吉郎、滝川一益、蜂須賀小六ら織田家の重臣たち。向かいには今川家の全権使者・鍋蓋翔次と、石川数正ら使節団が控えていた。
「それでは、始めまする」
儀を取り仕切る者の声が響いた。
まず、織田家の名代として藤吉郎が筆を執り、定書に花押を据えた。
続いて翔次が進み出る。
筆先に墨を含ませ、今川家の全権使者として、定められた箇所に花押を書き記した。
最後に、両家の誓約を示す文書が、それぞれの名代によって改めて確認された。
これをもって、今川家と織田家の間に、恒久的な不戦と通商の取り決めが正式に成立したのである。
十年にわたって両家を隔ててきた争いが、ただちに世のすべてから消え去るわけではない。周辺の大名たちが、この和睦をどう受け止めるかも、これからの課題であった。
それでも、今川と織田が互いを攻めるために兵を集める時代には、確かな区切りがついた。
調印の儀が終わり、使節団が退出の礼を取る直前、翔次は両手を畳につき、御簾の奥と市姫へ深々と頭を下げた。
「信照公、ならびに市姫様。今川家の使者としての務め、相整いましてございます。これより駿府へ戻り、太守様に調印の次第をご報告いたしまする」
御簾の奥から返答はない。
信照は、いつものように沈黙を守っていた。
翔次はその姿を見つめ、心の中で小さく息を吐いた。
(信照……最後まで、何を考えているのか分からん男だ)
十年にわたって対峙してきた相手である。こちらが策を巡らせるたび、その読みを越えた手を打たれてきた。いまも、どのような思いでこの和睦と妹の婚姻を認めたのか、翔次には知る由もない。
ただ、信照が自らの意思でこの定書を認めたことだけは確かだった。
翔次の視線が、市姫へと移った。
市姫は、静かに顔を上げた。諸将の目が届かぬほどのわずかな仕草で、胸元に重ねた手に力を込める。
そして、声には出さず、唇だけを動かした。
『――お待ちしております、翔次様』
翔次の胸が、熱く脈打った。
三十代半ばを迎えるまで、自分が誰かの夫となる日など、思い描いたこともなかった。まして、十年の罪と苦闘を背負ってきた自分が、これほど真っ直ぐに思いを寄せられるとは。
翔次は返事の代わりに、もう一度、深く頭を下げた。
清須城の渡り廊下を進む翔次の背後には、利家をはじめとする織田家の重臣たちが、見送りのために従っていた。
大手門の橋の袂まで来たところで、利家が歩みを止めた。
「……おい、鍋蓋」
利家は朱槍を握り直し、翔次を真っ直ぐに見据えた。
「我が殿が認められ、市姫様ご自身が選ばれた以上、某がこれ以上、婚姻に口を挟むつもりはない。されど、ひとつだけ言うておく」
利家の目は、笑っていなかった。
「市姫様を粗末に扱うことは、断じて許さぬ。もし涙を流させるようなことがあれば、たとえ両家の盟約があろうとも、某は貴様を問いただしに参るぞ」
「又左、言い方というものがあろう!」
藤吉郎が慌てて口を挟んだ。蜂須賀小六も、まあまあ、と利家の肩を叩く。
翔次は、利家の言葉を正面から受け止めた。
「利家殿。しかと肝に銘じましてございます。市姫様のお心を損なうことのないよう、誠を尽くしまする」
利家はしばらく翔次の顔を見つめていたが、やがて鼻を鳴らした。
「……ならばよい。達者で行け」
それだけ言うと、利家は朱槍を肩に担ぎ直した。
翔次は一礼し、今川使節団とともに城門をくぐった。
清須の城下には、和睦の知らせを聞いた町人や百姓たちが集まっていた。人々の顔には、長年の緊張から解き放たれた安堵が浮かんでいる。
「今川と織田が和睦したそうじゃ!」
「これで、気楽に田畑を耕せるのう」
「お市様が、今川の軍師殿に嫁がれるとか……」
囁き声は、やがて街道を埋める人々のざわめきへと変わった。
中には、長い戦の間に家族を失った者もいるだろう。和睦の知らせだけで、その悲しみが消えるわけではない。それでも、これ以上、同じ悲しみを増やさずに済むかもしれない。その希望が、人々の表情に表れていた。
