第四十七話:南近江への波及
第四十七話:南近江への波及
駿府において寺社の代表らと話し合い、今川領を行き交う者の安寧と通商の便を図る手立てを定めてから、三月あまりが過ぎた。
永禄十年、水無月の末。
駿河の山野では蝉の声が日に日に高まり、駿河湾の波頭は夏の日差しを受けて白く輝いていた。
境川の守りは、刈谷・鷲塚・挙母をはじめとする要地に兵を配し、道筋と渡河点を押さえる形に整えられつつあった。兵をいたずらに散らさず、要所を固め、敵の動きに応じて互いに助け合う。海辺でも、渥美半島から伊良湖に至る沿岸の見張りと船の往来を改め、異変を早く察する備えを重ねている。
それは、どこにも隙のない絶対の守りではない。人が守る以上、見落としもあれば、思いがけぬ事態も起こる。
ゆえに翔次は、万事を一つの策に委ねることを避けていた。敵がどこを突いても、すぐさま国の根幹を揺るがされぬよう、兵糧、道、渡し、城の備えを結び合わせる。東海道の安寧は、そうした地道な積み重ねによって支えられていたのである。
その一方、西の彼方では、今川の守りとは異なる理によって、世の形が変わり始めていた。
水無月の末、駿府・今川館の奥御殿に、今川家の乱波頭、伴野弥四郎が駆け戻ってきた。
旅装は泥に汚れ、草鞋の緒は擦り切れている。長い道のりを急いだ疲れもさることながら、その面には、見聞きした事柄を容易には呑み込めぬ者の困惑が色濃く浮かんでいた。
「……弥四郎。まずは息を整えよ。何があった」
机に向かっていた鍋蓋翔次が筆を置き、静かに声をかけた。
その傍らには岡部元信、三浦上総介、朝比奈泰朝らが控えていた。弥四郎がただならぬ様子であることを見て、誰もが口を閉ざした。
弥四郎は一礼し、懐から折り畳んだ書付を取り出した。
「申し上げまする。美濃を越え、近江南部の様子を探って参りました。されど……観音寺城の六角家を巡り、尋常ならざる変化が起きておりまする」
「六角家に、何が起きたと言うのだ」
元信が眉を寄せた。
「家中の乱れが、いよいよ領国の隅々にまで及んでおりまする」
弥四郎は書付を広げ、近江の地を指で示した。
「かつて六角義賢殿は、畿内の諸勢力と渡り合い、南近江に大きな勢力を築いておられました。されど、観音寺騒動以来、家中の結びつきには綻びが生じております。重臣を失ったことへの不安からか、義治殿とその周辺は、国人や町衆への締め付けを強めているとのこと」
「締め付けとは、段銭や関銭か」
「左様にございます。領内の道や市に課される負担が増し、商人らは荷を運ぶ道を変え始めました。美濃や尾張では、関銭を軽くし、往来の安全を約する道が広がっておりまする。近江の商人たちも、そちらへ荷を回せば、余計な銭を払わずに済む。六角家の蔵に入る銭は減り、家中の不満はさらに募る――そのような有様にございます」
翔次は黙って聞いていた。
関銭を取れば、目先の収入は増える。だが、商人がその道を避ければ、やがて市も宿も痩せていく。人と荷が集まるからこそ銭が生まれるのであって、道を押さえれば富が湧き出るわけではない。
それは、今川領の流通を整える際、翔次自身が幾度となく考えてきたことでもあった。
「六角家の力が衰えたとしても、ただちに領国が崩れるものではあるまい。近江には、六角に従う者も、なお多く残っておろう」
「御意にございます。観音寺城が落ちたわけではありませぬ。六角家が南近江のすべてを失ったと申すのも、まだ早うございましょう」
弥四郎は慎重に言葉を選んだ。
「されど、領内の一部では、すでに別の動きが始まっておりまする」
「別の動き……信照か」
三浦上総介が低く呟いた。
「はい」
弥四郎は頷いた。
