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狂った歴史と、不敗の軍師~信長を死なせた男、今川家を支えて魔王に挑む~  作者: チャプタさん


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第五十話:越前・敦賀への進出

第五十話 越前・敦賀への進出


 北近江の浅井備前守長政が、領地と家臣団を保ったまま織田十郎信照との不可侵通商の盟約を結んでから、二月あまりが過ぎた。


 永禄十一年、睦月。


 駿府には冬の冷気が満ち、今川館の庭池に薄氷が張る朝もあった。されど、東海道の宿駅には商人の往来が絶えず、駿河の茶、遠江の塩、三河の米を積んだ荷駄が街道を行き交っていた。


 境川の守りは堅く、駿府の市には諸国の品々が集まる。今川義元が築いてきた領国は、戦を避けながら富を蓄える道を着実に歩んでいた。


 だが、西の情勢は静かに変わりつつあった。


 琵琶湖の水運と街道を通じて、信照の影響は北近江からさらに北へと及び始めていた。湖の北岸から山道を越えれば、日本海に面した越前国の敦賀湊へ至る。


 その朝、駿府・今川館の奥御殿には、雪をまとった旅装束の男が平伏していた。


 今川家の乱波頭、伴野弥四郎である。


 頬は北国の寒風に荒れ、顔には疲労の色が濃い。だが、その眼差しには、ただならぬ報せを持ち帰った者の緊張が宿っていた。


「弥四郎。北陸の調べ、いかに相成った」


 鍋蓋翔次は、机上の湯呑みを置いて尋ねた。


 傍らには岡部元信、三浦上総介、朝比奈泰朝が控えている。


「申し上げまする。北近江より深坂越えを経て、越前国・敦賀湊の情勢を探ってまいりました。そこで、思いもよらぬ動きが起きておりまする」


「敦賀か」


 翔次は机上の絵図に目を落とした。


 敦賀は日本海に面した良港である。北陸の海産物や米、木材などを積んだ船が寄り、荷は湊から陸路で琵琶湖北岸へ運ばれる。湖上の船に積み替えれば、大津を経て京へ向かうこともできた。


 日本海と畿内を結ぶ、古くからの大切な道筋である。


「朝倉家は、敦賀をどのように治めておる」


 元信が問うた。


「朝倉家は、敦賀の湊とその周辺に権勢を及ぼしておりまする。されど、廻船問屋や船宿、荷を運ぶ馬借らの間では、近ごろ不満が募っていたとのこと。そこへ、近江の変化が伝わったのでございます」


「浅井と信照の盟約か」


「左様にございます。琵琶湖を通る荷の扱いや街道の通行をめぐり、信照公の影響下にある土地では、商人の負担を軽くし、往来の安全を守ろうとする取り決めが広がっておりまする」


 弥四郎は懐から密書を取り出し、翔次の前へ差し出した。


「敦賀では、廻船問屋や船宿の者たちが寄り合いを開き、清須の信照公へ使者を送りました。商いの道を守ること、通行の負担を改めること、そして湊の自治を認めることを求めたのでございます」


「湊の自治……」


 三浦上総介が眉を寄せた。


「越前は朝倉家の勢力下にある。領主の許しもなく、湊の者どもが勝手にそのようなことを求めるとは」


「朝倉家が認めたわけではございませぬ」


 弥四郎は慎重に言葉を選んだ。


「されど、敦賀の商人たちは、信照公の白旗を掲げることを決めたのでございます。湊のすべてが信照公の支配下に入ったわけではありませぬ。朝倉方の役人もおりますし、兵もおります。商人たちは、白旗を掲げる者同士で通商の取り決めを守り、互いの荷を妨げぬよう求めておりまする」


 部屋に沈黙が落ちた。


 白旗を掲げる。それは、領地を明け渡すことでも、領主を捨てて臣下となることでもない。


 だが、浅井家の盟約と同じに考えることもできなかった。


 浅井長政は、一国を治める領主として、自ら信照との盟約を選んだ。対して敦賀の商人たちは、朝倉家の勢力下にある湊で、領主の承認を得ぬまま別の秩序に加わろうとしている。


 同じ白旗でも、その立場はまるで違う。


「朝倉義景は、黙って見ておるのか」


 元信が低く尋ねた。


「黙認しておるわけではございませぬ。宿老たちの間では、白旗を掲げた商人らを捕らえ、湊を押さえ直すべしとの声も上がっておりまする。されど、商人や船主を一斉に敵に回せば、船が他の湊へ逃げ、荷を運ぶ者も離れてしまう。敦賀の商いが衰えれば、朝倉家もまた大きな損失を被りまする」