翔次は馬上から、その姿を見渡した。
自分が求めてきたものは、敵を打ち破る名声でも、領土を広げる功績でもない。
人々が明日も田畑を耕し、商いをし、家族と食卓を囲めること。その当たり前の暮らしを、戦によって奪われぬようにすることだった。
「出立!」
翔次の声に応じ、使節団は東海道へと進み始めた。
尾張と三河の境目、境川。
かつて両軍が睨み合い、兵糧と兵力を費やしてきたその川にも、和睦の知らせは届いていた。
東岸と西岸には、近隣の村々から人々が集まっていた。農民たちは川越しに手を振り、商人たちは互いに声を掛け合う。長く緊張を強いられてきた土地に、少しずつ、日常の往来が戻り始めていた。
「和睦じゃ! これからは安心して商いができるぞ!」
「今川様、織田様、末永く争わずにいてくだされ!」
翔次は馬を進めながら、川面を見つめた。
この川は、十年にわたって両家の境界であり続けた。ここで命を落とした者も、故郷へ帰れなかった者もいる。彼らの犠牲を、和睦の一言で無かったことにはできない。
それでも、これから先、この川を渡る者が敵兵ではなく、商人や旅人、家族を訪ねる人々であってほしい。
翔次は、その願いを胸に刻み、浅瀬を渡り切った。
三河へ入ると、岡崎城の城主・松平元康が、城外で使節団を待ち受けていた。
元康の傍らには、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政ら三河の重臣たちが並んでいる。
翔次の姿を認めるなり、元康は馬を降り、早足で近づいてきた。
「翔次殿!」
元康の顔には、隠しきれぬ喜びがあった。
「清須からの報せは受けておる。和睦が正式に定まったそうじゃな!」
「はっ。今川家と織田家、双方の花押をもって、定書が交わされましてございます」
「そうか……そうか!」
元康は翔次の両肩をつかんだ。
「これで三河の民も、境川の向こうの民も、戦の恐れに怯えずに暮らせる日が近づいた。貴殿がこの道を開いてくれたのじゃな」
元康の目には、涙が浮かんでいた。
「そればかりではない。市姫様が、貴殿の妻となられるという。まことに、めでたいことじゃ!」
翔次は、困ったように笑った。
「身に余るお話にございます。されど、婚姻はこれから両家で支度を整え、正式な儀を執り行うこととなりまする」
「うむ。分かっておるとも。今から祝わずにおられようか!」
元康は笑い、翔次の手を強く握った。
「そなたには、幾度も三河を救われた。今度は、そなた自身が幸せになる番じゃ。今宵は岡崎で一献、祝わせてくれ」
本多忠勝が豪快に笑い、酒井忠次も顔をほころばせた。
かつて戦の行方を案じ、兵糧の不足に頭を抱え、夜ごと胃の痛みに苦しんだ二人の男。その一人が、いま目の前で、心からの笑顔を浮かべている。
翔次は、その顔を見つめて、胸の奥が温かくなるのを感じた。
岡崎城では、急ぎ酒宴の席が設けられた。
元康は自ら杯を取り、翔次へと差し出した。
「翔次殿。今宵ばかりは、帳面も兵糧も忘れよう。三河の酒を受けてくだされ」
「ありがたき仕合わせにございます、元康殿」
二人は杯を合わせた。
宴席では、三河武士たちが和睦の成就を祝い、これまでの苦労を語り合った。誰もが浮かれているわけではない。戦が終わるということは、これからさらに領国の復興に力を注ぐということでもある。
元康はそのことをよく理解していた。
「これからは、守りを怠らず、民の暮らしを立て直さねばならぬ。和睦を結んだからとて、周囲の大名が皆、同じ道を選ぶとは限らぬからな」
「仰せの通りにございます」
翔次は頷いた。
「戦を避けるためにも、備えは必要にございます。境川の守りを保ちつつ、田畑や道の復旧、商いの再開に力を注ぐべきかと」
「うむ。これからも相談に乗ってくれ、翔次殿」
