第四十九話:北近江、浅井の白旗
第四十九話:北近江、浅井の白旗
北条左京大夫氏康が甲相駿三国同盟の修好を改めて誓い、駿府へ使者を遣わしてから、二月あまりが過ぎていた。
永禄十年、霜月。
東海道の山野は秋の色を失い始め、朝ごとに冷気が草葉を白く染めた。駿府の町には遠江の塩や駿河の茶、三河の米を求める商人が行き交い、街道を往来する荷駄の列が絶えることはない。
相模の北条と甲斐の武田も、今川領へ軽々しく手を伸ばせる状況にはなかった。
東に確実な安寧を築いた今川家にとって、目を離せぬ相手は常に西にあった。
南近江の草津、大津に根を張った織田信照の勢力が、琵琶湖の水運を通じて北へと影響を広げている。湖の北岸には、浅井備前守長政が治める北近江があった。
小谷城を本拠とする浅井家は、六角氏の圧迫に抗して勢力を伸ばした若き大名である。長政は武勇のみならず、領内をまとめる手腕にも優れていた。容易に屈する男ではない。
その浅井家が、信照との間に何らかの取り決めを結んだという。
駿府・今川館の作戦部屋には、近江国の水陸を描いた絵図が広げられていた。
鍋蓋翔次は絵図の前に座し、向かいに控える乱波頭・伴野弥四郎の報告を待っていた。岡部元信と松平元康も同席している。
「弥四郎。北近江の様子、詳しく申せ」
「はっ。小谷城の浅井備前守長政殿は、清須の織田信照公との間に、不可侵と通商に関する盟約を結ばれました」
「浅井が信照と盟約を?」
元信が眉をひそめた。
「六角と争い、江北に地歩を築いたあの浅井が、信照の軍門に降ったと申すのか」
「いいえ。降ったのではございませぬ」
弥四郎は、はっきりと首を横に振った。
「長政殿は領地を差し出してはおりませぬ。家臣を人質に出したわけでもなく、信照公への臣従を誓ったわけでもございませぬ。浅井家はこれまでどおり小谷城にあり、北近江の政は長政殿が執り行います」
「ならば、何を約したのじゃ」
「互いに領内へ兵を進めぬこと。双方の商人が定められた道と湊を行き来することを認め、通行の妨げとなる関銭を改めること。まずは、その二つが取り決めの柱にございます」
元信は、すぐには答えなかった。
戦国の世において、領主同士が結ぶ盟約は珍しくない。されど、その多くは敵に対抗するための軍事同盟であり、婚姻や人質、軍役の約束を伴うことも多かった。
今回の盟約は、それらとは様子が違う。
「浅井は、信照に兵を貸すのか」
「そのような約束はございませぬ」
「いざ信照が戦となれば、浅井も出陣するのか」
「出陣の義務もございませぬ」
「……何も差し出さず、何も負わず、それで盟約と申すのか」
「浅井家にとっては、戦を避け、商いを広げるための盟約にございます」
弥四郎の答えに、部屋の空気が静まった。
翔次は、絵図に描かれた琵琶湖を見つめていた。
湖の北には塩津や海津の湊があり、湖上の船は大津へと物資を運ぶ。大津からは京へ、草津からは美濃や伊勢へと道が延びていた。
そこを行き交うのは兵だけではない。米、塩、布、木材、鉄器、魚、そして人々の暮らしを支える無数の品々である。
街道が安全になり、通行の負担が軽くなれば、商人はそちらへ集まる。商人が集まれば湊や宿場が栄え、領民の暮らしも潤う。
浅井長政にとって、信照との盟約は、領国を手放さずにその利益を得られる選択だったのだ。
「……長政殿は、信照に従ったのではない」
翔次は、ゆっくりと言った。
「信照と争わぬ道を、自ら選んだのだ」
元康が絵図へ目を落とした。
「浅井家が信照の家臣にならずとも、双方の民が行き来し、商いを続けられる。領主が違うからといって、必ずしも争う必要はないということにござるな」
「そういうことだ、元康殿」
翔次は頷いた。
「されど、これは浅井家だけの話では終わるまい」
その声には、かすかな苦みが混じっていた。
信照の白旗は、これまで尾張の村々や豪族の領内で見られてきた。白旗を掲げたからといって、ただちに土地を明け渡すわけではない。旗を掲げた者たちは、それぞれの暮らしや領地を保ちながら、信照が差し出す保護と通商の仕組みに加わっていた。
そこへ今度は、浅井という一国の大名が加わろうとしている。
白旗は、信照の領土が広がったことを示すだけの旗ではない。
信照が築こうとする天下の秩序に、各々が自らの意思で参加したことを示す旗なのだ。
もし、この仕組みが大名の間にも広がるならば。
