第十五話:泥沼の尾張
第十五話:泥沼の尾張
それから幾月もの時が流れ、尾張にも冬が訪れていた。
木枯らしの吹く中、冷たい時雨が降り続いた。
境川の流域から清須へ連なる低湿地帯は、冷たい雨によって底知れぬ赤土の泥濘と化していた。人の脛を半ばまで呑み込む重い泥土は、行軍する足軽の藁草履をことごとく引き裂き、小荷駄の牛馬を地中深くへと引きずり込んでゆく。
沓掛、大高、鳴海の三城を結ぶ今川の守りの構えは、翔次の進言と義元の決断によって、確かに完成していた。
諸将による無謀な突撃は厳罰をもって禁じられ、突出していた小砦は破却され、互いに烽火と早馬が届く距離にまで陣容は引き締められた。朱槍の男が突入すべき「孤立した獲物」は戦場から姿を消し、影の者が掻き乱すべき「粗雑な指揮系統」もまた、翔次の冷徹な規律によって幾重にも覆い隠された。
正面衝突は、完全に止んでいた。
だが――戦いが止んだわけでは決してなかった。
流血の大合戦が消え去った代わりに、尾張の大地を覆い尽くしたのは、音もなく神経と兵糧をすり減らし合う、果てしなき底なしの泥濘の戦いであった。
「押せッ! 荷を持ち上げよ! 泥に脚を取られるな!」
沓掛城の西、境川の支流に架かる土橋の袂で、今川の荷駄隊が泥まみれになって喚き声を上げていた。
三河の本国から運ばれてきた兵糧米を積んだ荷駄が、深く窪んだ泥の轍に足を取られ、牛馬が泡を吹いて倒れ伏している。冷たい雨が兵たちの笠を叩き、吐く息は白く凍りついていた。
そこへ――闇を切り裂くように、鋭い指笛の音が響き渡った。
「敵かッ!?」
警固の足軽たちが慌てて長槍を構えた瞬間、対岸の枯れ葦の茂みから、数本の火矢が音を立てて放たれた。
狙いは兵の身体ではない。泥に埋まった荷駄の縄と、積まれた藁俵であった。
ぼっと音を立てて火の手が上がり、米俵が燻る。同時に、上流の暗がりから軽快な舟歌とともに、平底の小舟に乗った川の者どもの手勢が姿を現し、土橋の木組みに鉤槍を掛け、支えを次々と崩してゆく。
「迎撃せよ! 橋を渡らせるな!」
足軽頭が抜刀して叫ぶ。
だが、今川の兵が泥を跳ね上げて川岸へ殺到したときには、小舟はすでに水面を滑るようにして下流の霧の中へと姿を消していた。火矢を放った者たちも、足跡一つ残さず竹林の奥へと霧散している。
残されたのは、半ば焼け焦げた米俵と、川水に洗われて崩れ落ちた土橋、そして泥に塗れて立ち尽くす今川兵たちの虚しい怒声だけであった。
討ち捕りし敵の首級、一人もなし。
味方の戦死、皆無。
失われたもの――米三十俵と、半日の輸送の遅れ。
奪った米は僅か三十俵。されど、それを焼くために荷駄は半日止まり、護衛の兵はその場に釘付けとなった。
このような小競り合いは、一日に一度や二度ではなかった。
街道の橋が落とされ、間道には倒木が転がり、兵糧の集積所には夜陰に乗じて異臭を放つ獣の死骸が投げ込まれる。敵は決して群れを成して襲いかかってはこない。朱槍の男が姿を見せることも稀であった。ただ、今川の補給の血流を、針の先で突くようにして、毎日、確実に止めてゆく。
沓掛城の一室で、翔次は連日連夜、帳簿と絵図を突き合わせながら、眉間を指で揉みほぐしていた。
行灯の油煙が目に染みる。
机の上には、三河や遠江から届く兵糧の搬入帳と、前線で消費される米の出納帳が山積みになっていた。
「翔次殿! またでござる!」
障子を荒々しく引き開けて入ってきたのは、今川家の武闘派を代表する三浦上総介の配下、岡部次郎右衛門であった。甲冑の草摺を泥だらけにしたこの荒武者は、血走った眼で翔次を睨みつけた。
「鳴海へ向かう荷駄が、またしても川の者どもに邪魔をされ、橋を落とされ申した! 我が隊の若武者どもは、歯噛みして悔しがっておりまする! なぜ出撃の許可を下さらぬのか! 近隣の村落を焼き払い、川沿いの葦原をことごとく刈り倒し、草の根を分けてでも奴らを燻り出すべきでござろう!」