元康の言葉に、翔次は深く頭を下げた。
翌朝、元康らの見送りを受け、使節団は三河を後にした。
遠江を抜け、浜名湖を過ぎ、天竜川を越える。街道沿いの村々では、和睦の報せを聞いた人々が、旅立つ使節団に頭を下げた。
だが、翔次は歓声に浮かれることなく、道中の様子を確かめていた。橋の傷み、宿場の人足の不足、兵の移動によって荒れた田畑。戦が終わっても、民の暮らしを立て直す仕事は、これから始まるのだ。
それでも、道を行く人々の顔には、少しずつ明るさが戻っていた。
やがて使節団は、大井川を越え、駿河国へと入った。
元亀元年、葉月の初め。
駿府の西に広がる安倍川の河原へ差しかかったとき、翔次は思わず手綱を緩めた。
街道の先に、人の波が見えたのである。
安倍川の土手から駿府の城下へ続く道には、町人、商人、職人、農民、寺社の僧侶たちが集まっていた。人々は道の両側に列を作り、使節団の到着を待ちわびていた。
「鍋蓋様がお戻りじゃ!」
「和睦が成ったぞ!」
「これで、戦が遠のく!」
歓声が、安倍川の河原に広がった。
子どもたちは手を振り、年老いた者たちは安堵の涙を拭っている。商人たちは互いに喜びを分かち合い、農民たちは、これからは兵の徴発や戦火に怯えることが少なくなるのではないかと、口々に語り合っていた。
翔次は馬上から、その光景を見つめた。
彼が取り組んできた治水や流通の整備、兵糧の確保、領内の暮らしを支える仕組み。それらは、戦のさなかにも民の命をつなぐためのものだった。
しかし、戦が続く限り、積み上げたものはいつ壊されるとも知れない。
和睦が、その営みを守る力となる。
翔次は、ようやくその意味を、目の前の人々の姿を通じて実感していた。
使節団が今川館の大手門へ至ると、門前には今川家の重臣たちが威儀を正して居並んでいた。
前線総軍監の岡部元信。三浦上総介義就。遠江の宿将・朝比奈泰朝。さらに、軍監頭の松井宗信や長谷川元長ら、これまで翔次とともに戦と政務を支えてきた者たちである。
翔次が馬を降りると、元信が一歩前へ出た。
「翔次殿!」
元信はその肩を力強くつかんだ。
「よくぞ、無事に戻られた。清須での務め、まことに大儀であった」
「元信殿……皆様にも、ご心配をおかけいたしました」
翔次が頭を下げると、元信は大きく首を振った。
「何を申される。そなたは今川家のためだけでなく、境を挟んだ両国の民のために、難しい役目を果たしてきたのじゃ。礼を申すのは、こちらの方であろう」
三浦上総介も歩み寄り、翔次の手を強く握った。
「翔次殿。和睦が成り、さらに市姫様を迎える縁まで結ばれたと聞いた。これほどの知らせを、誰が予想できたであろうか」
上総介の声は、いつになく柔らかかった。
「そなたが無事に戻られたことを、何より喜んでおる」
翔次は、重臣たちの顔をひとりずつ見つめた。
彼らとともに戦場を越え、時には意見を違え、時には命を預け合ってきた。
だからこそ、いま自分を迎える者たちの顔に喜びがあることが、何より嬉しかった。
その時、今川館の奥から陣太鼓が鳴り響いた。
重厚な音が、駿府の空へと広がっていく。
「――治部大輔義元公、ならびに上総介氏真公、御出座にござる!」
大手門が開かれた。
その奥から、今川義元と、当主・氏真が姿を現した。
義元は優美な直垂をまとい、白扇を手にしていた。その立ち姿には、長年にわたって今川家を率いてきた太守としての威厳が満ちている。
隣には、萌黄色の直垂を身につけた氏真が控えていた。
今川家では、当主である氏真が公家や寺社との交わりをはじめとする政務を担い、義元が軍事や領国経営、対外関係の実務を後見として支えてきた。二人が揃って大手門まで出迎えるのは、翔次の帰還がそれだけ重い意味を持つことの表れであった。
翔次は即座に膝をつき、深々と頭を下げた。
「太守様、屋形様。ただいま清須より復命に参りましてございます」
