第三十六話:甲斐の巨星、東海道を望む
第三十六話:甲斐の巨星、東海道を望む
甲斐国、府中――躑躅ヶ崎館。
盆地を取り囲む山々は、九月も半ばを過ぎて早や初秋の冷気に洗われ、遥か白根山や八ヶ岳の高嶺には、早くも朝夕の冷気が漂い始めていた。
吹き渡る山風は乾いて冷たく、館の庭に植えられた赤松の古木が、時折、唸るような葉擦れの音を響かせている。
この険阻なる山深き館の最奥、板敷きの大広間には、武田の家督を継ぎ、甲斐を本拠として信濃の過半を従える大名・武田大膳大夫入道信玄が、どっかりと床几に腰を据えていた。
齢は四十をいくつか越えたばかり。
黒漆の胴丸に緋色の陣羽織をまとい、豊かなる顎髭を蓄えたその風貌は、深山に棲む猛虎の如き重厚さと、底知れぬ智謀の静謐を同時に湛えていた。膝の上には、金泥で日輪を描いた愛用の軍配が静かに置かれている。
信玄の左右には、武田家が誇る錚々たる重臣たちが居並んでいた。
「鬼美濃」と恐れられる歴戦の宿将・馬場美濃守信春。
若き日より武名天下に鳴る猛将・飯富三郎兵衛昌景。
深い教養と軍略をもって信玄の右腕たる内藤修理亮昌秀。
さらには、譜代の長老たる飯富兵部少輔虎昌。
いずれも一国の城主を討ち取るに足る器量を備えた百戦錬磨の将たちであり、その眼光は、研ぎ澄まされた刃の如く鋭利であった。
広間の板敷きには、信濃、上野、そして南の東海道へと放たれていた武田家の透破たちの集めた注進状が、所狭しと積み上げられていた。
永禄四年秋、川中島の八幡原において越後の上杉輝虎と凄絶なる激突を演じてより三年。上杉方との争いはいまだ決着を見ず、今また北信濃では両軍が相対して、互いに容易には退かぬ構えを見せていた。西上野への進出を窺う武田家にとって、北の備えを緩めることはできず、次に兵力をどこへ傾注すべきか――家中の議論は尽きぬところにあった。
「……して、東海道の様子はいかがであった」
信玄の低く地を這うような声が、静まり返る広間の空気を震わせた。
広間の中央に進み出たのは、山野を駆ける杣人の如き無骨な身なりをした小柄な男であった。信濃筋の物見と透破を束ねる頭領の配下、東海道の探索を専門に担う間諜の頭であった。
男は泥に汚れた膝を折り、額を板敷きに擦り付けた。
「申し上げまする、屋形様。……駿河、遠江、ならびに三河の三か国、隈なく歩き回り、今川館の内情を探り抜いて参りましてございます。されど……まことに信じ難き事態が起きておりまする」
「信じ難き事態、とな」
馬場美濃守信春が白髪混じりの眉を跳ね上げた。
「今川治部(義元)は、桶狭間にて織田信長を討ち果たしはしたものの、尾張平定の泥沼に足を取られ、本国の財政をすり減らしておると聞いておったが……。三浦や朝比奈の兵が疲れ果て、三河の松平が不満を募らせておるのではないのか」
「否、正反対にございます!」
透破は声を震わせ、畳を強く叩いた。
「今川の軍勢、尾張から兵を引き揚げてよりこの数年、衰退するどころか……出兵の前を遥かに凌ぐ富饒を誇っておりまする!」
飯富昌景が身を乗り出し、目を光らせた。
「富饒じゃと……?」
「駿河の安倍川、富士川の河口におきましては、水勢を斜めに受け流す霞堤が築かれ、新法によって大洪水を見事に防ぎ切っておりまする。それによりて得られました新田は数千石に達し、内陸の農村へは駿河湾の干鰯や油粕が行き渡り、田を深く耕す深耕と二毛作の定着によりて、米の収穫高は目に見えて跳ね上がっておりまする」
透破は息を呑み、さらに報告を重ねた。