翔次は静かに筆を置き、荒い息を吐く次郎右衛門を冷徹な眼差しで見据えた。
「なりませぬ、岡部殿」
「何故じゃ! 指を咥えて米を焼かれ、橋を落とされるのを黙って見ておれと申すか! 我が今川の誇りは何処へ行った!」
「誇りで兵の腹は膨らみませぬ」
翔次の声は、真冬の湧き水のように冷淡であった。
「葦原を刈り倒せば、それだけで数百の兵が何日もかけて普請をせねばならぬ。その隙を突かれ、別の街道を襲われるのが関の山です。村を焼き払えばどうなるか。尾張の民はますます今川を怨み、信照への寄進に繋がりまする。敵の術中に自ら飛び込むような真似は断じて許しませぬぞ」
「ぐ……っ!」
「我が軍令は、太守様の御裁可を仰いだもの。――『兵を減らすな。無駄な戦はするな。挑発に乗るな』。この三箇条を破り、陣地を飛び出して敵を深追いした者は、いかに功名を立てようとも、軍律に照らし、問答無用で処断いたしまする」
「おのれ……! 青白い軍師風情が、武士の合戦を愚弄いたすか!」
次郎右衛門が佩刀の柄に手をかけた、その瞬間であった。
「そこまでにいたせ、次郎右衛門」
背後から響いた野太い一喝が、部屋の空気を圧した。
姿を現したのは、一族の長老格であり、前線の総軍監を務める岡部元信であった。元信は剛腕で次郎右衛門の肩を掴み、問答無用で引き戻した。
「元信様……! されど、これでは我らは――」
「下がるのじゃ。太守様の御前において、翔次殿の指図に従うと誓ったはず。兵糧の出納と陣立ての一切は、翔次殿に全権がある。不服があるならば、太守様に直接言上せよ」
元信の鋭い眼光に射すくめられ、次郎右衛門は悔しげに舌打ちをし、肩を怒らせて立ち去っていった。
障子が閉まり、部屋に再び静寂が戻る。
元信は重い足取りで翔次の前に進み出ると、どっかりと胡坐をかいた。
「……すまなんだな、翔次殿。血気盛んな若造どもは、目の前に敵の首がないと、己が戦っておることすら忘れおる」
「いえ……かたじけのうございます」
翔次は深々と頭を下げた。
元信のような歴戦の猛将が、不満を爆発させる将兵の前に立ち塞がり、防波堤となってくれているからこそ、翔次の軍令は辛うじて維持されていたのだ。
「されど、翔次殿」
元信は膝を叩き、苦渋に満ちた表情を浮かべた。
「前線の兵たちの苛立ちも、あながち無理からぬことじゃ。……戦死者は出ぬ。夜襲で首を獲られる者も、朱槍の男の槍で突き殺される者も、ここ半月、ただの一人もおらぬ。それ自体は、まことに奇跡のようなことじゃ。……じゃがな、皆、気味が悪いのじゃ」
「気味が、悪いでございますか」
「うむ。合戦とは、鬨の声を上げ、槍を合わせ、血を流して勝敗を決するもの。しかるに、今のこの尾張の戦は……まるで、見えぬ真綿で首を絞められておるようじゃ。敵の姿は見えず、血は流れず、ただ米と銭と牛馬の力だけがすり減ってゆく。……戦っておらぬのに、負けつつあるような錯覚に、古参の武者ほど耐えられぬのじゃよ」
元信の言葉は、翔次の胸の奥底にある不安と重なっていた。
翔次は無言で、手元の帳簿を元信の前に差し出した。
「岡部殿。これをご覧くだされ」
元信が帳面を覗き込む。
「これは……兵糧の収支帳か」
「はい。ここ半月、討死した者はほとんどおりませぬ。兵の損耗という点においては、我が軍の守りは成功しておりまする。……されど、兵糧の消費と、荷駄を運ぶ人足への扶持、落とされた橋や陣地の普請にかかる人手と銭は……先月の三倍に膨れ上がっておりまする」
元信の息が止まった。
「三倍じゃと……!?」
「敵は、兵を殺すことを第一とはしておりませぬ。米を焼き、橋を落とし、道を塞ぐことで、我が軍に『修復のための労力』と『護衛のための兵力』を浪費させておるのです。一万の軍勢を養う米を運ぶため、今や幾千もの兵が荷駄の護衛や街道の見張りに取られ、前線へ回せる兵が目に見えて減っておりまする。……血は流れておりませぬ。されど、我が軍の富と体力は、この尾張の泥土の底へと、音もなく吸い取られ続けておりまする」