領地を奪わず、家臣を取り上げず、ただ争わぬことと商いの道を守ることを約し、それぞれが己の領国を治めながら、一つの秩序を支える。
それは、戦国の世にあって、これまで誰も本気で成し遂げようとしなかった天下の形であった。
翔次は、思わず拳を握った。
(武田であろうと、北条であろうと、上杉であろうと……いずれは、同じ道を選ぶ者が現れるかもしれない)
まだ遠い先のことだろう。天下の大名が皆、同じ秩序に加わるなどとは言えない。
しかし、ひとつの先例が生まれたのだ。
それだけで、戦国の常識には小さくない揺らぎが生じていた。
「されど、信照の思惑が分からぬ」
元信が腕を組んだ。
「領地も人質も求めぬというなら、あの男は何を欲しておるのじゃ。商いを許すだけで、何の得がある」
「得がないはずはございませぬ」
翔次は答えた。
「ただし、目先の領地や銭だけを見ていては、あの男の狙いは分からぬのでしょう」
通商の道が安全であれば、人々はそこを選ぶ。複数の領主がその道を守るようになれば、互いに争うことの損失は大きくなり、平穏を保つことの利益は増してゆく。
やがて、誰もがその道を失いたくないと思うようになる。
信照が求めているものは、単に土地を増やすことではないのかもしれない。
人々が自ら守ろうとする秩序を築くこと。それこそが、あの男の真の狙いなのではないか。
(厄介なことを考える男だ……)
翔次は胸の内で呟いた。
兵を動かせば、敵は槍を取る。城を攻めれば、城兵は命を懸けて抗う。されど、争わずに暮らせる道を示されたとき、人は必ずしも戦いを選ばない。
その選択を、力ずくで覆すことは難しい。
しかも、信照は浅井家を臣従させたわけではない。浅井が自ら決めたことだからこそ、盟約は浅井の面目を損なわずに成り立っている。
「……太守様に、ご報告せねばならぬ」
翔次は絵図を巻き始めた。
この動きを、ただ信照の勢力拡大として報告するわけにはいかない。今川家が向き合うべきは、北近江の一領主が敵対を避けたという事実だけではないのだ。
その日の正午、翔次は今川館の大広間において、今川義元に一部始終を言上した。
上段に座す義元は、小豆色の直垂をまとい、白扇を膝の上に置いていた。報告を聞き終えても、顔色ひとつ変えなかった。
「浅井長政は、領地を保ったまま信照と和を結んだか」
「御意にございます。軍役も人質も求められず、浅井家は北近江の政をこれまでどおり執り行いまする」
「ふむ」
義元は白扇の要を指先で軽く叩いた。
「長政も一国を預かる身じゃ。勝ち目の薄い戦を避け、領民を富ませる道を選んだとすれば、愚かな判断ではあるまい」
その言葉に、諸将の間から小さなざわめきが起きた。
西に勢力を広げる信照を、今川家にとっての脅威と見る者は多い。されど、義元は敵を侮らず、浅井長政の決断そのものも軽んじなかった。
「されど、太守様」
三浦上総介が進み出た。
「浅井が信照と結んだとなれば、琵琶湖の水運はますます信照の影響を受けましょう。北陸から京へ向かう荷も、近江から美濃へ抜ける荷も、あの男の築く通商路に頼ることとなりかねませぬ」
「それは、確かに憂うべきことじゃ」
義元は頷いた。
「道を押さえる者は、兵を押さえる者にも勝ることがある。されど、道を通る者すべてが、その道を設けた者の家臣になるわけではない」
義元の目が、翔次へ向いた。
「翔次。そなたは、どう見る」
「浅井家が信照に臣従したのであれば、今川家としても軍事上の備えを改める必要がございましょう。されど、今回の盟約はそれとは異なりまする」
翔次は、絵図を前に進み出た。
「長政殿は領地を保ち、家臣団を保ち、己の領内を治める権を失っておりませぬ。ただ、信照の築く通商の道を認め、争わぬことを約した。それによって浅井家が富み、領民が安らぐならば、長政殿が盟約を破る理由は少のうなりましょう」
「ならば、信照の勢力が増したことには変わりあるまい」
「御意。されど、その力は城を落として得たものとは異なりまする。武力で奪った領地であれば、城を守る兵を置き、反乱を警戒せねばなりませぬ。ところが、今回の浅井家は、自らの利を見定めて盟約に加わったのでございます」
翔次は言葉を切り、近江の絵図を指した。