「街道におきましては、新居や白須賀の塩、駿河の茶の交易が保護され、駿府の城下には諸国の商人が溢れかえり、今川の蔵には兵糧が満ち満ちておりまする。……かつて駿河の民が口にしておりました長陣への不満は跡形もなく消え去り、今や領民は今川の施政を称え合っておる始末にございます!」
大広間に、重苦しいざわめきが走った。
信玄は微動だにせず、ただ細い目をさらに細め、透破を射竦めるように見つめていた。
「……治水に農政、新田開発に流通の掌握か。今川治部が雅を好み、名門の礼法に通じた大名であることは知っておる。されど……泥にまみれて土木を差配し、商人や農民の心を巧みに操るような生臭き術に長けた男ではなかったはずじゃ。誰がおる。義元の背後で、その政道を差配しておる者は誰じゃ」
信玄の鋭い問いに、透破は深々と息を吸い、恐る恐るその名を口にした。
「……鍋蓋、にございます」
「なべぶた……?」
飯富虎昌が眉をひそめ、怪訝そうに復唱した。
「鍋の蓋じゃと? 何じゃそのふざけた名は。公家の侍か、それとも駿河の土豪の家名か」
「姓は鍋蓋、名は翔次と申す若輩にございます」
透破は震える声で言上した。
「素性は定かではございませぬ。尾張の泥百姓の倅とも、堺の豪商の縁者とも噂されておりまするが……永禄三年の桶狭間において、豪雨と信長の奇襲を事前に言い当て、今川治部の命を救いし功によりて、直属の士分に取り立てられた男とのこと。今や知行千石、治部大輔義元の側近中の側近として、全軍の軍配と領国の政道を預かる軍師にございます!」
「……鍋蓋翔次」
信玄が、その珍奇なる名を心の中で静かに転がした。
軍配を握る指先が、かすかに白くなる。
「信春。そなた、これまでに古今の軍書、あるいは諸国の武将の名や家筋において、かような名を目にしたことはあるか」
「ございませぬ」
信春は即座に首を横に振った。
「足利、新田、あるいは東国の諸家筋に至るまで、古今東西の合戦譜を諳じておりまするが……鍋蓋などという姓を持つ武将など、ただの一人も記憶にござりませぬ。……新参の草深き知恵者かと存じまするが」
「草深き知恵者、で済む相手ではござりませぬ!」
透破が身を震わせ、東海道で起きた事績を語り出した。
「第一に、駿府の館におきまして、尾張が四天王の一人、滝川一益配下の凄腕の忍び八名が潜入いたしました折……この鍋蓋なる軍師は、虚偽の兵糧集積図を巧みに配して敵が情報を盗み見るを待ち伏せ、一兵の損耗もなく、松明の照明と網をもって八名の忍びをことごとく生捕りにいたしましてございます。
第二に、三河の境川河口におきまして、同じく四天王の一人、木曽川の蜂須賀小六率いる川並衆の舟団が夜襲を仕掛けました折……鍋蓋は潮の引きを見極めて上流の水門を操り、浅瀬の水深を狂わせて舟団を泥濘に座礁せしめ、立ち往生したところを包囲して一矢も交えずに降伏させました。
そして第三に、過日、尾張の豪族どもが結託し、境目の木戸を閉ざして今川領への通行を遮断いたしました折……今川家中の武闘派が焼き討ちを叫ぶ中、鍋蓋は一兵も出陣させず、遠江と三河の塩浜と鍛冶町を固めて塩と鉄材の逆封鎖を断行。敵の連判衆の筆頭みずからが泥に頭を擦り付けて通関を乞うて参るまで、見事に追い詰めてみせましてございます!」
大広間が、静まり返った。
刃を交えずして忍びを絡め取り、浅瀬の理をもって水軍を封じ、供給の統御によって敵の連盟を自壊させる。
その三つの戦果のいずれにも共通していたのは、「今川側の損害が皆無である」という冷厳なる事実であった。
「……厄介極まる男じゃな」
昌景が、腕を組みながら低く呟いた。
「正面から槍を合わせる猛将ならば、我が甲州武士の武勇をもって叩き潰すこともできよう。されど……力で挑まず、こちらの強みをことごとく空振らせて無力化する手を打つ男となると、いかに大軍を繰り出そうとも手応えを奪われてしまうわ」
