中篇
あの後、なんとか立ち直り日常に戻ることが出来たのは、ただただカシオンがそばにいてくれたおかげだと思う。
平気なフリが壊れて泣き叫びそうになる度、絶妙のタイミングで庇ってくれるカシオンがいなかったらきっと、あの騒動の結末はもっと悲惨なものになっていただろう。
自分で立ち上がることすら出来なくなっていた間中、ずっと守っていてくれたカシオンの存在があったから、エリーゼはここまで歩いて来ることが出来た。
今ではかけがえのない存在になった人。
初夜を無事終えて、息を整えたエリーゼはベッドに俯せになったまま、隣で横になっているカシオンを見る。
「どうした?」
見られていることに気付いたカシオンがこちらを向く。その目をしっかり覗き込んで、溢れる感動を微笑みに変えて、呟いた。
「私の人生にカシオンがいてくれて良かったと思って」
「……っ。オレも……オレも、エリーゼに好きになってもらえて、良かった」
言って、カシオンは肘を突いて身体を起こすと、エリーゼに向かって身を屈める。
唇を掠める柔らかい感触。もっと触れたくて腕を伸ばして、彼を逃がさないよう再び抱きしめる。
あれから、四年の歳月が流れた。
この四年間、カシオンはずっと宝物のようにエリーゼを愛し守り、そして今日、正式な妻にしてくれた。
果てしない幸福感と共にカシオンを抱きしめて、過ぎ去った日々を思う。
四年前、エリーゼを捨てモリーンを選んだヘンドリック。
一線を越えてしまったヘンドリックとモリーンは、それをエリーゼに知られてしまったことを皮切りに、ついに親にも、互いへの恋情が止みがたく、既に身体を許してしまったこと、だからヘンドリックの婚約者をエリーゼからモリーンに変えて欲しいと願い出た。
事実を知った夫人たちは子供たちの軽率さに卒倒し、激高した父親たちは己の子の頬を張って、怒鳴りつけた。
二人して、何故そんな非道な真似が出来るのか!!
責められた二人が悲痛な思いで真実の愛を語っても、それはただの被害妄想でしかなく。引き裂かれた悲哀も、互いを諦めきれなかった情熱も、本人たちの認識と現実には、大きな隔たりがあった。
忍んでいって垣間見た、修羅場と化した自宅の居間の風景を思い出す。
頬を叩かれさめざめと泣く姉を見下ろし、父は悪鬼の表情で姉を問い詰めていた。
『それほど想い合っていたなら、何故っ……何故、エリーゼが婚約者に決まる前に言わなかった!』
『だってっ、私は家を継がなければならないでしょう! ずっとそう育てられてきた! だから、絶対反対されると思って……』
『……それほど薄情な親と思われていたとは……これでも私は優しい父でいたつもりだったのに……残念だよ、モリーン。お前が素直に打ち明けてくれていたなら、私は迷わずお前の望みを叶えた。愛する娘の幸せを願った。次期当主の強制などしなかった』
『え……?』
『お前が彼を好きだと言えば、私は喜んでお前を嫁に出した』
『そんな……ウソ……』
『知らなかったから、順序通りお前に婿を、エリーゼを嫁に出すことにしただけなのに……。モリーン、こんなことをしたらエリーゼがどれほど悲しむか考えなかったのか?』
『だってっ……、私、どうしても、ヘンドリックのことがす……!!』
『まだ自分の話か!? 貴族として、すべてを堪えて、婚約者に尽くそうとした妹の努力を踏みにじっておいて、お前に人の心はないのか!? ……人を、ましてや妹を不幸にしてまで、自分だけが幸せになりたいなんて、私たちは子育てを間違えた!』
『お父様っ……』
『もう父と呼ぶなっ。……どんな結果になるにしろ、人の不幸の上に幸せを築こうとしたお前たちが、この先も人並みの幸せを享受できる思うなっ』
姉に向けて吐き捨てるように浴びせられた父の言葉に愕然として、その後も続いたのだろう言い争いを最後まで聞くことは出来ず……エリーゼはそっとその場を去った。
そして結局、モリーンとヘンドリックの醜聞は隠すことが出来ず、二人は望み通り結婚することになった。
しかし、その代償は大きく。