「信照が広げておるものは、領地ばかりではありませぬ。領主が違っても、人々が安心して行き来できる道。互いに戦わず、商いを続けられる取り決め。その仕組みが広がれば、信照の旗を仰ぐ者が増えるたび、戦わずしてその影響は深まってゆきましょう」
義元はしばし黙した。
やがて、白扇を静かに開いた。
「なるほど。領土を広げるのではなく、己の秩序を受け入れる者を増やすか」
その声音に、感心とも警戒ともつかぬ響きがあった。
「天下の大名が皆、己の領地を捨てて一人の主に従うとは限らぬ。されど、己の領地を保ったまま、争いを避けるために一つの取り決めへ加わることならば、考えぬ者ばかりでもあるまい」
「恐れながら、そのとおりにございます」
「信照は、武力によって天下を奪うのではなく、天下の者どもが自らその秩序を望むよう仕向けておるのかもしれぬな」
義元は白扇を閉じ、居並ぶ重臣たちを見渡した。
「されど、我らは我らの道を行く。東海道を守り、民を飢えさせず、商いを盛んにし、領国を豊かにする。今川家の政は、信照の旗がいかに広がろうとも揺らがぬ」
その言葉には、少しの虚勢もなかった。
「武田も北条も、我が領国を軽々しく侵せぬ。三河の元康、遠江の泰朝、境川を守る将兵、そして駿府に集う商人たち――皆が己の務めを果たす限り、我が東海道は安泰じゃ。西に新しき秩序が生まれるならば、我らはそれを見定め、我らの国をさらに強くするまでよ」
「太守様の御意、しかと承りましてございます!」
諸将が一斉に平伏した。
義元は、翔次へ視線を戻した。
「翔次。信照の動きに目を配れ。されど、いたずらに恐れることも、軽んじることもならぬ。あの男が何を築こうとしておるのか、確かなところを見極めよ」
「ははっ」
翔次は深々と頭を下げた。
軍議が終わると、翔次は今川館の庭へ出た。
冷たい風が枯れ始めた木々の枝を揺らし、遠くの空には富士の白い頂が見えていた。
浅井長政は、信照の家臣にはならなかった。
それでも、信照と争わぬことを選んだ。
その選択によって、北近江の民は戦を避け、商人は新たな道を得る。信照は浅井の領地を奪わずとも、己の築く秩序を一歩先へ進めたのだ。
翔次は、ふと市姫のことを思った。
前世の記憶では、織田信長は妹を浅井長政へ嫁がせ、両家の同盟を結んだ。政略のために結ばれた婚姻は、やがて戦乱の中で悲劇へと変わる。長政は信長と敵対し、小谷城は落ち、長政は命を落とす。市姫は夫と別れ、幼い娘たちを連れて城を去ることになる。
だが、この世では信長は桶狭間で命を落とした。
市姫はいまも清須にあり、民の暮らしを案じながら日々を過ごしている。浅井長政との婚姻が持ち上がることもなく、誰かの野心を満たすために嫁がされることもなかった。
信照は、妹を政略の道具にしなかった。
それは、ただ信照の策が巧みであるという話ではない。
市姫が市姫自身の人生を歩む余地を、あの男が守っているということだった。
(……それで、よかったのだ)
翔次は、胸の内で静かに呟いた。
市姫がこの先どのような道を選ぶのか、翔次には分からない。彼女が誰を信じ、誰と生きることを望むのか。それを決めるのは、彼女自身であるべきだ。
少なくとも、国と国との盟約のために、その心を差し出させる必要はない。
そう考えると、翔次の胸にあった強張りが、わずかに緩んだ。
彼は再び、西の空へ目を向けた。
尾張、美濃、そして琵琶湖の北。
白旗は、征服された土地に立つ旗ではない。少なくとも、信照が目指すものが真に今見たとおりの仕組みであるならば、それは領主が自らの意思で、争わぬ秩序に加わったことを示す旗なのだ。
浅井の白旗は、その先例となった。
この仕組みがどこまで広がるのか。越前の湊は、さらに北の大名たちは、いつか同じ旗を受け入れるのか。
まだ、誰にも分からない。
されど翔次には、ひとつだけ確かなことがあった。
信照は、城を落とすことだけを天下への道とは考えていない。
戦わずに済む道を作り、その道を守ることに利益を見いだす者を増やしてゆく。そうして、互いに異なる領国を持つ者たちを、一つの秩序の下へ結びつけようとしている。
(信照……お前は、本当に天下を変えるつもりなのか)
翔次は小さく息を吐いた。
その問いへの答えは、まだ見えない。
ただ、北近江に掲げられた白旗は、これまでとは違う天下の形が、遠い夢物語ではなくなりつつあることを告げていた。
そして、その旗が次に向かう先には――日本海へ通じる越前の道があった。