「信春」
信玄の低く重い声が、沈黙を破った。
「そなたの見立てを聞こう。我が武田の軍勢を発し、甲斐から富士川沿いの河内路、あるいは他の山越えの道を通って駿河へ攻め下った場合……予は、駿府を抜くことができると思うか」
広間の空気が、張り詰めた氷の如く凍てついた。
武田家の軍事の柱石たる馬場美濃守信春に対する、これ以上なく重い諮問であった。
信春は腕を組み、目を閉じ、脳裏の盤面で甲斐武田軍と今川軍の激突を幾度となく再現した。
やがて、信春は目を開き、信玄の目を真っ直ぐに見据えて首を横に振った。
「……勝てませぬ」
大広間に、重い息を呑む音が響いた。
「兵の武勇において、我が甲州武士が駿河の兵に劣るとは思いませぬ」
信春は鋼の如き硬さをもって言上した。
「されど、甲斐から駿河へ抜ける道は、富士川沿いの河内路にせよ、山越えの道にせよ、荷駄を率いる大軍には険阻な隘路にございます。数万の軍勢を通そうとすれば荷駄の列は長蛇となり、兵糧の補給路が伸び切って脆弱を晒すことになりまする。
しかも、駿河の地へ踏み込んだところで、今川領内は治水と農政によって兵糧の蓄えを増し、河川の堤も要害も、かつてより守りを固めておりまする。現地での徴発を当てにした進軍は、村々の備蓄や領民の抵抗によって早々に行き詰まるおそれがあり、短期に駿府を落とせねば、我が方の兵糧と荷駄が先に尽きかねませぬ」
そこへ、内藤修理亮昌秀が進み出て言葉を重ねた。
「信春殿の申される通り。さらに恐るべきは、背後でございます。
いま、今川を攻めれば甲相駿三国同盟は崩れ、相模の北条氏康殿との関係も一挙に険悪となりましょう。北条が必ず即座に兵を出すとは限らぬ。されど、南で今川と戦いながら東の北条にも備えねばならぬ事態となれば、我が軍の自由は大きく損なわれまする。
そこへ北信濃の上杉輝虎が動けば、甲斐の守りまで危うくなりかねませぬ!」
信春と昌秀の慎重なる諫言に、諸将は深く息を呑んだ。
信玄は微動だにせず、ただ膝の上の軍配を指先で静かに撫でていた。
その双眸に宿る光は、焦燥でも恐怖でもなかった。
戦の利害と天下の大局を冷徹無比に秤にかける、希代の軍略家としての研ぎ澄まされた計算であった。
「……孫子曰く」
信玄の低く、威厳に満ちた声が響いた。
「百戦百勝は、善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり、とな。
……信春、昌秀の申す通りよ。兵を損ぜず、国を富ませ、敵の仕掛けてくる刃をことごとく空振らせて無傷を保つ。……鍋蓋翔次という男の敷いておる陣は、まさに孫子の説く『不敗の地』そのものじゃ」
信玄は軍配を手に取り、畳の上に広げられた東海道絵図の「駿府」と「境川」を指し示した。
「予が恐るべきは、鍋蓋の知謀のみにあらず。その鍋蓋を重用し、面目を捨てて尾張から兵を引き、本国の富国強兵に徹しておる今川義元の器量よ。
義元は愚将にあらず。あの男が鍋蓋という頭脳を手に入れ、駿河・遠江・三河の三国を岩盤の如く固めておる以上……東海道は、今や天下で最も堅固なる要塞と化しておる。
ここに手を出し、兵糧と軍勢を南に縛り付けられれば、越後の上杉、相模の北条に背後を衝かれる危険はあまりに大きい」
信玄は軍配を膝の上でパチンと力強く打ち鳴らし、諸将を見渡した。
「武田の進むべき道は、南の東海道にあらず。
甲相駿三国同盟を堅持して南と東を安定させ、北信濃の守りを固めつつ、西上野への進出を着実に進める。箕輪城をはじめとする上野の要害を見据え、関東へ通じる道を探ることこそ、今の武田が取るべき道よ!