「なるほどな」


 翔次は密書に目を通し、静かに頷いた。


「湊は、船着き場と倉だけで成り立つものではない。船主が船を出し、商人が荷を集め、馬借が山道を越え、宿や問屋が人と物をつなぐ。その者たちが去れば、湊の形が残っていても商いは立ちゆかぬ」


「御意にございます」


 弥四郎が応じた。


「しかも、南には琵琶湖がございます。浅井家との盟約によって、敦賀の商人が湖上の通商路を利用しやすくなると見込んでおるようです。ただし、浅井家が朝倉家の船を締め出したわけではございませぬ。浅井家は、自らの領内の通商を守り、信照公との盟約を履行しておるのでございます」


「そうであろうな」


 翔次は絵図の上に指を置いた。


 浅井家が朝倉の船を一律に拒めば、通商の道を開くという盟約の趣旨に反する。信照の秩序が商人たちの目を引くのは、ただ相手を締め出すからではない。道を開き、取引の約束を守り、参加した者に利益をもたらすからだ。


 その原則を崩せば、白旗の意味も変わってしまう。


「信照は、越前へ兵を送ったのか」


「いいえ。一兵も送っておりませぬ。使者が敦賀へ赴き、商人たちの願いを聞いたとのこと。されど、信照公がどこまで約束したかは、まだ詳しく分かっておりませぬ」


 翔次は目を細めた。


 兵を送らず、城を攻めず、使者を遣わしただけで、朝倉家の勢力下にある湊に白旗が掲げられた。


 されど、これをもって敦賀が信照のものになったと考えるのは早計である。朝倉家にはなお兵があり、領主としての権威も残っている。白旗を掲げた商人たちが、その圧力に耐えられる保証もない。


 信照が手にしたのは、敦賀という土地そのものではなかった。


 敦賀の商人たちが、信照の秩序に加わることを望み始めたという事実である。


「……これは、商人だけの騒ぎでは済まぬな」


 翔次は立ち上がり、壁際に広げられた大絵図へ歩み寄った。


 筆を手に取り、越前の敦賀から琵琶湖北岸の塩津へ、そこから大津へと線を引く。さらに草津を経て美濃、尾張へと視線を移し、伊勢湾へ続く道筋をたどった。


 その線上にある土地が、すべて信照の直轄領というわけではない。


 浅井は浅井の領国を治め、朝倉は朝倉の領国を治めている。美濃では、国人たちがそれぞれ白旗を掲げて信照の秩序に近づきつつある一方、稲葉山城には斎藤家の権威がなお残っている。街道沿いの町や湊も、それぞれ異なる領主や寺社、町衆の権益を抱えていた。


 それでも、互いに通商を認め、道の安全を守る約束が積み重なれば、人と物の流れは領国の境を越えてゆく。


「……道がつながる、か」


 翔次は呟いた。


 日本海から琵琶湖へ。琵琶湖から京へ、あるいは美濃を経て伊勢湾へ。


 領地を一つずつ奪い取るのとは違う。領国の境目を残したまま、商いの道をつなぎ、争いを避ける利益を各地へ広げてゆく。その道を守る者が増えるほど、戦を起こすことの代価は大きくなる。


 だが、道がつながることと、その道が守られることは別であった。


 敦賀の商人たちが白旗を掲げても、朝倉家がそれを認めたわけではない。信照が商人たちの願いを聞き届けたとしても、朝倉方の役人や兵が手を引く保証はなかった。


 白旗は、争いを消す魔法の印ではない。


 異なる立場の者たちが、共通の取り決めを求めて動き始めた。その意思を、信照がどこまで現実の秩序へと変えられるかが問われているのだ。


「太守様へ言上いたす」


 翔次は筆を置いた。


「敦賀の動きは、今川家にとっても見過ごせませぬ。信照の通商圏が北陸へ伸びるならば、我らはその流れを敵とみなすだけでなく、どのような利益と危うさをもたらすか、見極める必要がございまする」