「尾張から美濃へ広がった信照殿の保護の仕組みを知り、甲賀の土豪や近江の村々が、使者を清須へ送っておるとのこと。六角家に対して一斉に兵を挙げたという話ではございませぬ。領主の支配から離れることを願い出た者もあれば、村の自治を認め、往来の安全を守ってほしいと申し入れた者もある。商人の中には、荷を通す道と市の保護を求める者もおりまする」
「信照の旗を掲げた者もいるのか」
「おりまする。ただし、すべての村や豪族が同じ考えというわけではございませぬ。白旗を掲げた家もあれば、まだ様子を見ている家もある。六角家に忠節を尽くそうとする者も、もちろん残っております」
その言葉に、翔次は小さく頷いた。
ようやく、報告の輪郭が見えてきた。
信照は、近江へ大軍を送り込んだのではない。城を包囲し、降伏を迫ったのでもない。
それでも、領主の支配に不満を抱く者や、道の安全と商いの自由を求める者たちが、信照の保護を頼り始めている。彼らが望んでいるのは、必ずしも織田家への服属ではない。自分たちの土地と暮らしを守るために、より都合のよい結びつきを選ぼうとしているのだ。
だが、その選択が積み重なれば、国境の意味は変わる。
「甲賀だけではございませぬ」
弥四郎は続けた。
「蒲生郡や野洲、栗太の一部でも、村々や在地の有力者が、信照殿の家臣筋へ使者を送っておりまする。なかには、信照の保護を得たと称して白旗を掲げた者もいる。されど、そうした申し入れが、どこまで正式に認められているのか、まだ確かめきれてはおりませぬ」
「蒲生の者まで動いたか……」
朝比奈泰朝が思案げに言った。
「蒲生郡には、有力な国人もおられると聞いたことがある。名を挙げただけで、その一族や領内の者がすべて信照に従ったと見るのは早計であろう」
「仰せの通りにございます」
弥四郎は深く頭を下げた。
「某が確かめたのは、あくまで使者の往来と、白旗を掲げた村々の存在にございます。領内全体が一つの意思で動いているわけではございませぬ」
義元は、ここまで一言も挟まずに聞いていた。
やがて、上段から静かな声が落ちた。
「弥四郎。近江の街道は、いかが相成っておる」
「はっ。美濃から近江へ入る道筋では、信照の保護を頼る商人の往来が増えております。とりわけ草津の宿場では、東海道と中山道を行き交う荷が集まり、商人たちが通行の便を求めているとのこと。関銭の負担が軽くなれば、荷はそちらへ流れましょう」
「大津はどうじゃ」
義元が問うた。
弥四郎は一拍置いてから答えた。
「大津でも、船宿や問屋の一部が、清須から来た商人らと話を進めておりまする。琵琶湖の水運を使い、湖上を運んだ荷を大津で陸揚げし、逢坂を越えて京へ運ぶ。その道筋の安全と、荷の扱いにかかる負担を軽くすることを求めている様子にございます」
元信が顔を上げた。
「大津といえば、京の都にほど近い。そこに信照の息がかかれば、都の者どもも無関心ではおられまい」
「されど、大津の町がことごとく信照の手に落ちたわけではございませぬ」
翔次が言葉を挟んだ。
「船宿や問屋の一部が通商の便を求め、信照方の商人と結びつき始めた。その段階でございましょう。町のすべてが白旗を掲げたという話と、商いの一部が信照の保護を頼る話とは、分けて考えねばなりませぬ」
元信は口をつぐんだ。
翔次は絵図を引き寄せ、近江の道筋を確かめた。
草津は、東海道と中山道が合流する要地である。そこから西へ進めば大津に至り、逢坂を越えれば京へ通じる。琵琶湖の水運は、湖岸の湊を結び、北陸や北近江からの荷を南へ運ぶ役を担っていた。
道と湖。その二つが結びつけば、兵を進めずとも、人と荷の流れを変えることができる。
しかし、草津と大津を押さえたからといって、近江一国を支配したことにはならぬ。ましてや、京の都を手中に収めたわけでもない。
それでも――。
(……城を攻め落とさずして、近江の街道が信照の庭となり始めているのか)
翔次は、絵図に置いた指を止めた。
彼の脳裏に、歴史の記憶がよみがえった。
