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誰かの涙の染みた、幸せ  作者: 高瀬海之


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前篇

毎朝四時更新の全三話です。













 向かい合って、目の前で幸福そうに微笑むエリーゼを見つめ、カシオンは遠くを見るように目を細めた。


 ああ、綺麗だ……。


 それ以外の言葉が思い浮かばない。

 本当にエリーゼが綺麗で、大切で……泣きたくなった。

 実際に何かがこみ上げてきて、慌てて片手で顔を覆う。


「どうしたの?」

「いや、目にゴミが……」

「やだ、大丈夫?」


 慌てて腰を浮かして、テーブル越しにこちらに身を乗り出してくるエリーゼを反対側の手でとどめ、大丈夫と繰り返す。

 これ使ってと差し出されたのは、彼女が刺繍を施した真白なハンカチ。

 それに見覚えがあった。


 絶望に零れた涙と声を拭っていたのもこのハンカチだ。


 洗われて綺麗になったハンカチに涙の残滓はない。

 元の真白な状態に戻っている。

 彼女と同じように……。



 このハンカチで涙を拭っていた彼女が、今は心底幸福そうに笑っている。



 だからこれで良かったのだ。

 貴女の幸せがオレの望み。

 それ以外は何も望まない。



 でもどこからか声が聞こえる。



 本当に良かったのか?

 この幸福は、この笑顔は、あの涙の上に成り立っているのに?

 涙が零れた事実は消えないのに?



 貴女は本当に幸福?



 無垢な笑顔で話の続きを促すエリーゼを見つめると、また一つ雫が零れる。

 慌てて拭ったハンカチはどこまでも白く、その眩しい白さから黙って目を背けた。










誰かの涙の染みた、幸せ












 静まり返っていた部屋の中にノックの音が響く。長い間を空けて、エリーゼは緩慢な動作で立ち上がり、仕方なくドアを開けた。

 ノックの主のヘンドリックは、エリーゼを見た途端酷く驚く。それを無視して告げた。


「少し休んでいたので、このような格好で申し訳ありません」


 心底疲れたような、抑揚のない声。昨日までの彼女とは正反対の態度に、ヘンドリックは自分の行動が既にエリーゼに知られていることを理解した。


「……入りますか?」


 頷くと、エリーゼはさっさと部屋の中へ戻っていく。呼び鈴で呼ばれたメイドは、室内にヘンドリックがいたことに驚きながら、慌ててもてなしの準備に引き返していった。

 すぐに整えられたテーブルを挟んで向かい合って、ヘンドリックは堪えきれない溜め息を零した。

 休んでいたと言いながら、寝ていた様子のない綺麗な装いのエリーゼ。

 彼女は、きっとずっと自分を待っていたのだろう。


「エリーゼ……」


 呼び掛けに答えることも、視線を合わせることもなく。彼女は俯いたままカップに手を伸ばす。


「エリーゼ……昨日はすまな」

「……まるな……」


 低い唸り声に遮られ、びくりと身体が硬直する。


「悪いと思ってないのに、謝るな!」


 怒鳴ったエリーゼは、手にしたカップの中身をヘンドリックに浴びせかけると、立ち上がって叫ぶ。


「ヘンドリック様っ、貴方が私をどんな風に思ってるのかは知りませんっ。だけど、私だって傷つくんです! 私にだって、嫌なことがある!! お姉様の匂いをさせて、私の前に現れないで!!」


 頬も瞳も透明な雫でしとどに濡らして、エリーゼは悲鳴のような声で訴えた。


「ヘンドリック様がお姉様をどう思ってるかなんてどうでもいいっ。他人が何を言ったって私は信じない! ……だけどっ、私の信じてる貴方が行動したことはっ、……信じるしかなくなるの!! ヘンドリック様は、お姉様を選んだのでしょう!?」


 目を見開いて問う彼女に、ヘンドリックはすぐに答えることが出来なかった。


「お姉様が好きだから、お姉様を選んだのでしょう? ……そうだって言ってよ! 私のことなんかどうでもいいんだって!! もう、そっちの方がずっと楽……っもう、辛すぎる……もう、許して……」