ヘンドリックは廃嫡、伯爵家は彼の従兄が継ぐことになった。彼は生涯領地を出ずに、従兄の補佐をするそうだ。
当然モリーンも一緒に行くから、もう二度と二人はエリーゼの前に現れないと、すべてが終わった後父から教えられた。
せめてもの温情で、二人一緒にいさせてもらえるのだ。慎ましくなら、姉たちも幸せになれるのではないだろうか……。
そのことにどこかホッとして、エリーゼは騒動から二年後、カシオンとの婚約を決めた。
それから更に二年。
やっと今日、二人は夫婦になった。
抱き締めてくれる腕は、この腕がいい。
愛を囁いてくれる唇は、この唇がいい。
もう絶対に彼と離れたくない。
逞しい腕に抱かれ、熱い胸板に頬をすり寄せながら瞼を閉じる。触れ合った素肌はまだ、先刻までの熱さの余韻を残してしっとりと濡れていた。
幸せに浸るエリーゼの上、潜めた声が落ちてきた。
「なあ、エリーゼ。今更こんなことを言うのも変だけど、エリーゼはオレのことを卑怯だと思わなかったか?」
「……卑怯? どうして?」
「オレは……婚約者に裏切られて悲しんでるエリーゼの弱った心につけ込んだ。誰だって、辛くて苦しくて弱ってるときに優しくされたら、その人に縋りつきたくなるだろう。オレは、お前のそういう気持ちを利用したっていわれても反論できないことをした」
まるで懺悔するように苦しそうに紡ぐカシオンの言葉に驚いて顔を上げる。やはり、彼は辛そうに顔を歪めていた。
だから必死に首を横に振る。
「そんなっ、まさか誰かにそんなこと言われたの? ダメよカシオン、勝手に弱気にならないで! 私が貴方の存在にどれだけ救われたかっ」
「でもオレが、弱っていたエリーゼの心につけ込んだのは事実だ」
「違う! ……だって私、子供の頃ずっと貴方が好きだったんだもの!!」
「……エリーゼ?」
「私、貴方が好きだった。でも幼すぎて……、あの頃はそんな気持ちちっとも判ってなかった……自覚する前にヘンドリック様と婚約することになったから、これからは彼を好きにならなきゃって思った。でも、裏切られて……そしたらもう、貴方のことしか考えられなかった!」
だからあの日、母に泣いて縋って頼んだ。
もしかしたらカシオンにももう婚約者がいて、こんな願い聞き届けらないかも知れない。これは不誠実な行為だ……判っていても、願わずにいられなかった。
願いは叶って、貴方は来てくれた。
「会いに来てくれた日、エリーゼって呼ばれて、嬉しかった。また名前で呼び合えることが本当に嬉しくて……貴方が卑怯なら、私は薄情な女よ。婚約者に裏切られたことを口実に、嬉々として昔の男に会ったんだもの」
「エリーゼは薄情なんかじゃない!」
「ありがとう……カシオンに好きだって言われた日、本当に嬉しかった。貴方の優しさがただの同情じゃなく、私への愛情だって判って、これからも貴方といられることが嬉しかった……」
「エリーゼ……」
「婚約してからの毎日は、ヘンドリック様といた頃の自分が馬鹿に思えるくらい幸せで……貴方と再会して、本当に人を好きになるっていうのは、こういうことなんだってやっと判った。だから、切っ掛けや始まりがどうであっても、私はカシオンが隣にいてくれて、今凄く幸せよ」
心底安堵した溜め息がエリーゼの髪をくすぐる。
「それに、誰だって好きな人に振り向いて欲しいはず。好きな人に自分を見てもらえるよう努力することを責めるなんて、それこそ悪よ。実際私は、貴方の想いに救われた。私を想ってくれてありがとう、愛してるわ、カシオン」
安堵するカシオンにもっと安心を与えたくて、更に言葉を紡ぐとキューっと抱き締める腕の力が強くなった。
「……エリーゼは、本当に優しいな」
「カシオンがいるから、優しくなれるの」
抱き締めているエリーゼに見えないように、カシオンは淋しげな笑顔を浮かべた。
うっすら笑ったまま、優しく優しく……エリーゼの髪を梳く。大切な大切な宝を腕に抱いたまま、心の中で囁いた。
あれがすべてオレの企みだったと知っても貴女はオレを愛し続けてくれるだろうか?