本来の歴史では、永禄十一年、織田信長は足利義昭を奉じて上洛を目指す。六角氏はその進路を塞ぎ、箕作城などで抗戦した末、信長の軍勢に敗れて観音寺城を退くことになる。
その後に続くのは、軍勢による街道の制圧と、城をめぐる戦であった。
だが、いま目の前にある動きは違う。
信照の旗を掲げた村々が、すべて織田家の直轄領になったわけではない。六角家の城も、いまだ健在である。それなのに、商人は荷を運ぶ道を選び、村々は守りを頼む相手を選び、在地の豪族たちは自らの立場を見定め始めている。
信照の勢力は、城壁の内側を塗り替えるのではなく、城壁の外側にある人々の選択から広がっていた。
「……血を流さぬ上洛の先触れ、ということか」
翔次の口から、かすかな呟きが漏れた。
戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり。
孫子の言葉が胸をよぎる。
ただし、いま信照が屈しているのは、六角家の兵そのものではない。関銭や支配への不満を抱えた人々が、別の道を選び始めているのだ。
武力による侵攻であれば、守る側は城を固め、兵を集め、敵を退けることができる。だが、商人が別の道を選び、村々が別の保護を求める動きには、刃を向けるだけでは対処できない。
力ずくで押し戻せば、人々の不満はさらに募る。かといって、放置すれば、道と市の実利が別の勢力へ流れていく。
これは単なる領土争いではなかった。
人々が、どの支配を受け入れ、どの道を通り、誰に暮らしを守ってもらうのか。その選択の積み重ねが、国の形を変えようとしているのである。
「翔次殿」
元信が重い声で呼びかけた。
「尾張と美濃だけでも手に余るというのに、伊勢に続き、近江にまで信照の影が及んでおる。草津、大津があの男の通商圏に組み込まれれば、京の都も無関係ではいられまい。将軍家や三好の者どもは、どう動くであろうか」
「それは、まだ分かりませぬ」
翔次は率直に答えた。
「京の公家や町衆が、信照殿を歓迎していると決めつけることもできませぬ。荷が滞りなく届くことを喜ぶ者はおりましょう。されど、近江の道や湊を通じて一つの勢力が力を増せば、それを恐れる者も出てくる。実利を得る者と、己の権威を脅かされる者とでは、同じ事柄を見ても受け止め方が違いまする」
「では、信照の動きは、都を敵に回すことにもなり得るのか」
「その可能性はございましょう。されど、今の段階で、信照殿が都を攻めるつもりだと見るのも早計にございます。少なくとも、報せにある限り、あの方は軍勢を率いて近江へ押し入ったわけではない。商人や在地の者たちが、自ら保護を求めて動いているのです」
翔次は、絵図の上で草津から大津へと指を移した。
「ここが肝要にございます。信照殿の勢力が広がっているのは、城を落としたからではない。人々が、そちらへ荷を運び、そちらへ守りを頼み、そちらと結ぶ方が得だと考え始めたからです」
義元は、静かに目を細めた。
「ならば、信照は近江を攻めておるのではなく、近江の者どもに、己を選ばせておるということか」
「御意にございます」
翔次は深く頭を下げた。
「しかも、その選択は一度に全てが定まるものではございませぬ。ある村は白旗を掲げ、隣の村は様子を見る。ある商人は信照方と結び、別の商人は六角家との商いを続ける。そのような小さな変化が積み重なり、いつしか、領主が命じずとも人と荷の流れが変わっていくのでございます」
義元は白扇を手に取り、絵図の上に目を落とした。
「……厄介な戦よな」
その声に、怒りも焦りもなかった。
「敵が攻めて来れば、備えを整え、迎え撃てばよい。されど、人々が己の利を求めて別の道を選ぶならば、ただ兵を集めるだけでは何も解決せぬ。国を治めるとは、城を守ることだけではないというわけか」