……今川義元、そして鍋蓋翔次。東海道に立ち塞がるあの防波堤が健在なる限り、予が駿河へ弓を引く利は、万に一つもない!」
「ははッ!!」
重臣たちが一斉に平伏した。
北の上杉輝虎との対峙、南進による兵站拘束の危険、そして鍋蓋翔次の築き上げた鉄壁の防備。
それらを冷徹に秤にかけた結果、武田軍の矛先は南の東海道から完全に逸らされ、北信濃の防衛と西上野方面への進出へと向けられることとなったのである。
信玄は立ち上がり、大広間の縁側へと歩み出た。
南の空、八ヶ岳の向こうに、白銀の富士の頂が青空を衝いて聳え立っている。
信玄は富士の彼方――駿府の空をじっと見つめ、低く呟いた。
「……鍋蓋翔次。生涯、刃を交えたくはなき男よな」
数日の後――。
駿府・今川館の奥御殿において、太守・今川義元のもとへ、甲斐からの使者がもたらした一通の親書が届いていた。
小豆色の直垂に身を包んだ義元は、朱塗りの机の上で親書を広げ、読み進めるうちに、その高貴な顔を驚愕と喜色に染め上げていった。
「……翔次。これを見よ」
義元は傍らに控える翔次へ親書を手渡した。
そこには、武田信玄自らの筆による、丁重極まる同盟修好の誓詞が記されていた。甲相駿三国同盟の永続を誓い、甲斐の駿馬十頭と、上等の甲斐絹五十反が進物として添えられていたのである。
「武田信玄公からの……同盟再確認の誓詞でございますな」
翔次が静かに言上すると、義元は膝を打って笑った。
「ふ……はははは! 見事じゃ、翔次! 同盟を改めて確かめる書状に、駿馬と甲斐絹まで添えてきおったわ。あの甲斐の虎も、今は東海道へ兵を向ける利が薄いと見たのであろう」
義元は書状を机に置き、声を少し落とした。
「それに、先に届いた間者の報せによれば、信玄は軍議において、そなたの忍び狩り、水門を用いた舟団の封じ込め、塩と鉄の逆封鎖を聞き、今川との戦は得策にあらずと論じたという。書状だけで野心が消えたと信じるわけにはいかぬが、当面、武田からの脅威を警戒する負担はかなり軽くなったと見てよかろう」
「太守様……」
翔次は深々と平伏した。
されど、その双眸は驕ることなく、冷静に事態を見据えていた。
「信玄公が南進を見送られたのは、我が方の防備のみならず、北の上杉、東の北条との利害を秤にかけ、南進が割に合わぬと冷徹に計算されたからにございます。……決して今川への野心を永久に捨て去ったわけではございませぬ。
されど、我が方が隙を見せぬ限り、武田が同盟を破る理由を封じ得たことは確か。……当面の東海道の背後は、完全に固まりましてございます」
そこへ、三河の岡崎城からも、松平元康からの早馬が届いた。
書状には、信濃国境に展開していた武田方の物見や小勢が北へ退き、三河北部に対する差し迫った脅威が薄れたことへの、元康からの溢れんばかりの感謝が記されていた。
北の虎・武田信玄は去った。
東の相模・北条氏康との同盟もまた、今川にとって欠くことのできぬ備えであった。
今川家の背後は、今や建国以来もっとも強固な、一片の隙もない安寧の極致に達していたのである。
軍議が引けた後、翔次は一人、今川館の庭先へと出た。
夕暮れの茜雲が、霊峰富士の嶺を血の如き紅に染め上げている。
涼やかな秋風が、翔次の頬を撫でてゆく。
翔次は西の空――尾張の彼方を静かに見つめた。
背後の憂いは完全に消え去った。
今川家は、守り抜かれた。
ならば――残る相手は、ただ一つ。
清須城の奥深くに沈黙を守り続ける、あの見えざる魔王・織田信照。
(……来るか)
翔次は自らの胸元を強く押さえた。
影の一益を反間で破り、水の小六を水利で座礁させ、人の藤吉郎の流通を逆封鎖で押し返した。
武田の脅威すら退けた今川の盤石なる防波堤に対し、残る最後の四天王――前田又左衛門利家の朱槍が、己の武勇のすべてを賭けて、正面から力づくで打ち破らんと襲いかかってくるであろうことは、もはや明白であった。
(受けて立つぞ、利家。……そして、信照)
翔次は夕闇迫る空に向かって、拳を血が滲むほどに強く握りしめた。
秋深まりゆく東海道に、次なる激突の嵐が、猛然たる蹄の轟きとともに近づいていた。