元信は呻き声を上げ、太い腕を組んで天を仰いだ。
「……これが、信照の仕掛けた泥沼の実態か。なんと陰湿な、なんと底知れぬ企みよ……」
二人が重い沈黙に沈んでいたその時、陣屋の外の暗がりから、遠慮がちな足音が近づいてきた。
「……翔次殿。夜分に失礼仕る」
現れたのは、松平元康であった。
頭巾を目深に被り、近習一人だけを伴って訪れた若き当主の顔には、隠しきれぬ疲労が刻まれていたが、その眼差しには澄んだ光が宿っていた。
「元康殿! このような夜更けに、いかがなされました」
翔次が立ち上がると、元康は懐から小さな竹筒を取り出し、翔次の前の卓の上にそっと置いた。
「……三河より、良質の熊の胆と、甘草の粉末が届きましてござる。翔次殿、連日連夜の差配にて、胃の腑を痛めておられるとお聞きいたした。……某と同じ苦しみを味わわせておるかと思うと、居ても立っても居られず、持参いたした次第」
翔次は息を呑んだ。
熊の胆――薬種の中でも、容易には手に入らぬ貴重なものだ。それを、松平家の当主たる元康が、わざわざ届けに来てくれたのだ。
「元康殿……このような貴重なものを、某のような者に……」
「滅相もない!」
元康は首を振り、翔次の手を固く握りしめた。その手は温かく、わずかに震えていた。
「翔次殿。某は……某と三河の家臣どもは、貴殿にどれほど感謝しておるか知れませぬ。翔次殿がいなければ、先鋒を務める我が三河武士は、今頃、無謀な夜襲に駆り出され、泥の中で全滅しておりました」
元康の目元がわずかに赤くなった。
「三河は、貧しき国にござる。兵の一人一人が、民の一人一人が、某にとっては兄弟も同然の者たち……。その命を、翔次殿の知恵が救ってくださった。ここ半月、我が陣営からは、ただの一人の戦死者も出ておりませぬ。夜、陣屋に戻り、若衆たちが無事に握り飯を食う姿を見るたび……胸が詰まるのでござる」
「元康殿……」
「陣中では、翔次殿を『臆病』と陰口する者もおると聞き及ぶ。されど、某は断じて許しませぬ! 血を流さずに軍を保つことこそ、真の名将の業! 三河衆は、これよりも翔次殿の軍令を信じまする!」
元康の真っ直ぐな言葉が、翔次の胸の奥底に深々と染み渡っていった。
ここに来る前、珍名ゆえに蔑まれ、孤独に歴史書を読み耽るしかなかった青年。
戦国時代に放り出され、信長を死なせた罪悪感に苛まれながら、ただ生き残るために計算を尽くしてきた男。
その男の知恵が、今、生身の人間の命を救い、若き領主の心を支えている。
「……ありがとうございます、元康殿」
翔次は喉を詰まらせながら、深く頭を下げた。
「そのお言葉があれば、それがしは……いかなる誹謗にも耐えられまする」
元康を交え、三人は夜更けまで、温かい白湯をすすりながら尾張の情勢を語り合った。
三河衆の損害を抑えつつ、いかにして補給線を守るか。
翔次が授ける兵站の知恵――荷駄を小分けにせず、日を限ってまとめて運び、護衛の兵も集中させる構想に、元康も元信も目を輝かせて聞き入った。
知恵と信頼によって結ばれた三人の絆は、この泥沼の戦いの中で、鋼のように強固なものへと鍛え上げられていった。
――だが。
その損害を抑える守りの策が機能すればするほど、戦況はさらに異様な様相を呈していった。
翌朝、冷たい朝霧が立ち込める前線において、翔次は元信とともに物見台に登った。
見渡す限りの尾張平野。
鳴海城の彼方、清須へと続く街道筋には、人影一つ見当たらない。
今川軍がまとまった荷駄を運ぶと、信照方の野伏もまた、潮が引くように姿を消した。無理に護衛の大部隊へ突っ込むことは、敵の四天王も決してしない。
(……蜂須賀小六。やはり、あいつか)