義元は翔次の前で足を止めた。
しばし、その姿を見下ろしていたが、やがて自ら手を差し伸べた。
「面を上げよ、翔次」
翔次が顔を上げると、義元はその肩に手を置いた。
「よくぞ、無事に戻った。まずはそれが何よりじゃ」
その言葉に、翔次の胸が熱くなった。
「太守様……」
「詳しい話は、広間で聞こう。そなたが清須で果たした務め、余もこの耳で確かめたい」
「はっ」
氏真も、柔らかな笑みを浮かべて声をかけた。
「翔次殿、まことにめでたい知らせであった。父上があれほど喜ばれる姿を見たのは、余も久しぶりじゃ。心より祝着を申す」
「屋形様、恐れ入りまする」
「なに、今日は堅苦しいことばかりでなくともよい。まずは無事の帰還を喜びたいものじゃ」
義元は息子をちらりと見て、苦笑した。
「氏真、そなたは相変わらず人を和ませるのがうまいのう」
「父上ほどではございませぬ」
氏真が微笑むと、門前に張り詰めていた空気が、わずかに和らいだ。
「さあ、参ろう」
義元の声に促され、翔次は今川館の大広間へと向かった。
広間には、今川家の一族と重臣たちが集まっていた。文官、軍監、領国の政務に携わる者たちも列座し、中央の文机には、清須で交わされた『永久不可侵・通商和睦定書』が置かれていた。
翔次は上座の前に進み、清須城での交渉の経緯を報告した。
信照が和睦を認めたこと。両家が互いの領国への侵攻を行わぬと定めたこと。境川や伊勢湾の通商を妨げず、商人と領民の往来を保障すること。そして、市姫が自ら婚姻を望み、信照もそれを認めたこと。
翔次は事実をひとつずつ、正確に言上した。
「……以上が、清須における交渉と調印の次第にございます。両家の定書は正式に交わされました。婚姻につきましても、双方の了承を得て、今後、儀式と支度を整える運びとなっておりまする」
報告が終わると、広間にしばし沈黙が落ちた。
やがて、誰からともなく歓声が上がった。
「和睦が成った!」
「これで、境川の守りも新たな段階へ進める!」
「市姫様をお迎えすることになるとは……!」
重臣たちは互いに顔を見合わせ、喜びを分かち合った。
義元は静かに立ち上がり、白扇を手に広間を見渡した。
「諸将よ。よく聞くがよい」
その声が響くと、広間はたちまち静まった。
「この和睦は、敵を打ち破り、領土を奪い取って得たものではない。両家が互いの力と立場を認め、これ以上の戦を避ける道を選んだ結果である」
義元は翔次へと視線を向けた。
「翔次は、戦場において敵を退けるのみならず、戦を続けることで失われるものを見据え、和睦へと道を開いた。これは、兵を率いる者にとっても、領国を治める者にとっても、容易に成し得ることではない」
義元の言葉には、確かな誇りがあった。
「我らは、この和睦をもって務めを終えたと思うてはならぬ。境川の守りは保ち、周辺の情勢にも目を配る。その一方で、荒れた田畑を立て直し、商いを再び盛んにし、民が安心して暮らせる国を築かねばならぬ」
義元は白扇を閉じた。
「和睦とは、誓紙を交わしたその日から、守り続けるべき務めなのじゃ」
「ははっ!」
重臣たちが一斉に頭を下げた。
その後、義元は翔次へと向き直った。
「翔次。そなたの働き、今川家として深く賞する。今宵は、そなたの帰還と和睦の成就を祝う宴を催す。城下の民にも、祝いの振る舞いを行おう」
「太守様、ありがたきお言葉にございます」
翔次が深々と頭を下げると、義元は満足げに頷いた。
「よい。今宵ばかりは、そなたも肩の荷を少し下ろすがよい」
義元の言葉に、広間から再び喜びの声が上がった。
その日の夕刻、駿府の城下には祝いの触れが出された。
今川館では酒と料理が用意され、城下の町々にも赤飯や酒が振る舞われた。長く続いた緊張がすべて解けたわけではない。それでも、戦が遠のいたことを人々が喜ぶには、十分な知らせであった。
祝宴の席では、重臣たちが翔次のもとへ次々と訪れ、杯を交わした。