 エリーゼは両手で顔を覆うと、嗚咽を漏らしながらその場に座り込んだ。

 肩を震わせるエリーゼを見つめ咄嗟に腰を浮かせかけたヘンドリックは、しかし、力なく、もう一度座り直した。


 今の自分には、エリーゼに触れる資格などない。

 震えている肩にどんなに胸が痛んでも、起ってしまったことは取り戻せない。


 エリーゼを裏切り、この手で彼女の姉を抱いた事実は消えない。

 ヘンドリックは両の拳をギュッと握り締めた。


「……もう、行ってっ。お姉様の所でも、何処へでも行って! 判ってるでしょ!! 私は貴方を許せない。貴方は私を選ばない!! 欲しいものが手に入ったんだもの、代わりなんてもういらないでしょ? だったら、私達はもう終わりなんだから出て行って! 早くどっか行ってよ!!」


 こちらを見ることもなく、顔を覆った手の隙間から言葉を投げつけ続ける彼女を見つめ、深く深く息をついたヘンドリックは、意を決して立ち上がった。


「エリーゼ、すまなかった……」


 小さな呟きの後、遠ざかっていくヘンドリックの足音が聞こえ、やがてそれもドアの向こうに消えてなくなる。一人になったエリーゼは、更に大きな声を上げて泣き出した。



 彼が自分を好いていないことなど、ずっと昔から……それこそヘンドリックと出会った直後から知っていた。



 最初から、ヘンドリックは姉しか見ていなかったのだから……。



 伯爵家の一人息子のヘンドリックと子爵家次女のエリーゼの婚約が整ったのは、エリーゼが十歳の時。

 伯爵家と子爵家に共同事業の話が持ち上がり、その契約の証として子爵家の娘を次代の伯爵夫人にすることが決まったのだ。



 そして、流れるようにヘンドリックとエリーゼの婚約が整った。



 ……そのときのヘンドリックの絶望はどんなものだったのだろうか?



 エリーゼには想像することしか出来ないが、それはそれは衝撃的なものだったのだろう。

 そもそもヘンドリックは、エリーゼの五つ上の姉モリーンと同級生で……後から聞いた話だが、彼らは共同事業の話が出る前から、貴族学院で特に親しくしていたそうだ。


 だから、互いの家との婚姻話が出たとき、彼らは運命に狂喜したのではないだろうか?


 確かに子爵家は長女のモリーンが継ぐ予定だが、エリーゼもまだ幼い。契約の証として婚姻を急ぐなら、年頃のモリーンを嫁がせ、エリーゼに当主教育を施すように軌道修正するかも知れない。僅かに、期待しただろう。


 しかし、選ばれたのは幼い妹だった。


 彼らは運命の裏切りに一度は耐えた。狂喜から即座に叩き落とされても、なんとか堪えた。

 たとえ結ばれる相手が違っても、この契約は最愛との確かなえにし

 婚姻という契約がある限り、彼と彼女との関係は簡単には切れない。だから一旦は納得し、別れたのだと思う。



 ……でも、だからこそ彼らは諦めきれなかったのだろう。



 どうしても常に近く、互いの存在を感じるから……エリーゼを隣に置きながらも彼の目は常にモリーンを追い、モリーンも彼だけを望み続けた。



 エリーゼは、彼らの気持ちに気付いても、家の決定に従うことを選んだ。

 家格の関係上、こちらからは簡単に婚約が覆せないのは判っていた。それに、二人にどんな気持ちがあっても、子爵家としては、長年当主教育を施してきた長女と嫁に出すつもりだった次女の立場を簡単にすげ替えることなどしないだろうと考えた。


