第三十五話:保護圏の掟と、軍師の逆封鎖
第三十五話:保護圏の掟と、軍師の逆封鎖
境川の河口において、蜂須賀小六配下の川並衆を潮汐と浅瀬の理をもって座礁させ、水上からの襲撃を挫いてから二月が過ぎていた。
捕らえられた前野兵太夫ら四十余名は、翔次の差配により首を刎ねられることなく、三河沿岸の川浚いと堤防補強の舵取りとして労役に就いていた。水路を熟知した者たちを監督のもとで使役したことで、境川下流域の水運はひとまず平穏を保っていた。
だが、水路の争いが収まっても、境目をめぐる火種が消えたわけではなかった。
文月半ばの夕刻。
駿府・今川館の広間において、軍師・鍋蓋翔次は、東海道各地の宿駅を預かる伝馬役人や商人らの注進状を前に眉を寄せていた。
同席した遠江掛川城主の岡部元信、三河前線の警固を務める三浦上総介義就の顔にも、険しい色が浮かんでいる。
「……翔次殿。見過ごせぬ事態が起きておる」
上総介が佩刀の鞘を板敷きに当て、いらだちを込めて口を開いた。
「境川沿いの村々をはじめ、尾張の萱津、高岡、さらには美濃境目の丹羽や春日井に至るまで……信照の旗を掲げる地侍や百姓どもが申し合わせ、今川領との間を行き交う商人や荷駄の往来を、境目で塞ぎ始めたのじゃ!」
翔次は、三河の刈谷口から尾張へ入る間道を描いた絵図に目を落とした。
「今川領と行き来する商隊が、ことごとく止められているのですか」
「その通りじゃ」
上総介が声を尖らせた。
「荷車を引く馬借や車力が百姓どもに取り囲まれ、『今川領へ向かう荷も、今川の商人も通さぬ』と追い返されておる。上方や伊勢から三河、駿府へ運ばれるはずであった木綿や油の荷が境目で止められ、東海道の商いが滞り始めたのじゃ」
「掟、でございますな」
翔次が静かにつぶやいた。
「左様。奴らは『信照様の御旗を掲げる地において、今川へ荷を通さぬは村々の連判による掟である』と言い張っておる。武力で攻め寄せてきたわけではない。されど、境目の道を塞がれ、東海道の物資が滞れば、三河の前線や駿府の市場にも障りが出る」
元信も太い腕を組み、うなずいた。
「放っておけば、商人が境目を避けるようになり、今川の威信にも関わる。……上総介殿の申す通り、厄介な手じゃ」
上総介が膝を乗り出した。
「百姓や地侍ごときが、今川領への荷を遮断するなど言語道断。太守様、手勢を繰り出して境目の村々を叩き、木戸を打ち破って道をこじ開けるべきにございます!」
「上総介殿、それは下策にございます」
翔次は落ち着いた声で遮った。
「村を焼けば、百姓や地侍は家財を持って山野へ逃げるだけでございます。高岡の郷と同じく、もぬけの殻が残るにすぎませぬ。
それどころか、今川が民の村を焼いたと触れ回られれば、尾張や美濃の連判はかえって結束を固め、境目の道は完全に使えなくなります。力攻めは、相手に口実を与えるだけでございます」
上段の床几に座る太守・今川義元が、静かに扇を膝に置いた。
「武力で木戸を破るが下策であることは、予も承知しておる。されど、荷を止められたまま手をこまねくわけにはいかぬ。翔次、いかにしてこの申し合わせを崩す」
翔次は立ち上がり、大絵図の前へ進み出た。
「敵の連判衆が仕掛けてきた通行の遮断、一見すると堅固に見えますが、流通の道理から見れば急所がございます」
「急所とな」
「はい。尾張や伊勢湾沿岸にも塩田や流通の道がないわけではございませぬ。されど、境目の村々や街道筋の市においては、遠江の新居や白須賀、三河の吉良や幡豆といった今川領内の塩浜から運ばれる塩もまた、日々の暮らしを支える欠かせぬ供給源の一つにございます。これを絞れば、境目周辺の相場は確実に跳ね上がりましょう」
翔次はさらに筆を動かした。
「そして第二は、鍛冶に用いる鉄材にございます。鍬や鎌を打ち直すにも、農具を修繕するにも鉄は欠かせませぬ。鉄そのものが今川領だけで産するわけではございませぬが、駿府や浜松の湊、市場を経て尾張へ渡る荷も少なくありませぬ。その流入を絞り、仕入れを滞らせれば、境目の鍛冶屋における鉄材の工面を大きく圧迫することができます」
