第三十二話:幻影軍の集結
第三十二話:幻影軍の集結
永禄七年初夏。三河と尾張の境目を流れる境川の低湿地帯には、青々とした葦が人の背丈を越えるほどに生い茂り、初夏の生温かい風が水面を渡っていた。
岡崎城において鍋蓋翔次が松平元康の苦衷を救い、目付衆による無謀な出陣要求を退けて前線の防衛線を死守せしめた一件ののち、今川・三河の陣営には、かつてない強固な結束が宿っていた。
無謀な逆侵攻は厳禁とされ、三河武士たちは無駄な流血を避けつつ、国境の要所要所に強固な逆茂木と土塁を築き、鉄壁の守りを固めていた。
されど――その「守りの強固さ」を試すかのように、尾張の大地からは、武家の常識を根底から揺るがす、前代未聞の怪異が立ち現れようとしていた。
発端は、境川の中流、三河領の刈谷と尾張領の緒川の間に広がる中洲地帯において発生した、ごく小さな小競り合いであった。
その日の朝、岡部元信率いる遠江の精鋭三百が、前線巡察のために中洲の東岸へと進出していた。後方の物見台には、防衛線の陣割りを検分するため、翔次自身も轡を並べていた。
中洲の向こう岸、尾張側の竹林の縁に、十数名の武装した斥候が姿を現した。いずれも粗末な胴丸をつけ、竹槍を持った小土豪の配下とおぼしき小勢であった。
「敵の斥候か」
元信は馬上で采配を振るいかけた。
「深追いは無用じゃが、国境を越えて三河側を覗き込む不届き者は捨て置けぬ。左右より包囲し、一息に追い散らしてくれる!」
今川の重装歩兵二百が槍衾を揃え、浅瀬へと足を踏み入れようとした――その時であった。
「待たれよ、元信殿!」
後方から、翔次の鋭い制止の声が飛んだ。
「翔次殿? 敵はわずか十数名の斥候にござるぞ。今なら一息に叩けましょう!」
「いけませぬ! 見晴らしの利く浅瀬の前に、敵がわざわざ十数名だけで無防備に姿を晒すはずがありませぬ! ……中洲の背後の丘を見られよ!」
翔次が指差した先――初夏の青空へ向かって、一筋の黒煙――狼煙が、音もなく立ち上っていた。
それと同時に、竹林の奥からピィィィィ――ッという耳をつんざく指笛の音が一度だけ響き渡った。
(誘い出された……!)
翔次の脳裏に、強烈な危機を告げる警鐘が鳴り響いた。
「全軍、浅瀬に入るな! 直ちに土塁の陰まで後退せよ! 退却だッ!」
「な……何と!?」
元信が驚愕した、まさにその刹那であった。
尾張平野の四方八方から、地鳴りのような跫音が湧き起こった。
右手の畦道から、蓑笠をつけ長槍を担いだ農民兵百余名が泥を跳ね上げて殺到してくる。
左手の街道筋からは、紺染めの陣羽織を着た地侍の騎馬武者五十騎が砂煙を上げて現れる。
さらに、木曽川へと通じる入江の暗がりからは、小舟数十艘に分乗した川並衆が長刀を煌めかせながら水面を滑るように押し寄せてきた。街道の木陰からは、商人の護衛として尾張に雇われていた鉄砲傭兵とおぼしき集団までもが姿を現し、土手の上に銃列を敷く。
「て、敵が増えるぞ!」
今川兵の間に戦慄が走った。
十数名であったはずの敵が、瞬く間に三百、五百、千……。
わずか半刻も経たぬうちに、境川の対岸には、二千ほどの異形の軍勢が、蟻の這い出る隙もないほどの密集陣形を作って立ち塞がっていたのである!