貴女とヘンドリックを破滅に導いたのはオレだよ。
オレは、ずっとエリーゼが、エリーゼだけが好きだった。
幼い頃から大好きだった、綺麗な綺麗なエリーゼ。
大切に大切に、ずっとずっと、想い続けてたんだ。
◆◆◆◆◆
カシオンとエリーゼは、母親たちが社交シーズンに王都に出てくると必ず顔を合わせ、よく一緒に遊んだ。
しかし最初の頃、互いが領地に帰るときに、離れるのが嫌だと泣いて拒んだのは、単純に遊び相手と離れるのが嫌だっただけ。
それがいつ、こんな気持ちに変わったのだろう?
判らないまま、気付いたらカシオンは異性としてエリーゼを好きになっていた。
だから、文字が書けるようになってからは、せっせと手紙を書いた。まるで日記のような内容の手紙に、でもエリーゼからも同じ頻度で返事が来た。だから会えない間も想いは枯れることなく育ち続けた。
ある年から、エリーゼはずっと気にしていた疎らに散ったそばかすを薄化粧できれいに隠して、淑やかに笑うようになった。
それがまた美しく。
カシオンが見つめるエリーゼは、再会する度どんどん綺麗になっていった。それが事実かなど関係ない、ただ恋するカシオンからはそう見えた。
だから、自分も彼女に相応しい立派な男になりたいと思った。
淑女たる彼女に相応しい、立派な紳士になって、いつか……。
願って努力を続ける息子の気持ちなど、とっくに両親も把握していたのだろう。理由など聞かれず、望めば望んだだけ学びの術を与えてくれた。
王都の貴族学院に入学する年、これからは学院でいつでも会えるねと手紙を書いた。……でも、いつまで経っても返事は来なかった。
そのときに気付くべきだったのだと思う。
変わっていく現実に。
自分たちが大人になっていく事実に。
入学を控えて王都の屋敷に移り住んだ日、夕食後両親に呼ばれて知らされたのは、生まれて初めての絶望。
『エリーゼに……婚約者が、出来た?』
『ええ、お相手は伯爵家の跡取りの……』
『だから、学院で会ってもこれまでのように接してはいけない……』
『これからはお互いに紳士淑女として節度を保った距離を……』
呆然とするカシオンに、両親は自身が辛い思いをしているような顔で必死に言い聞かせた。
実際は半分も聞き取れてはいなかったけれど、ぎゅっと母親に抱きしめられた瞬間、カシオンは呼吸することを思い出し、反射的に母の背中に腕を回し……そして頷いた。
『判りました。父上母上、ご心配をおかけしてすみません』
入学式で再会したエリーゼはやはり……綺麗だった。
貴族学院の制服がよく似合っていて、同じ服装の群れの中にいても一層明るくまばゆくて、探すつもりはなかったのに、すぐに見つけてしまった。
彼女の隣には、上級生の色のタイを締めた男がいた。
きっとあれが、彼女の婚約者、彼女の未来の夫。
羨望が勝手に視界を滲ませる。
伝えることの出来なかった想い。
最早抱いていてはいけない想い。
全部を抱きしめて、切なく願った。
『……幸せに、誰よりも幸せになって、エリーゼ』
そのまま何も気付かなければ良かったのだろう。
でも、カシオンは気付いてしまった。
エリーゼの婚約者は、よりにもよって彼女の姉を想っている。否、それどころか、モリーンとヘンドリックのまなざしには、消しきれない互いへの思慕が滲んでいて……。
そのとき、カシオンの中に沸き上がったのは、憤怒と憎悪だった。
エリーゼがいるのに、何故他の女に愛情を抱いてる?
しかも彼女の姉?
あの男は鬼畜か何かなのか?