元信が膝を叩いた。
「なるほど。奴らは米の豊かさを恃みにしておるが、日々の塩と農具を直す鉄材の運びは、今川領の湊や塩浜からの荷に少なからず頼っておるわけか」
「左様にございます。太守様、我が方がとるべきは力攻めではありませぬ。相手の遮断に対し、こちらからも供給を止める『逆封鎖』にございます」
翔次は具体的な差配を述べた。
「新居、白須賀、吉良、幡豆の塩浜奉行に対し、境目を越える塩の搬出を厳しく統制させます。駿府や岡崎の鍛冶町からも、境目方面へ鉄材や農具を出すことを禁じます。境川沿いには改め番所を設け、尾張へ向かう荷から塩俵と鉄材を留め置きます。米や麦などの食糧はあえて通し、塩と鉄のみを絞り上げるのでございます」
翔次は一息置き、率直に付け加えた。
「むろん、尾張へ荷を売っていた今川領の商人や塩浜にも、売り先が滞る痛手が出ます。番所の維持にも手数がかかりましょう。されど、大軍を出兵させる費えに比べれば遥かに軽く、相手の連判が崩れるまでの限られた期間ならば十分に耐えられます。
秋の取り入れを控え、農具の修繕が進まず、保存食の仕込みに塩が届かなければ、困るのは相手の側。大軍を動かすことなく、相手の連判を内側から崩すことができます」
義元はしばらく思案したのち、扇を小さく鳴らした。
「理に適っておるな。……力で土地を奪おうとせず、相手の生活の急所を押さえて無理を悟らせる。上総介、元信、翔次の指図に従い、塩浜と鍛冶町へ触れを出せ。塩と鉄材の搬出を厳しく改めよ」
「はっ」
その夜から、今川領内の役人たちが動き始めた。
新居や白須賀の塩浜では役人が立ち会い、塩俵の送り先が帳面ごとに改められた。境川下流から河口にかけての浅瀬では、川普請に従事する前野兵太夫ら川並衆が水路の案内を務め、抜け道となりそうな浅瀬の情報を今川役人へ伝えた。街道の要所には改め番所が置かれ、西へ向かう荷駄が一つずつ調べられた。
大軍の出撃はない。ただ、主要な道筋から、塩と鉄材の供給が絞られていった。
――そして、封鎖が始まって二十日余りが過ぎた頃。
翔次の見立て通り、尾張・美濃の市場で塩の相場が跳ね上がり始めた。
今川領からの荷が細ったことで、商人たちが品薄を見越して売り惜しみや買い占めに走ったためである。境目の鍛冶屋でも手持ちの鉄材を節約し始め、農具の修繕に順番待ちが出始めた。
清須の木下藤吉郎も手をこまねいていたわけではない。美濃の米を放出し、伊勢湾の廻船や堺の商人に働きかけて他所から塩を買い集めようとした。
だが、遠隔地からの輸送には日数と運び賃がかさみ、もとより伊勢や堺からの廻船だけで尾張や美濃の膨大な需要を満たすほどの流通量はなく、そのうえ秋の長雨と風波が重なって船足が乱れ、前線の農村部まで十分な量を行き渡らせるには至らなかった。
封鎖から一月半ほどが過ぎる頃、影響は暮らしの場へ及んだ。
味噌の仕込みを延ばす村が増え、魚を塩漬けにする手立ても滞り、冬の蓄えを案じる声が広がった。刈り入れの時期を目前にして、刃の欠けた鎌や鍬を直せない百姓たちの焦燥が募っていった。
尾張愛知郡、連判の筆頭を務める地侍・山田八郎左衛門の屋敷。
名主たちが集まり、渋面を作っていた。
「……塩が高すぎて手が届かん。隣村の味噌蔵でも仕込みが滞っておるというぞ」
初老の名主が、震える声で呟いた。
「鍛冶屋も鉄の手当てがつかんと農具を後回しにするばかりじゃ。このままでは刈り入れに差し障る」
「清須の木下様の手配した塩も、届く先が限られておる。今川が境目を固めている以上、わしらの村まで安く回ってはこんのじゃ」
そこへ、外から百姓たちの声が届いた。
「名主様、今川の商人を追い払ったから塩も鉄も手に入らんのではないか!」
「掟を守って仕事が止まっては本末転倒じゃ!」
「今川方との無用な争いに巻き込まれるのは御免じゃ、早く塩と鉄を通してもらえ!」
生活の不便に耐えかねた農民たちが屋敷に詰め寄り、申し合わせの見直しを求めて声を荒らげていた。