「馬鹿な……!」
元信は青ざめ、手綱を引き絞った。
「二千じゃと……!? この付近に、織田がこれほどの大軍を駐屯させておった形跡など露ほどもなかったはずぞ!」
「元信殿、呆然としている暇はありませぬ! 殿軍を揃え、整然と引くのです!」
翔次の冷徹な下知が飛んだ。
もし翔次の制止がひと呼吸でも遅れていれば、今川兵二百は浅瀬の泥濘の中で退路を断たれ、二千ほどの敵に包囲されて全滅の危機に陥っていたところであった。
翔次の迅速なる退却指揮により、今川軍は一人の死傷者も出すことなく、隊列を保ったまま境川の東岸の土塁へと退いた。
「……翔次殿の眼がなければ、危ういところであった」
元信は冷汗を拭い、息を呑んだ。
翔次の危機察知と迅速な退却指揮が、最前線の兵たちの命を間一髪で救い取ったのだ。
――されど、真の怪異は、今川軍が退却を完了した直後に起きた。
二千ほどの軍勢である。勢いに乗じて境川を強襲渡河し、三河領内へと攻め込んできてもおかしくない戦況であった。
しかるに、対岸の軍勢は川を渡ろうとはしなかった。
ただ、信照旗の下で、一斉に「うおおおおッ!」と割れんばかりの勝ち鬨を一度だけ上げた。
そして――。
「……何をしておるのじゃ、奴らは」
土塁の上から元信が目を疑った。
勝ち鬨を上げた瞬間、その軍勢は、まるで潮が引くように四方八方へと散り始めたのだ。
騎馬の地侍たちは自らの屋敷の方向へと馬首を返し、農民たちは長槍を畦道に置いて鍬を手に取り、鉄砲傭兵たちは煙管に火をつけて宿場町へと歩き去り、小舟の川並衆は舟歌を歌いながら下流へと消えてゆく。
半刻後。
物見隊が対岸を改めた時、そこには敵兵の姿など一人も残されてはいなかった。
大軍が立ち並んでいた土手の上には、ただ初夏の風が吹き抜け、青々とした田んぼの中で、百姓たちがのんびりと田植え歌を歌いながら苗を植えているだけであった。
味方の戦死傷者、ゼロ。
敵の死傷者、ゼロ。
二千ほどの軍勢は、雷雲の如く突如として現れ、戦いが終わるや否や、朝露の如く消え去ったのだ。
その日の夕刻。
岡崎城の評定の間において、元信からこの報告を聞かされた松平元康と石川数正は、顔を見合わせたまま絶句していた。
「……二千の兵が、忽然と現れ、忽然と消え去ったなどと……」
元康が青ざめた顔で呟いた。
「狐狸の化かし合いではあるまいな、元信殿」
「化かし合いなどではない!」
元信は太刀の鞘を板敷きに叩きつけた。
「この元信の眼で、確かに二千ほどの槍と鉄砲を見たのじゃ! 翔次殿の咄嗟の退却下知がなければ、某らは今頃骨になっておった! されど……戦が終わると、跡形もなく消えてしもうた。あれは怨霊か、それとも幻影か!」
「……幻影ではございませぬ」
静かな、だが鋼のような硬さを含んだ声が響いた。
部屋の隅で尾張絵図を凝視していた鍋蓋翔次が、ゆっくりと顔を上げた。
その双眸には、動揺の色は微塵もなかった。あるのは、敵の構造を見極めようとする、研ぎ澄まされた軍師の光であった。
「翔次殿……。正体が、見えたのか」
元康が身を乗り出した。
翔次は立ち上がり、絵図の中央、境川の沿岸を筆の先で指し示した。
「元信殿。今日現れた二千ほどの軍勢……あの者らは、清須の信照から動員を命じられた正規の軍隊ではございませぬ。
……あの者らは、それぞれの暮らしを守るため、自ら集まった者たちにございます」
「それぞれの暮らしを守るため……?」
元康が眉をひそめた。
「はい」
翔次は言葉を選びながら、己の見立てを解き明かしていった。
「大名が軍勢を動かすには、動員の命を下し、兵糧を集め、陣営を設けねばなりませぬ。常に兵を国境へ置くだけでも、日ごとに莫大な米と銭が費やされまする。
しかるに、信照の陣営は、その負担を大きく減らしておるのです。
信照が一人ひとりに動員を命じたのではござらぬ。されど、境川沿いの村々や地侍の間には、狼煙を合図に近隣の者が集う取り決めが、自衛の掟として各地に根を張っておるのでしょう。村々の自衛の取り決めに加え、川並衆や商人の護衛にも、境目に異変があれば知らせを回す手立てが整えられておるのでしょう。尾張の民や豪族、商人たちにとって、保護圏とは自らの財産と暮らしを守るための盾だからでございます」
翔次の言葉に、広間の空気が引き締まった。
「境川の中洲が今川に奪われれば、次は自分たちの村や田畑が脅かされる。