 その日のうちに、翔次は今川義元の前で報告を行った。


 上段の床几に座す義元は、小豆色の直垂をまとい、白扇を膝に置いていた。敦賀の商人たちが信照の白旗を掲げたと聞いても、驚きに声を荒らげることはなかった。


「浅井に続き、今度は敦賀の商人か」


 義元は絵図を見下ろした。


「信照は、領地を奪うより先に、道を結ぼうとしておるようじゃな」


「御意にございます。されど、敦賀の湊が信照の支配下に入ったわけではございませぬ。朝倉家の権威は残り、商人たちの願いがどこまで認められるかも定まっておりませぬ」


「よい。事実と見込みを混同せぬのは、軍議において肝要じゃ」


 義元は満足げに頷いた。


「商人が白旗を掲げたからとて、直ちに一国が動くものではない。されど、商人が去り、船が寄らず、荷が運ばれなくなれば、領主とてその影響を免れぬ。信照は、その道理をよく知っておるのだろう」


 三浦上総介が進み出た。


「太守様。信照の通商路が敦賀までつながれば、京の周辺のみならず、日本海の物資もその影響を受けましょう。西の勢力が、さらに強まるのではございませぬか」


「強まるであろうな」


 義元は即座に答えた。


「されど、それだけで我が今川が弱まるわけではない。天下の商いは一筋の道だけで成り立つものではないからの」


 義元は扇の先で、駿河、遠江、三河を順に示した。


「我らには東海道がある。駿河の茶、遠江の塩、三河の米。そして、海と陸の道を守る兵がある。境川の守りは堅く、伊良湖の海防も整っておる。北条との盟約も健在じゃ」


 その声には、揺るぎない自信があった。


「信照が西に道を築くならば、我らは東海道をさらに豊かにすればよい。敵の成したことを見て恐れるだけでは、国は治まらぬ。学ぶべきところは学び、我らの強みはさらに磨く。それが太守たる者の務めじゃ」


 諸将は深く頭を下げた。


 義元は翔次へ目を向けた。


「翔次。信照の道がどこまで伸びるか、引き続き探らせよ。されど、今川の政をその動きに振り回されてはならぬ。民を飢えさせず、領国を富ませ、東海道の安寧を保つ。それが我らの第一の務めじゃ」


「ははっ。しかと承りましてございます」


 軍議が終わった後、翔次は一人、今川館の庭を歩いた。


 冬の風が木々を揺らし、遠くの空には富士の白い頂が見えていた。


 信照は、領土を広げることだけを天下への道とは考えていないらしい。


 浅井長政は、領地を失うことなく盟約に加わった。敦賀の商人たちは、朝倉家の勢力下にありながら、通商の安全と自治を求めて白旗を掲げた。


 それぞれの立場も、事情も異なる。同じ旗を掲げたからといって、同じ主に仕えることになったわけではない。


 それでも、互いの領地を認め、通商の道を守り、争いを避けるための取り決めが積み重なれば、やがて大名たちの間にも新たな秩序が生まれるのかもしれない。


 大名が己の領国を治めることと、天下の争いを抑えること。その二つは、必ずしも相反するものではないのだろうか。


 それぞれの領国と家臣団を保ちながら、共通の約束によって争いを抑える道を選ぶ日が来るのかもしれない。


 敦賀の商人たちの願いが、朝倉家との争いに変わる可能性もある。信照の秩序が、すべての者に等しく利益をもたらすとも限らない。約束を破る者が現れたとき、誰がそれを正し、どのように秩序を守るのか。その答えも、まだ見えてはいなかった。


(信照……お前は、天下を一つの領地にしようとしているのではないのかもしれないな)


 翔次は西の空を見つめた。


 土地を奪い、敵を従わせるだけが天下の形ではない。異なる領主がそれぞれの国を治めながら、共通の秩序を守ることで、戦乱を終わらせる道がある。


 だが、その秩序は、ただ人々が望むだけで成り立つものではない。望む者が増えるほど、それを脅かす者も現れる。信照がそのとき、何をもって約束を守らせるのか。それこそが、いずれ問われることになる。


 翔次には、まだ答えが分からなかった。


 ただ、敦賀の白旗は、浅井の盟約に続く新たな問いを突きつけていた。


 領地を奪わずとも、秩序は広がるのか。


 そして、その秩序は、武力によって保たれてきた領国と、いつか肩を並べることができるのか。


 冬の風が、駿府の庭を吹き抜けていった。


 日本海へ通じる道は、まだ完成してはいない。


 されど、北の湊に掲げられた白旗は、信照の試みが一人の領主の思惑だけではなく、商いを営む者たち自身の選択によって、新たな局面へ進み始めたことを告げていた。

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