信照の威勢を頼んで結んだはずの連判が、暮らしの破綻を前にして、足元から揺らぎ始めていた。
九月朔日。秋雨の降る境川の刈谷口。
今川方の境目の砦の前に、竿先に白布を結びつけた十数名の一団が現れた。
山田八郎左衛門と、近隣の村々の名主たちであった。
砦の広間。
岡部元信が刀を膝に置いて座し、その傍らに翔次が控えていた。
板敷きに平伏した八郎左衛門が、苦渋に満ちた声を絞り出した。
「……今川の軍師殿、ならびに岡部様。お願い申し上げます。
我が方の若輩が分別を欠き、今川方の商人を追い払いましたる非礼、お詫び申し上げます。……されど、境目の民百姓に責めはございませぬ。塩が滞り、鉄が不足しては、刈り入れも冬の蓄えも立ち行かなくなり申す。どうか、境目の改めを緩め、荷の行き来をお許しいただきたく存じます」
元信は腕を組んだまま、翔次を見遣った。
翔次は静かに立ち上がり、八郎左衛門の前へ歩み寄った。
「八郎左衛門殿、面を上げられよ」
八郎左衛門がおずおずと顔を上げる。その表情には疲労の色が濃い。
「そなたらが信照殿の旗を仰ぎ、自領を守ろうとした分別、理解できぬわけではありませぬ。されど、米を作る者があれば、塩を焼く者があり、鉄を鍛える者がおります。互いの荷の行き来を力づくで断ち切れば、苦しむのはそなたら自身であるという道理を、お忘れあるな」
「……身に染みて分かり申した」
「よろしい」
翔次は用意していた書状を差し出した。
「我が今川家も、民を無用に困窮させることが本意ではありませぬ。……そなたら連判衆が今川商人の通行を妨げぬと誓うならば、改め番所で荷を改めたうえで、白須賀の塩、三河の農具鉄を、定められた道筋に従って速やかに通させましょう」
「ありがたき仕合わせにございます……!」
「ただし、条件がございます」
翔次の声が引き締まった。
「第一に、今後いかなる名目があろうとも、今川の印符を帯びた商隊や荷駄の通行を妨げてはならぬ。
第二に、そなたら連判衆の村々と、我が方の境目において、互いに武力をもって踏み込むことを慎み、商人の通行を妨げぬこと。
……この二箇条を違えぬと、連判衆一同の名において誓えるか」
「誓いまする」
八郎左衛門は筆を執り、自らの血判を据えた。同席した名主たちも次々と判を重ねた。
「まずはこの場にある者の名をもって誓約とし、村へ戻り次第、連判に加わった各村の地侍や名主にも血判を添えさせまする。境目で争いを起こさぬこと、必ず守らせまする」
約束は結ばれた。
城を囲むことも、兵を失うこともなく。
村々が結んだ排他的な申し合わせを、生活物資の供給と市場の道理を突くことで解体し、今川方は商人の通行と境目の不戦を取り決めた誓詞を手に入れたのである。
数日後。
駿府・今川館において八郎左衛門らの誓詞を改めた義元は、満足そうにうなずいた。
「敵が掟をもって道を塞ぐならば、予は塩と鉄の供給を絞って申し合わせを解かせる。……大軍を動かさず、少ない費えで境目を鎮めた。見事な差配であったな、翔次」
同席した三浦上総介も、頭を下げて言上した。
「……某の短慮、恥じ入るばかりにございます。もしあの折に焼き討ちをかけておれば、泥沼の争いに引きずり込まれるところでございました。翔次殿の眼の確かさ、感服いたしました」
翔次は静かに平伏した。
「太守様、此度の差配はそれがしの知恵のみによるものではございませぬ。今川領内において塩浜と鍛冶の産業が手堅く育まれていたからこそ、相手の急所を突くことが叶いました。足元が固ければこそ、相手の仕掛けを受け流すことができるのでございます」
軍議が引けた後、翔次は館の回廊に出て西の空を眺めた。
初秋の風が心地よく吹き抜けてゆく。
木下藤吉郎の流通網に対抗し、相手の遮断を逆封鎖によって押し返した。
滝川一益の忍びを捕らえ、蜂須賀小六の水運を浅瀬で止め、藤吉郎の仕掛けた申し合わせを塩と鉄で解いた。
翔次が築き上げた東海道の防波堤。
その確かな守りの評判は、尾張のみならず、遠く北の山間へも、静かに届こうとしていた。