ゆえに――狼煙一つで近隣の者が我が身を守るために武器を取り、瞬く間に集結するのです。信照が常備軍の兵糧や給金を一手に負担しておるわけではござらぬ。農民は自らの食糧を携え、地侍は自前の馬で駆けつけ、商人は己の銭で護衛を雇う。各々が自らの負担で動くゆえ、信照が大軍を常時養う必要がないのでございます。
そして、我が軍が退いて危機が去ったと知るや、一箇所に留まる理由などありませぬ。留まれば飯を食うだけ無駄ゆえ、直ちに解散して田畑へ戻り、店へ戻る。
常備軍の負担を抑え、必要な時だけ結集し、用が済めば霧のように散る……。これが、幻影の軍団の正体にございます」
翔次の説明に、元康は息を呑んだ。
「……何という仕組みじゃ。大名が号令を下さずとも、大地そのものが軍隊となって立ち塞がるというのか」
元信が焦燥を露わにして詰め寄った。
「正体が分かったとて、どうするのじゃ! 兵糧蔵も本陣もない敵を、いかにして討ち破ればよいのじゃ!」
その問いに、翔次は不敵な笑みを浮かべ、毅然として首を横に振った。
「元信殿。討ち破る必要など、最初からございませぬ」
「何……!?」
広間の全員が目を見張った。翔次は胸を張り、不敗の軍師としての処方箋を言い放った。
「敵のこの仕組み……一見すると無敵に見えますが、兵糧と動員の面で大きな制約がございます。
それは、『自衛を離れて遠くへ攻め入ることは極めて難しい』ということでございます!」
翔次は絵図の境川を強く指差した。
「あの者らは、自分たちの生活を守るために集まっているに過ぎませぬ。俸禄をもらっているわけでもなく、信照のために死ぬ覚悟を揃えているわけでもない。
ゆえに――あの二千ほどの軍勢が、常備軍のごとく境川を越え、三河の奥深くまで侵攻を続けることは難しゅうござる!
他国へ攻め込めば田畑の仕事は放置され、商いは止まり、己の利にならぬ戦で命を落とすことになる。長く陣を構え、攻め続けるために、誰が自腹で兵糧と人馬を賄いましょうや!」
ハッと息を呑んだ元康の顔に、光が差し込んだ。翔次は力強く言葉を継いだ。
「今日の戦いでも、奴らは今川軍が退くと、追撃に移ることなく散り散りになりました。我らが無用な挑発を控えれば、大軍を結集する口実や機会も自ずと減りましょう。
敵は、防衛においては恐るべき集結を見せますが、領地を離れて長期の侵攻を維持する力は乏しい。
ならば――我が軍が採るべき道は一つ!
無駄な挑発や逆侵攻を一切やめ、境川の防衛線を鉄壁に保ち、相手の強みが発揮される状況を避けることにございます!
敵の土俵に乗らず、守るべき拠点を固めて盤石の構えを敷くことこそが……敵の幻影軍の強みを封じ、その脅威を最小限に抑える、我が今川の『不敗の道』にございます!」
静寂の後――元康の口から、深いため息とともに歓喜の光が漏れた。
「……勝たずとも、決して負けぬ道……!」
元康は立ち上がり、翔次の手を取った。その瞳には、かつての迷いや絶望の影は微塵もなく、翔次の大戦略に対する絶大なる信服が満ちていた。
「翔次殿……! 貴殿の眼には、敵の正体のみならず、我が軍が生くべき道が、これほどまでに鮮やかに見えておるのか……! 相分かった。三河勢は一歩も境川を越えず、鉄壁の盾となって東海道を守り抜いてみせようぞ!」
元信もまた、深く頭を垂れた。
「……敵の策に嵌まりかけた某の浅慮、恥じ入るばかりじゃ。翔次殿の知謀、まことに今川の宝よ」
知恵を尽くして敵の奇策を看破し、味方の損害をゼロに抑え、守るべき勝利の形を定義し直す。
不敗の軍師・鍋蓋翔次の威厳が、三河の最前線において、燦然たる光を放った瞬間であった。
その夜、岡崎城の物見台に立った翔次は、境川の向こうに広がる静まり返った尾張の闇を見つめていた。
初夏の夜風が、心地よく頬を撫でてゆく。
昼間、大軍が立ち並んでいた中洲のあたりには、今宵も農家の温かい灯火が点々と揺れている。
(信照……お前の創り出した自衛の仕組み、実に見事だ)
翔次は静かに拳を握りしめた。
(だが……俺がいる限り、今川はこの仕組みに不用意に踏み込まない。
お前が戦わずに守るというならば、俺もまた、無用な戦を避けて今川と三河を守り抜いてみせる。
……負けないぞ、信照。この知恵比べ、受けて立つ!)
闇を見据える翔次の瞳には、不屈の闘志が凛然たる光を湛えて宿っていた。
そして――。
前線の防衛が盤石となったはずの今川家の背後へ、次なる見えざる脅威――滝川一益率いる凄腕の忍び衆が、今川中枢を揺るがす闇の謀略を携えて、音もなく忍び寄ろうとしていた。