翔次には、そうとしか思えなかった。
(……不気味だ)
翔次は物見台の手すりを握り締め、冷たい風に身を震わせた。
戦場に、血が流れていない。
敵も味方も、互いに兵を無駄に死なせぬ動きをしている。
今川軍が守りを固めれば、信照方は即座に引き、今川軍が隙を見せれば、信照方は物資だけを奪って去る。
互いに相手の急所を外しながら、相手の足元をすり減らし合うだけの、奇妙極まりない無血の戦であった。
鬨の声も聞こえない。
太鼓の音も響かない。
ただ、灰色の空から冷たい雨が降り注ぎ、大地を泥に変えてゆくだけ。
矢玉の飛び交う激戦よりも遥かに深く、冷酷な静寂が、尾張一円を重く包み込んでいた。
正午過ぎ、本丸の御座所において、太守・今川義元の前に収支帳が差し出された。
義元は筆を執ることなく、帳面の数字をじっと見つめていた。
その白粉を施した額に、隠しきれぬ疲労の影が差している。
「……翔次」
「ははッ」
「兵の命が守られておることは、大儀である。そなたの知恵、まことに見事と言うほかはない」
義元は静かに言った。されど、その声にはいつもの張りがなかった。
「されど……この帳面を見るがよい。駿河や遠江で蓄えておった金子が……湯水の如く、この尾張の泥土へと消えてゆく。合戦で城を落としたならば、領地を恩賞として与えることもできよう。されど、一寸の土地も得られぬまま、ただ現状を維持するためだけに、本国の血肉を削り続けねばならんとはな……」
義元は帳面を閉じ、深いため息をついた。
「血を流さずに予を討つつもりか、信照。……城を枕に討ち死にする武将ならば、予も幾千と見てきた。されど、銭と米の帳面をもって予の首を絞めに来る敵などと戦わねばならぬ日が来るとはな」
大名・今川義元の口から漏れた、痛切なる呟き。
それは戦と政の双方に長けた義元だからこそ、誰よりも深く理解できる苦境であった。
愚将であれば慢心したであろう。
だが、義元は一流の統治者であるがゆえに、戦わずして家の力を削り取られる恐ろしさを、骨の髄まで理解していた。
「……太守様」
翔次は板敷きに額を擦り付けた。
「我が軍が退かぬ限り、敵もまた退きませぬ。……されど、ここで我が軍が焦って前進すれば、敵の思う壺にございます。耐えねばなりませぬ。本国の富が続く限り、この守りの構えを保ち、敵の綻びを待つほかに……」
「分かっておる」
義元は静かに扇を振った。
「退かぬよ。退けば、尾張における今川の影響は失われ、あの男の勢いをさらに強めることになる。……耐えるのじゃな。翔次、予の命脈を、そなたの知恵で繋ぎ止めよ」
「御意にございます……!」
軍議を終え、陣屋へ戻る渡り廊下を歩きながら、翔次は激しい目眩を覚えた。
胸を突くような悪寒。
負けてはいないのだ。
兵を一人も死なせず、陣形を保ち、元康を救い、義元の信頼を得ている。
知恵を総動員して、今川軍を崩壊から守り続けている。
それなのに――なぜ、これほどまでに息苦しいのか。
(信照……)
翔次は立ち止まり、濡れた中庭の寒椿を見つめた。
紅い花弁が、泥の上に一ひら、音もなく落ちていた。
(お前は、どこまでこの世界を見通しているんだ……?)
戦わずして相手を削る。
血を流さずに国を干上がらせる。
翔次が知る兵法にも、その姿を重ねられぬ戦を、この永禄の世の泥沼の中で、平然と維持し続ける男。
姿を見せぬ魔王の掌の上で、今川義元も、翔次自身も、じわじわと力を奪われ、泥の底へと沈められつつあった。
そして――。
この不気味な静けさの裏側で、尾張の大地には、さらに異形の力が音もなく産声を上げようとしていた。
領地を直接広げることなく、城を次々と奪うこともなく、村々の心と米を己の側へ引き寄せる、これまでの戦国の常識には収まりきらぬ新たな力。
その芽が、尾張の各地で静かに根を張り始めていることを、翔次はまだ知る由もなかった。




