番外編 アルフォンス、古き日の思い出
「アルフォンス、初めまして、は?」
「………は、は………」
そこから言葉が紡げなくなって、僕は母上の後ろに隠れたのを覚えている。
こちらをまっすぐ見据える女の子は、僕よりも大分体が大きく、目付きは鋭く、にこりともしない子だった。
女の子は一歩前へ出ると、左足を後ろへ引き、恭しくお辞儀をしてくれた。その仕草は子供のものとは思えないぐらい、完成された仕草だった。
「初めまして、バーバリア家の長女、ババリアーナ・フォン・バーバリアと申しますわ」
女の子の隣では彼女の両親がにこにこしていた。
「やあ、アルフォンス様。ババリアーナは君と同い年なんだよ、仲良くしてくれると嬉しいな。ねえババリアーナ」
「うそだ!そんな大きな体で五歳なわけがない」
「大きな声が出るじゃないか、アルフォンス」
「ははは、ババリアーナは食べることが人一倍好きでね。おかわりは当たり前、おやつは二人前食べるんだよ」
女の子は彼女の父上に抱き上げられて、頭を思い切り撫でられていた。目付きがさらに鋭くなって、僕はすっかり怯えていた。
「お父様、下ろしてくださいませ。アルフォンス様と握手がしたいのです」
「やだ!」
「アルフォンス、そんな事言わないで」
母上のドレスに必死にしがみついていたのに、母上はそんな僕の背中を前へ押し出すものだから、僕は泣く寸前だった。
その時、目の前の女の子がおかしな声をあげた。
「にゃーん」
僕は固まった。女の子は猫が顔を洗うポーズを取っていた。
「……ねこ、なの?」
「黒猫ですわ」
「二本足で立ってるのに?」
「猫だって立ちたい時もありますわ」
女の子は手で顔をくし、くしと洗う仕草をしてみせてくれた。言われてみればその長い黒髪と黒いドレスは黒猫の毛並みのようだったし、目付きの悪さも明るいところに出た時の猫の目のようだった。
「ねこ、僕と同い年なの?」
「正真正銘、生まれて五年ですわ。ああ、ねこはお腹が空きました」
「ねこ、何が欲しいの」
「ねこはお肉が欲しいですわ、とびきりの羊肉が」
僕は後ろを振り返り、母上に肉を食べさせてやって、と頼んだ。
その場にいた大人たちが皆笑った。何故笑っているのか僕には分からなかった。
黒猫になった女の子は、会うたびにこっそり猫から見た世界の話をしてくれた。黒猫の大冒険の話に僕は胸を躍らせた。
黒猫の女の子はついぞ笑うことはなかったが、猫はそういうものだから、と何も思わなかった。時々目を細める仕草が、うちの庭に住み着いた野良猫とそっくりだった。
僕は母上の代わりに、僕より大きな黒猫の後ろをついて回るようになった。大きな足音を立てればはしたない、と叱られ、転んで泣けば泣くより傷口を洗いなさいと教えられた。
やがて僕らがノルト学園小等部に入学になる頃、黒猫は悲しそうな顔をして言った。
「今日は、貴方に謝らないといけないことがあるのです。……私、本当はねこではないのですわ」
僕は吹き出した。
「知ってるよ、ババリアーナ嬢。そんな大きなねこがいてたまるものか」
ババリアーナは目をぱちくりさせると、頬を膨らませた。
彼女は僕の面倒を見るのに必死で気付かなかったのだろう、二年の歳月を経て、僕なりに世の中を学び、御伽の世界を卒業してきたことに。
「私、ねこの生態を今日まで必死に学んできましたのに、無駄になりましたわ」
「そんなことないよ、僕は大きな黒猫のようなババリアーナが大好きになったから」
するとババリアーナはみるみる顔が真っ赤になった。ぷい、とそっぽを向き、『入学までに筆算を覚えておかないと』と言って、歩き出してしまった。
この黒猫は笑わない。代わりに可愛いものに目を細め、美味しいものに目を閉じる。拗ねたときは尻尾のようなポニーテールを揺らす。
そして僕は黒猫の背中について行く時、大きな安堵感を覚えるのだ。