「左様にございます、太守様」
翔次は答えた。
「今川領においても、民が暮らしを立てられず、商人が道を避け、村々が守りを頼めぬようになれば、いずれ同じことが起こりましょう。信照殿の動きを恐れるだけでは足りませぬ。我ら自身が、なぜ民に選ばれているのかを問い続けねばなりませぬ」
義元の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「よい。敵を見て己を忘れるは、愚かなことよ。今川は今川の道を進む。東海道の民を守り、商いを滞らせず、兵をいたずらに損なわぬ。そこに揺らぎがなければ、他国の旗がどれほど広がろうと、我らの国がただちに崩れることはない」
「ははッ」
元信らが一斉に頭を下げた。
義元はさらに弥四郎へ目を向けた。
「近江の報せは、引き続き詳しく探れ。白旗を掲げた村の名、信照方へ使者を送った者の名、商人が通る道筋。それぞれを分けて確かめよ。風聞を事実と取り違えてはならぬ」
「はっ。承知仕りました」
「翔次」
「はっ」
「近江の変化を、ただちに我が領国へ当てはめる必要はない。されど、あの者が何をもって人々を引き寄せておるのか、その理は見定めておけ。敵の強みを知ることは、己の国を守ることにも通じよう」
「御意にございます」
翔次は平伏した。
義元は白扇を閉じ、絵図の東海道を軽く叩いた。
「我が今川は、我が今川の道を行く。西の動きに心を奪われ、東の守りを疎かにすることは許さぬ。境川の備えを保ち、海辺の警固を怠らず、駿府の市を栄えさせよ。兵を増やすことのみが強さではない。民が安んじて暮らせることこそ、国の力よ」
その言葉には、東海道の太守としての揺るぎない威厳があった。
「ははッ!」
重臣たちの声が広間に響いた。
軍議が終わると、翔次は一人、今川館の回廊へ出た。
夕暮れの空は茜色に染まり、遠くの山並みが薄墨のように沈んでいる。西の彼方には、尾張、美濃の山河がある。そのさらに向こうに近江があり、琵琶湖の水面を渡る風が、草津や大津の町々を吹き抜けているはずだった。
翔次は目を閉じ、絵図の上に見た道筋を思い浮かべた。
尾張、美濃、伊勢。そして南近江。
信照の白旗は、いまや複数の国にまたがる保護と通商の結びつきを生みつつある。だが、それは一枚の絵図を塗りつぶすように完成した版図ではない。六角家の支配はなお残り、近江の豪族も商人も、一様に信照へ従っているわけではない。
それでも、草津と大津にまでその影響が及び始めたことの意味は重かった。
草津で荷が集まり、大津で船と陸路がつながる。そこから逢坂を越えれば、京の都はすぐ目の前である。信照が京へ軍勢を進めずとも、近江の道と湊をめぐる動きは、いずれ都の政治にも影響を及ぼすことになろう。
(……城を攻め落とさずとも、国の形は変えられる。あの男は、それを証し立てようとしているのか)
翔次は胸元に手を当てた。
胃の腑の奥に、鈍い痛みが広がっていた。
桶狭間の夜から、すでに幾年もの月日が流れた。信長という巨星を失った織田家は、滅びるどころか、信照という得体の知れぬ男のもとで、かつてとは異なる力を育てている。
しかも、その力は、軍勢の数や城の堅固さだけでは測れない。
人々が自ら選び、互いに結びつき、道を通し、商いを守る。その積み重ねが、やがて大名の境を越えていく。
翔次は、今川の民を守り抜くと決めていた。境川の守りを整え、兵を無用に損なわず、東海道の平穏を保つ。その務めを捨てるつもりはない。
だが、目の前にある変化を、ただ遠い国の出来事として片づけることもできなかった。
(信照……お前は、どこまでこの世の形を変えるつもりなんだ)
西の空に、夕闇が静かに迫っていた。
今川の東海道は、いまなお守られている。けれども、その西では、城をめぐる戦とは異なる争いが、着実に広がり始めていた。