 そして何より、エリーゼ自身もヘンドリックを好ましいと思っていた。


 婚約者として引き合わされた日。

 貴族学院の制服を着て現れた長身のヘンドリックには、それまで接してきた同世代とは全く違う年上の男の魅力があって、一目で見惚れた。

 そして、彼のエスコートで庭園を散歩した時間は、幼いエリーゼにとって夢のような出来事だった。


 初めて女として扱われた日、エリーゼは初めて男女の性差を意識した。



 だからこそ彼が自分を女として見ていないことに……彼の想いの先に、気付いてしまった。



 彼はお姉様が好きなんだ。



 判っても、エリーゼも諦めなかった。

 自分たちは正しい婚約者で、いずれ結婚する定め。

 姉にも遠からず婚約者が出来るだろう。

 そうなったとき、確実に傷つく彼を支えるのは自分の役目と、いつの日か、彼が自分だけを見てくれるという期待を胸に、ヘンドリックを想い続けてきた。


 ……だが、そんな願いも打ち砕かれた。

 誰かを憎みはしない。

 だって、これは当然の結果。


「……それでも、好きだったんです。ヘンドリック様……」


 足下にすり寄ってきた柔らかい感触に顔を上げ、その小さな温もりを抱き上げ、抱き締める。

 ヘンドリックの暖かさにはまったく届かない、小さすぎる温もり。

 愛猫の背を撫でながら、エリーゼはその柔らかい毛の上に涙の粒を落とす。

 ……堪らなく人恋しかった。





◆◆◆◆◆





 メイドの手伝いを断り、他人の家なのに慣れた手つきで紅茶を淹れながら、カシオンはチラリとこの部屋の主に目をやる。

 窓辺のテーブルセットでぼんやりしたまま、身動ぎもしないエリーゼ。空ろな目は真っ赤に充血していて、頬に付いた筋もずっと泣いていたことを示している。


「どうぞ……」


 控え目に声を掛け、気を引くようにわざと音を立ててカップを置いた。

 陶器の触れ合う音に、空ろな瞳が瞬く。やがて、エリーゼが首を巡らせ、初めて二人の視線が絡んだ。

 自分が入室した時でさえ身動ぎしなかった彼女がやっと動きだして、ホッとカシオンの頬が緩む。

 カシオンを見上げて、エリーゼは首を傾げた。


 あれからどれくらい時間が経ったのだろう。


 ぼんやり考え、微かに笑うカシオンの顔を、初めて真面に見つめる。その途端、こみ上げてきたのは、涙。

 彼の姿が滲んで行くのに耐えられず、エリーゼは両手で顔を覆って俯いた。


「大丈夫……なわけないよな。好きなだけ泣けばいい。オレはここで待ってるから」


 椅子を引く音がして、僅かに顔を上げると向かいの椅子に彼が腰を下ろしていた。

 カシオンは辛そうに顔を曇らせ、まるで彼の方が病んでいるような表情でこちらを見ている。一文字に噛み締めた唇は、エリーゼの苦渋を読み取った辛さに耐えているのだろう。

 涙を浮かべているように細められた瞳に、エリーゼの胸に痛みが走る。ヘンドリックが去ってから閉ざしていた視界がやっと開き、感情が蘇った。

 我がことのように心を痛めてくれる友人を前にして、エリーゼはまた涙を止めることが出来なくなった。


「婚約、したのだから」

「うん」

「たとえ、彼が、お姉様を好きでも」

「うん」

「私が頑張れば」

「うん」

「やっていけると思ったの」

「うん」

「なのに、なのに……」

「うん」

「なのに……」

「うん」


 後は声にならなくて、テーブルに突っ伏してまた泣いた。





◆◆◆◆◆





「……ごめんなさい、みっともない姿を見せて」


 やっと収まってきた涙を白いハンカチで拭いながら謝るエリーゼを、カシオンは首を振って制した。


「オレは構わない。……大体の事情は、母上から聞いたから」


 事情……カシオンの言葉を反芻して、エリーゼはうっすらと口許に自嘲の笑みを浮かべた。

 まったく、情けないなぁ……と。


 ヘンドリックを失ってからひたすら部屋で泣きじゃくり、家族も拒絶していたのに、どうしても一人に耐えられなくなった。

 やがて思い浮かんだのが、母の親友の子爵夫人の息子で、幼馴染みのカシオンだった。


 互いの領地は遠く離れていても、王都の屋敷は比較的近く。社交のために領地から王都に出てくると、母親同士が互いの屋敷を行き来するものだから、その度に連れられて行っては、よく会って、よく遊んだ相手。字を覚えてからは領地にいる間も文通をして……同い年の彼とは、とても仲良くしていた。