岡部元信は、いつもの豪胆な笑みを浮かべて言った。
「翔次殿。これで、しばらくは兵糧の算段に追われる日々も減ろうか」
「元信殿、戦がなくなったからといって、帳面がなくなるわけではございませぬ」
「ははは! そうであった。そなたは、どこまでも帳面から逃れられぬ男よ!」
元信の笑いに、周囲の者たちも声を上げた。
氏真も自ら銚子を手に、翔次の前へとやってきた。
「翔次殿、余からも一献差し上げよう」
「屋形様自ら、恐れ入りまする」
氏真は杯に酒を注ぎながら、穏やかな声で言った。
「余は、戦のことでは父上やそなたに及ばぬ。されど、駿府の町が落ち着き、民が笑って暮らせることこそ、領国を治める上で大切なことだと思うておる」
氏真は広間を見渡した。
「今宵のように、家臣たちが安堵し、民が祝いを分かち合える。その日々を守ることが、これからの務めであろうな」
「まことに、その通りにございます」
翔次は杯を受け、深く頭を下げた。
「この和睦を一時のものとせず、暮らしの安寧へとつなげること。それこそ、これから我らが果たすべき務めにございます」
氏真は嬉しそうに頷いた。
「うむ。そなたなら、きっと成し遂げてくれよう」
宴は夜更けまで続いた。
やがて、広間の喧騒が少しずつ落ち着いた頃、翔次はそっと席を立ち、今川館の縁先へと出た。
夜風が、酒で火照った頬を冷ましてゆく。
見上げた空には星が瞬き、遠くの山並みは夜の闇に沈んでいた。東の方角には、尾張のある西の空が広がっている。その彼方に、いまは市姫がいる。
翔次は欄干に手を置き、静かに息を吐いた。
永禄三年五月十九日。あの桶狭間で、信長が命を落とした日から、十年余りの歳月が流れていた。
己の保身から口にした言葉が、歴史を大きく変えてしまった。その後、今川家を勝たせることも、織田家を敵に回すことも、翔次にとっては自分の命と無数の人々の命を秤にかける日々だった。
戦を避けようと策を巡らせても、すべての悲劇を防げたわけではない。失われた命も、癒えぬ傷を抱えた者もいる。
だからこそ、翔次は和睦が成った今も、過去の罪が消えたとは思わなかった。
それでも――。
「……ひとつ、道を開けたか」
翔次は小さく呟いた。
両家が互いを攻めるために兵を動かす日々は、ひとまず終わった。境川の向こうに暮らす者たちも、駿府の町に暮らす者たちも、これから先の平穏を築く機会を得たのだ。
それは、十年間にわたって積み重ねてきた苦闘が、確かな形となって現れた瞬間だった。
(俺は……まだ、やるべきことがある)
翔次は夜空を見上げた。
和睦は終着点ではない。周辺の大名たちが動けば、今川家は再び難しい判断を迫られるだろう。荒れた田畑を立て直し、通商の道を守り、民の暮らしを支える仕事も残っている。
だが、そのすべてを、これまでとは少し違う思いで見つめられるようになっていた。
西の清須には、自分を待つ人がいる。
市姫は、過去を知った上で、自ら翔次を選んだ。その思いを軽んじることなく、これからの人生をともに歩む。それもまた、翔次が新たに背負うべき務めであった。
(……今度こそ、守り抜こう)
戦場の兵だけではない。民の暮らしも、仲間との絆も、そして自分を信じてくれた人の心も。
翔次は、しばらく夜風の中に立っていた。
長い年月、彼を苦しめてきた胃の痛みが、今宵だけは静まっていた。
すべての罪が許されたわけではない。歴史を変えた責任が消えたわけでもない。
それでも、明日へ向かう道は開かれた。
不敗の軍師・鍋蓋翔次は、今宵初めて、軍略の先にある自分自身の人生を、静かに思い描いていた。
愛する人を迎え、戦を避けるために積み重ねてきた知恵を、これからは平穏な暮らしを守るためにも役立ててゆく。
それは、彼にとって新たな戦いの始まりであると同時に、長い苦闘の果てにようやく見えた、ひとつの希望でもあった。