エリーゼに尽くされて、どうしてそんな非道な真似が出来る!?
やがて……もっと痛ましい事実に気付いた時、カシオンは胸が裂けるかと思った。
エリーゼも、この悍ましい事実に気付いている。
あの男の隣にいる時のエリーゼは、いつも切なそうな苦しそうな顔で隣の男を見て、男の見つめる先を確認して、諦めたように淋しそうに笑うのだ。
どうして彼女にあんな顔をさせるんだ、婚約者なのに!!
カシオンが願っても手に入れられなかったものを易々と手に入れておきながら放置するヘンドリックへの憎悪は尽きることなく。
歯止めのきかない激情は、どす黒い策謀を生んだ。
エリーゼが波乱を望んでいないとしても、カシオンは許さなかった。
だから、企みを持ってモリーンに近づいた。
特に親しかったのはエリーゼだが、モリーンとカシオンも幼馴染み。学院で偶然を装って、お久しぶりですと声をかけ名乗ると、彼女はカシオンの成長ぶりに目を見張った後、エリーゼによく似た顔を綻ばせ再会を喜んでくれた。
それから後輩として徐々に彼女と親しくなり……唆し焚きつけた。
本当に愛する人と引き裂かれたから、結婚はもうしない。後継には、エリーゼの子供を貰うのだと淋しそうに言う彼女の外見はエリーゼとよく似ていたが、その内面の醜悪さは、エリーゼに似ても似つかないもの。
実の妹をどれだけ愚弄すれば気が済むのだと罵倒したい内心を隠したまま、必死にその心に寄り添い、励ます演技をした。
それが真実の愛ならば決して諦めてはいけない。愛のない結婚は不幸だ、相手の幸せを本当に願うなら、モリーンが勇気を出すべきだ、と囁きかけた。
ヘンドリックを想いきれない事実に悩んでいたモリーンは、最初こそそんな恥知らずなことは出来ないと拒んでいたが……。
カシオンの励ましと、見つめ合うヘンドリックから滲む変わらぬ恋情に、次第にその気になっていった。
そんなに深く想い合っているのなら、きっとみんな判ってくれる。
無責任で優しい聞き心地のいい言葉は、疲れていた彼女の心を確かに慰め、現実に立ち向かう力を与えた。
ありがとう、頑張ってみるねと感謝を述べて立ち去る彼女を汚物のような目で見つめるカシオンの思惑に気付かぬまま、モリーンは再びヘンドリックへ手を伸ばすことを決めた。
見つめる先で二人のまとう雰囲気が変わった日のこと、よく覚えている。
一緒にいる二人から滲み出る何かにエリーゼも敏感に気付いて……彼女は、真っ青になって走り去った。
その今にも泣き出しそうな表情がぎゅっと胸を鷲掴んで、今すぐ追いかけたい衝動に駆られたが、なんとか堪える。
同じように、慌てて後を追おうとしたヘンドリックをモリーンが引き止めていた。
しっかり彼が立ち止まったのを確認して、カシオンは二人から目を背けた。
ごめん、ごめんね、エリーゼ。
でも、これもすべてエリーゼのため。
このままヘンドリックの妻になっても、エリーゼは絶対幸せにはなれない。
だが自分なら、惜しみない愛情でエリーゼを幸せに出来る。
姉と婚約者が不貞を犯し捨てられたという醜聞はエリーゼを深く傷つけるだろうが、その傷を癒して、その上で幸せにする自信はあった。
いつでも望んだのはたった一つ。
エリーゼの幸せだけ。
それだけの想いを抱え続けた時間。
想いは実って、こうして最愛を抱き締めている。
幸せな時間。
貴女も幸せだと言ってくれた。
その一言を言わせるためにそばにいた。汚い策略で手に入れたのだと言われれば、それまでだけれど……この想いだけは真実だ。
想いの在り方は様々。
誰にも非難などさせない。
けれど昔、真っ向から非難してきた人が、一人だけいた。
カシオンがエリーゼの隣に収まったことを知ったモリーンが零した言葉からすべてを悟った、ヘンドリックだ。
読んで頂きありがとうございました。