 その関係が変わったのが、ヘンドリックと婚約した時。


 幼馴染みであっても、エリーゼたちはれっきとした貴族の、男と女。婚約者が出来た以上、不必要に異性と親しく過ごしてはいけない、それは不誠実な行為だと教えられた。

 多分、彼も同じように言われたのだろう。

 再会して嬉しくても、お互いに家名で呼び合うのが慣れなくて、つい溢れそうになる親しさを上手く制御できず……いつしか話をすることさえなくなった。これが大人になると言うことなのかと、寂しく思ったのを覚えている。


 だからこの何年か、同級生として学院で顔を合わせても殆ど話もしなかったのに、……急にカシオンのことを思い出した。


 それからは必死だった。

 なりふり構わず部屋を飛び出し、混乱している家中でやっと探し出した母に、カシオンに会いたい、会わせてください……と子供のように泣いて縋ったことしか覚えていない。


 そして願いは叶い、彼は今ここにいる。


 母がどんな風にカシオンの両親に説明したのか知らないが、本当にきてくれるとは思わなかった。

 これはエリーゼの勝手な願いで、カシオンが応える義理などないのに。ただの幼馴染みのわがままを叶えるためにきてくれて、ただ昔のようにそこにいてくれた。

 それだけでエリーゼの心は休まり。今やっと、こうしてカシオンと言葉を交わすところまで感情が帰ってきた。


 彼の優しさに感じ入り、エリーゼの自嘲の笑みが感謝の笑みに変わる。

 僅かでも笑顔を見せてくれるエリーゼに安心して、カシオンも微笑んだ。


「良かった。大分復活したみたいだな」

「うん、ありがとう」


 カシオンの淹れてくれた紅茶を飲む。

 最初から甘くしてあるそれが、心に染みてとても美味しかった。

 その優しさに、思わずまた泣いてしまいそうになって唇を噛み締める。そんなエリーゼを見つめ、カシオンはそっと聞いた。


「……もう、どうしようもないのか?」

「小母様から聞いたのではないの?」

「ちゃんとエリーゼから聞きたい」


 エリーゼと懐かしい声で呼ばれ、こみ上げてきたのは涙ではなかった。

 過去に置いてきた友人が、名前で呼んでくれた。そんなどうでもいいことが嬉しくて、張り詰めていた何かが切れて、笑ってしまう。


「ええ、最初から、全部間違いだったのだと思う。私なりに、婚約者として頑張ったんだけど……結局、お姉様には適わなかった」


 たまらず天井を見上げ、呟く。


「いつか、届くと思ってたのになぁ……」


 深く息を吐いて閉じた瞼の裏、記憶の底から溢れたのは、ヘンドリックに出会った日のこと。

 日差しが暖かく、ヘンドリックのスマートなエスコートに心が躍って、憧れて、心奪われた。


『エリーゼ嬢、これからよろしく』


 声変わりを済ませた低い声が心地よく。恭しく手のひらを掬い上げて、指先にキスしてくれた時、胸がときめいて、初めて男性を意識した。

 あの日から、彼に相応しい淑女になれるよう、未来の伯爵夫人として恥じないよう、常に彼を立て、彼に好まれるよう、愛されるよう努力してきた。



 でも結局、彼は姉を選んだ。



 それが、自分と重ねた年月など取るに足らないものだったと教えられているようで、余計にこの胸の苦しみを煽る。


 通じ合っていない想いなど、どれ程積み重ねても無駄だということなのだろうか? 積み重ねていけば、いつか…そう望むのは愚かなの?


 また零れた涙は、静かにエリーゼの頬を滑り落ちていく。

 それを止める術など自分にないのは判りきっていたから……カシオンはただエリーゼを見つめ言った。


「泣いて楽になるなら幾らでも泣けよ。我慢なんかしなくていい、オレが許してやるから」

「……ありがとう」


 ただ見守ってくれる人の温もりがありがたくて……。

 エリーゼは涙を止めることを諦めた。












読んで頂きありがとうございました。

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